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被爆国と「核の傘」、日本は二つの立場の接点どう作る 岡本行夫さんならどう考えた

揺れる世界 日本の針路 更新日: 公開日:
安保関連法案の衆院特別委で公述人として意見陳述する岡本行夫さん
安保関連法案の衆院特別委で公述人として意見陳述する岡本行夫さん=2015年7月13日、飯塚晋一撮影

核を作らず、持たず、持ち込ませず、という非核三原則は、佐藤栄作首相が1967年12月の衆院予算委員会で初めて答弁した。岸田文雄首相も堅持する考えを表明している。岸田首相は、8月に米ニューヨークで開かれる核拡散防止条約(NPT)再検討会議に出席する。

ただ、ロシアや北朝鮮による「核の脅迫」の影響から、日本では北大西洋条約機構(NATO)の一部が採る「核の共有」を巡る議論を求める声も起きている。米国もこうした事態を憂慮し、バイデン大統領が5月に日韓両国を歴訪した際、「核の傘」を含む拡大抑止力の提供を改めて確約した。

ただ、これは新しい話ではない。北朝鮮が2006年10月に次いで、09年5月に二度目の核実験を行った際も、日本の世論は動揺した。このとき、米国は日本と09年から、韓国とは10年から、それぞれ米国の「核の傘」の信頼性を確認する拡大抑止協議を定期的に始めた。

日米の関係者らによれば、米国は拡大抑止協議の際、日韓の当局者らに大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射基地や核ミサイルを搭載した戦略原子力潜水艦の内部を公開していた。米側の関係者は当時、米国の意図について「極秘施設を見せることで、日本や韓国から信頼感を得たいと考えている」と語っていた。

ただ、著書で岡本さんはこの20年も前、米国の核極秘施設を視察したことを明かしている。岡本さんは1987年夏、米ノースダコタ州の戦略空軍基地で核トマホークミサイルを搭載したB52戦略爆撃機の運用を視察した。ICBMなどが配備されたワイオミング州の空軍基地を訪れ、ワシントン州の海軍基地では戦略原潜の内部も視察したという。当時は外務省北米局の安全保障課長だった。

視察などを経て、岡本さんが出した結論は「日本も核武装すべきだ」という主張に対して「人も、場所も無理だからおやめさない」と告げることだった。

『危機の外交 岡本行夫自伝』
『危機の外交 岡本行夫自伝』(新潮社)

ミサイルを格納するサイロは敵の攻撃で一度に破壊されないよう広大な地域に散開していた。岡本さんは「その広がりは四国の面積に匹敵する。このことだけをもってしても、日本の核武装などは非現実的な話だと思い知らされた」と語っている。私は岡本さんから生前、「この狭い日本のどこで、核実験をするのかね」と言われたことを思い出した。

このほか、岡本さんは著書で、日本の核武装が無理な理由として、①日本人の核兵器に対する強い嫌悪感、②NPTからの脱退による孤立、③日米原子力協定に基づき、米国が日本へのウラン燃料供給を停止することでの日本の原子力発電への打撃も挙げた。

岡本さんは「作らず、持たず」を否定する一方、「持ち込ませず」を巡る疑惑について紹介している。米艦船が、核兵器を積んだまま日本に寄港しているのではないかという疑惑だが、これについて日本政府は「米国は非核三原則をよく知っているので、違反するはずがない」と答弁した。

これに対し、米側では1960年代から「日本は核兵器の一時寄港は認めているはずで、米国をウソつきの立場に置くことは同盟を傷つける」という反論が出ていた。この論争は、ブッシュ大統領(父)が91年に水上艦艇への核兵器搭載を止めるまで続いた。

核持ち込み疑惑が高まり、帰港反対の動きが強まる中、横須賀に入港した米空母ミッドウェー
核持ち込み疑惑が高まり、帰港反対の動きが強まる中、横須賀に入港した米空母ミッドウェー=1981年6月5日、朝日新聞社撮影

米国は同時に、核兵器の存在も不存在も明らかにしない「NCND政策」を取っていた。岡本さんは米海軍艦船が核を積んでいないと宣明しない限り、港には入れないとする、いわゆる「神戸方式」を懸念していた。岡本さんは著書で「日本の自治体が次々に『神戸方式』に伝染すれば、日米安保体制は崩壊する」と指摘した。

