小指にしていた小さなルビーの指輪が、カランカランと音を立てて浴槽に落ちた。「あっ」と声を出したが拾い上げる間もなく、指輪はシャワーの水とともに暗い排水口へ吸い込まれていった。
2000年にカンボジア西部バッタンバンで亡くなった私の祖母が唯一残したもの。それがカンボジア産の小さなルビーだった。かつてポル・ポト派の支配地域だったパイリンやバッタンバンは、有名な宝石の産地だった。なかでもルビーは高価で、ポル・ポト派の資金源になったといわれる。
カンボジアのルビーは今ではほとんど取れない。大事にしていたつもりだったが……。溜息をつきながら私は旅支度をした。今年4月初め。新型コロナウイルスが猛威を振るうなか、私は日本へと一時帰国することにしていた。
カンボジアは新型コロナウイルスの感染抑制に関して、意外にも奮闘していた。意外にも、というのは失礼だが、医療人材、資材、資金、設備、すべてにおいて不足しているこの国で、爆発的な感染が起きればすぐに「医療崩壊」となることは容易に想像できた。そのなかで、カンボジアの感染者は9月24日現在、合計で274人、死者ゼロ。感染者のほとんどすべてが「外国人か外国由来(またはその濃厚接触者)」で、経路不明の市中感染は確認されていない。この奮闘ぶりは、あの4月、だれも予測しなかった。
カンボジアで最初のコロナ感染者が確認されたのは1月下旬のこと。武漢からシアヌークビルに来訪した中国人男性だった。中国とのつながりが深い国だけに、感染爆発は時間の問題、と決めつけていた自分が恥ずかしい。その後、この男性から感染が広がることはなく、入国規制をするわけでもないのに、新たな感染者も確認されないまま2月、カンボジアは世界が驚くような行動に出た。
前触れは、2月5日、カンボジアのフン・セン首相が中国・北京を訪れたことだった。首相は「都市封鎖されている武漢を訪れて、帰国できずにいるカンボジア人留学生を励ましたい」と中国政府に申し出ていた。その願いはさすがに却下されたが、首相は北京を訪問し、習近平国家主席らと会談、中国のコロナ対策への支持姿勢を明らかにした。中国側も「コロナ後、初めて中国を訪れた外国要人」として首相を手厚くもてなした。
このころフン・セン首相は、コロナを過度に恐れないように、と国民に呼びかけていた。1月末の演説では「本当の病はソーシャルメディアに流れる誤った情報に基づく恐怖心だ」と述べ、自分はマスクをつけない姿勢を貫いた。言っていることは正しいが、マスクを着けないこととの関連性は怪しい。中国訪問の際も、「中国側が用意したマスクをつけず、武漢視察から戻った政権幹部と握手を交わした」との報道があった。このとき、首相の呼びかけに応じるように、街でもマスクをする人が激減した。忖度というか、同調圧力というか、ふだん排気ガス除けにしていたマスクさえ、つけるのがはばかられる空気があった。
そしてこの「独自のコロナ対応」は2月13日のクルーズ船ウエステルダム号受け入れ決定で、ピークを迎える。乗客・乗員2000人以上のウエステルダム号は香港から横浜港へと向かっていたが、日本を含む5カ国・地域で寄港を拒否されていた。フン・セン首相はこのクルーズ船を、カンボジアのシアヌークビル港に迎えることを発表し、13日に同号は着岸した。
フン・セン首相は「これこそが国際的連帯というものだ」と高らかに語り、メディアを引き連れてシアヌークビル港に赴き、自ら下船する乗客たちを出迎えた。そして乗客・乗員は特別機でプノンペンへと飛び、世界各地へと帰っていった。その後、ウエステルダム号の乗員・乗客に陽性者がいたという確実な報道はなかった。伝えられていないだけかもしれないが、いずれにしても、フン・セン首相はかなり大きな、そして危険性の高い賭けに勝ったようだ。
ただ、首相の決断を単純に称賛していいものではない。首相がどんな科学的根拠をもって「勝算あり」と踏んだのか、私たちにはわからない。ワクチンや治療薬は影も形もなかった。感染確認の方法も確かなものはなく、感染者の治療態勢さえ整っていたかどうか不明。おまけにプノンペンに戻った乗客たちに、政府はバスによる「市内観光」までプレゼントしている。フン・セン首相がクルーズ船受入れに踏み切れたのは、ひとえに「反対する人がいなかった」からなのだ。
3月上旬に感染2例目が確認されると、政府はそれまでの楽観姿勢を一転させ、厳しい対応を開始した。人が集まる娯楽施設を閉鎖し、全国の学校を休校とし、感染者が急増している国々からの渡航を禁じた。観光ビザや到着ビザの発給を停止し、世界屈指の観光地であるアンコールワット遺跡から外国人が消えた。
最も心配されたのが4月半ばのクメール正月の大連休だった。カンボジア人にとって最も大切な年中行事であり、都心部で働いていた人たちが一斉に故郷へと移動する。政府はこの大連休を大胆にも延期した。「いつになるかは分からないが延期!」という号令のもと、連休は平日となり、この期間に休暇をとる社員は労働省に登録され、州をまたぐ移動が禁止された。
