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カンボジアのおばあちゃんのこと

トッケイ7回鳴いたかな。 更新日: 公開日:
シンガポール滞在中の千代ばあさん。1970年代とみられる

17年勤めた新聞社を辞め、カンボジアに住み始めて9年になる。幾度となく「なぜカンボジアへ来たのか」を問われるけれど、理由はひとつではないから、いつも答えに困る。だれにでも納得いくような分かりやすい理由があったわけではない。カンボジアが好きだったかといえば、言葉も知らないし、南国の暑さはちょっと苦手なぐらいだった。

ただ、我が家にはカンボジアとの深くて複雑な縁があった。

私には、梶原千代という母方の祖母がいる。1913年生まれ、2000年没。その人の墓は、カンボジア西部のバッタンバンの寺にある。まったくの日本人である千代の墓がなぜ、このタイ国境に近い町にあるのか。

カンボジアで今も眠る千代ばあさんの墓=カンボジア西部バッタンバン州で

千代は1950年代前半、日本で離婚し、独立間もないカンボジアに移住した。太平洋戦争前、千代は何人もの「南方留学生」を下宿させていたが、その中の一人であるカンボジア人医学生が、カンボジア政府の外務官僚となって働いており、「お母さん、ひとりならばカンボジアへ来なさい」と呼んでくれたのだという。

戦後間もない日本、離婚した女性の肩身は狭く、それ以上に3人の子どもたちを手放さざるをえなかった千代は、日本に心の置き所がなかったに違いない。こうして千代の第二だか、第三だかの人生が始まった、と聞いている。

千代の暮らしたカンボジアは、シハヌーク殿下(当時)の指揮のもと、新しい国造りへの意欲にあふれていた。当時の映画を見ると、首都プノンペンは、文化と芸術を愛した殿下の影響で「東洋のパリ」とも呼ばれ、最先端の音楽やファッションで彩られていたことが分かる。

当時の日本人にとってカンボジアは、まだ地雷と貧困の国ではなかった。

1963年には、松竹映画「あの橋の畔(ほとり)で」がカンボジアで撮影されている。すれ違いのラブストーリーを描く3部作のひとつで、監督は野村芳太郎。建築家の主人公がカンボジア勤務になるという話で、プノンペンやシェムリアップのアンコールワットが登場する。1968年には作家の向田邦子さんもカンボジアを旅行で訪れたようで、その様子をエッセイに残している。

千代は、自分をカンボジアへ招いた元南方留学生を養子とし、1970年代にはシンガポール大使に就任した彼とともにシンガポールへ赴任した。「大使の母」ということで、特別にカンボジアのパスポートが与えられたという。そして1975年。ポル・ポト派政権の樹立とともに、ふたりは戻るべき国を失った。シンガポールからフランスへと逃れ、それから約20年間、パリの下町でカンボジア料理のレストランを開きながら暮らした。ふたりがカンボジアへ戻ったのは、内戦が終結した翌年、1992年のようだ。

1969年ごろの千代ばあさんと、私=群馬県高崎市で

私は2009年、42歳のときにカンボジアに移り住んだ。千代が日本に置き去りにした子どものうち、末っ子が私の母なので、我が家では「カンボジア」は縁深くとも、必ずしも愛すべき国ではなかった。私が移住する、と伝えたときには母はショックのあまり寝込んでしまった。でもこの国に来た理由について、私は「祖母がきっかけです」と言ったことは一度もない。実際、違うから。自分の身に起きたことを選びとっていったら、いつの間にかここに来ていたのだ。千代のことは、知ってはいたけど、頭になかった。母を悲しませた祖母のことなど、人生の選択の理由にはしたくなかった。

それでも今、この国で10年近くを暮らしてみると、やはり私は千代に導かれたのかもしれないと思うようになった。カンボジア人とともに暮らし、カンボジア人に看取られて逝った千代は、私にこの国を、人々を、見せたかったのだろうか、とも思う。何も持たずに漂着した異邦人を受け入れ、見捨てなかったカンボジア。千代もまた、内戦で自らを傷つけたこの国を見捨てることはなく、この国で眠ることを選んだ。異質なものが「ともに生きる」とは、欠けた互いを許し合い、目をそらさず向き合い続けることだ。千代は人生の半分でそれを成し得ず、だからこそ、半分でそれを貫こうとした。

プノンペンの街の様子。マッチ箱のような家屋と建設中のビルが混在する。

カンボジアは今、復興から成長の時代に突入した。毎年7%前後の高い経済成長率を維持し、都市部は日ごとに姿を変えている。光あるところには欲がうずまく。人口1500万人の小国に、カネと人がどっとなだれ込む。一方で、最近のカンボジアをめぐる報道は暗い話題が多い。729日に実施される総選挙を前に、フン・セン政権は法律改正による「野党解党」という暴挙でライバルを根こそぎした。何かと口うるさい欧米系の新聞を廃刊に追い込み、国民の言動はフェイスブックで監視する。国際的な批判は強まるが、中国の経済的な支援を背景に、フン・セン政権はますます鼻息が荒い。

民主主義国として欠けたカンボジアを憂うとき、私は自分の立ち位置を考える。欠けていることを批判するのも大切だが、この国で暮らす私には、欠けた部分から目をそらさず、向き合い続けることが必要だ。逃げることはできない。あきらめず、地面に埋まった見えない幸せの種を探すこと。そこに十分な水を注ぎ、枯らさないこと。それが、在住者の務めではないかと思うのだ。

1993年、初めてカンボジアを訪れたときに「トッケイ、トッケイ」と鳴くヤモリを知った。グロテスクな姿だが、そいつが「トッケイ」と7回連続で鳴くのを聞けば、幸せになるのだと言われた。以来、トッケイの声がすると、つい指折り数えてしまう。今夜もトッケイの声を聞きながら、この国で幸せを探そう。