岡本さんは同時に著書で「日本人が絶対的に忌避するのは核兵器である。広島、長崎を経験した国の当然の国民感情である。しかし、日本が自国を守るためには米国の核の傘が必要である。この二つの事実の絶えざる衝突が、日本の防衛政策を複雑なものにしている」と指摘した。

現在、日本政府が取り得る最大限の措置は、岡田克也外相(当時)が2010年に行った答弁で説明されている。答弁は、非核三原則を堅持する一方、緊急事態などで、核を搭載した米艦船の一時寄港については「その時の政権がギリギリの判断を、政権の命運をかけて行う」とした。岸田首相もこの答弁を踏襲する考えを示している。

今、「核の共有」を巡る議論を求めている人々が懸念しているのは、「日本は、米国の核の傘に対して受け身に過ぎる。せめて、有事の際に一時寄港を求めるくらいの関与ができるようにすべきではないか」といったものだ。

岡本さんは著書で、日本が米国の核政策に関与したエピソードを紹介している。

それは1986年2月に起きた。当時、米国とソ連は中距離核戦力(INF)交渉を行っていた。中距離核は射程500~5500キロの射程を持つミサイルに搭載され、主にソ連と欧州間の戦争での使用が想定されていた兵器だったという。

ソ連は、欧州には届くが米国には届かない中距離核ミサイルSS20をウラル山脈の西側に配備した。NATO加盟の欧州諸国と米国との分断を狙ったものだ。SS20は米国に届かないため、米国がSS20の脅威に対し、欧州諸国に核の傘を提供しないのではないかという懸念が生まれた。

西ドイツは危機感を覚え、シュミット西独首相は反核感情の強い西独内にパーシングⅡなどの中距離核の導入を決めた。別の日本政府関係者によれば、当時の西独では、核の配備を巡って様々な場所で激論が交わされたという。

この状況に至り、米国とソ連はINF交渉での妥結に動いた。岡本さんの著書によれば、1986年2月6日、レーガン米大統領から中曽根康弘首相に親書が届けられた。「欧州部に展開するソ連のSS20を全廃し、アジア部のSS20を半減させる案をゴルバチョフ書記長に提案したい」というものだった。

ワシントンの米航空宇宙博物館には、INF条約で米ソが廃棄に踏み切った旧ソ連の弾道ミサイル「SS-20」(中央左)と米国の「パーシングⅡ」(同右)が並んで展示されている=ランハム裕子撮影

岡本さんによれば、日本政府は危機感を抱いた。米欧の分断は解決されても、今度は日本に米国の「核の傘」が提供されない懸念が生まれるからだ。岡本さんらは外務省内で緊急協議を行い、三つの結論をまとめたという。①米国に直ちに反応する、②米国には、アジアでの核バランス論議が起こって、米国自身の太平洋戦略に跳ね返ることを指摘する、③日本は米ソ合意の成立を妨害してはならない。ただ反対するのではなく、現実的な代替案を用意する――というものだった。

岡本さんは著書で、米国が自国の核政策に関与されることを非常に嫌う事実も紹介していた。干渉や介入だと受け止められれば、逆効果になると考え、「米ソ合意の邪魔をしない」と結論づけたのだろう。最終的に岡本さんたちの活躍で、米国は当初の対ソ提案を修正した。レーガン大統領は87年12月、ソ連全土からのSS20の撤去を勝ち取ったという。岡本さんはこのエピソードを著書で「日米同盟の金字塔」と表現した。

著書には、岡本さんたちが独自の代替案を考えた経緯も紹介されている。このエピソードに限らず、沖縄の基地移転や湾岸戦争への貢献策などでも、一生懸命解決案を練った様子がうかがえる。

岡本さんは元外交官らしく、日米安保体制を非常に大切に考えていたが、米国に無条件で追従してはいけないと常に語っていた。「常に自分の頭で考えなさい」と言われたこともある。

「非核三原則」についての議論もそうであるべきではないか。岡本さんであれば、そう語っただろう。