それが奏功したのかどうか分からないが、カンボジアは爆発的な市中感染を抑えている。そして、「ウイルスを持ち込ませるな」ということで、防疫策を空港での水際対策に集中している。
とはいえ、カンボジアは世界の中でも、入国規制が緩い国のひとつだろう。感染者が急増したインドネシアとマレーシアからの渡航は禁じているが、そのほかの国については「禁止」はしていない。観光ビザは今も発給していないが、ビジネスビザの事前取得と、出発前と到着時のPCR検査、関連経費を担保するための2000ドルのデポジット、保険の取得など条件を満たせば前述2カ国を除き、入国は可能だ。
日本についても、カンボジアは現在まで一貫して入国を禁止していない。
そのことが私を悩ませていた。帰ろうと思えば、帰れる。ではなぜ帰らない? 日々この判断を迫られていたのだ。そしてそのせめぎ合いの中で、自分の仕事や暮らしや、人生そのものについて深く考えるようになった。
冒頭に戻る。4月4日にカンボジアを出発した私は、5日早朝に成田空港に着いた。公共交通機関が使えないので、仏様のような友人に自家用車を出して迎えに来てもらった。それから1カ月でカンボジアに戻るつもりが、結局戻ったのは9月18日。5カ月もたっていた。
私はカンボジアで、現地邦人向けのフリーペーパーを毎月発行しているが、この5か月間はすべてリモートで作業をした。取材は先方さえよければオンラインでできるし、執筆や編集はそもそもが場所を選ばないパソコン上での仕事だ。印刷所へもデータで入稿し、確認用のゲラは印刷所からPDFで送られてくる。納税だってデータのやりとりで可能だった。オンラインでは難しいと思っていた営業活動も、「こんな時期ですから」と、かえって対面ではない方がスムーズだったりもした。オンラインで決してできないのは、本の配達と集金。これはもともと優秀な現地スタッフたちに任せていた部分なので、私がいなくても十分にこなせた。
そうなると、考えるのである。私がカンボジアに存在する意味ってなんだろう、と。
そこへ追い打ちをかけるように、テレビからあの言葉が投げつけられる。「不要不急の外出はお控えください」。毎日毎日それを言われると、外出も帰任も控えている自分のすべてが不要不急にみえてきた。「あたしの仕事ってカンボジアには不要不急なんだ。あれ、ということは、あたしの存在も不要不急なのか」。まるでカンボジアに「がんばって感染抑えているし、あなたはいらないから来ないでちょうだい」と、言われたかのような被害妄想に陥った。カンボジアに居る意味が分からなくなったまま、私はずるずると帰任時期を延ばしていた。
新型コロナウイルスは、社会における仕事や人間の価値を選別するために出現したのだろうか。近未来小説のような展開を想像してぞっとした。私がついに「帰ろう」と思ったのは、ビザの有効期限が切れるから。「不要不急」への答えはついに見つけられなかった。
9月20日、空港でのPCR検査が無事陰性となり、強制隔離されていたホテルから解放された。街を走ると、生ぬるくてほこりっぽい風がほおに当たった。「ねじが緩むなあ」などと思いながら泥色のメコン川の流れを見ていたら、体の中で止まっていた何かが動き出す気がした。あれをしたい、これをしたいという欲が、静かに湧き上がってくるのを感じた。「自分の目でしか見ることができないものが、まだたくさんある」と。
カンボジアで暮らして10年以上が過ぎ、すべてに見慣れてしまった気がしていた。いろいろなことを分かった気がしていた。カンボジアに限らず、この足でその場に出向き、目で見て、手で触れてみたいことが世界にはまだいっぱいあると思った。
コロナがくれたロングバケーションで、私の仕事の技術的な側面は大いに変化し、「そこに居なくてもできる仕事」の幅は格段に広がった。コロナ後もそれは続けたい。そしてだからこそ、「そこに居なくてはできない仕事」とは何かを考え、じっくり取り組みたいと思った。
その仕事は、不急かもしれないけど、決して不要ではない。四文字熟語のように当たり前のように「不要不急」と使うのは、どうか止めてほしい、と心から思った。2つの言葉は決してセットでも同意でもないからだ。
自宅にたどり着いてまず、部屋の大掃除をした。日本の住宅では考えられないが、たてつけの悪い窓から入ったほこりやら、砂やら、小枝やらが散乱していた。そりゃそうだ、半年近くだれも入っていない部屋なのだから。
浴槽を掃除しているとき、すみっこの石鹸置きに小さな光が見えた。何だろうと見たら、あの排水口に消えたはずのルビーの指輪だった。声をあげて飛びのいてしまった。ちょっとしたホラー? いやいや、それは失礼と思い直して手にとったら、「おかえりなさい」と言われている気がした。もう少し、この国に居ていいみたいだ。