カンボジアは今年、ポル・ポト派政権が崩壊して40年の節目を迎えた。そして内戦が終結した1991年から数えれば28年。今年で戦後74年を迎える日本に置き換えてみると、昭和48年ごろにあたる。高度経済成長にわき、すでに「戦後」と呼ばれる時期を脱していた。
カンボジアも今、年7%前後の経済成長を続け、発展のただ中にある。しかし、170万人以上のカンボジア人が命を落としたポル・ポト時代は、生き延びた人々の人生を変え、その記憶は生々しい。
この国でさまざまな人に出会うなかで、私はできるだけポル・ポト時代の体験を聞くようにしている。簡単に受け止められる話ではないから、聞く方もきちんと覚悟をする。
メイ・カリヤンさんは、日本と縁が深いという意味で、カンボジアの現代史を最も身近に感じさせてくれた方の一人だ。カンボジアの最高学府である王立プノンペン大学の理事長であり、経済学者でもある。彼の人生は、とても同時代を生きてきたとは思えないほど、波乱万丈だ。
メイさんは、1953年、カンボジアがフランスから独立した年に生まれた。故郷のポーサットは、カンボジアのちょうど真ん中あたりにある州で、父親は小学校の教師だった。きょうだいは、男7人、女2人の計7人。メイさんは上から二番目の次男だった。
カンボジアは、当時のシアヌーク殿下のもとで新しいカンボジアの国造りが始まったところで、みずみずしい息吹にあふれていた。メイさんも自然に囲まれた小さな町で暮らしながら、外の世界へのあこがれで胸をときめかせていた。
「アポロ11号の月面着陸の年、私は16歳ぐらいでした。クメール語のボイスオブアメリカをラジオで必死に聞いていたら、アポロのポスターをくれる、というのでラジオ局に手紙を書きました」。その外の世界への強いあこがれと行動力が、メイさんの運命を大きく変える。
アポロ着陸の翌年、カンボジアは内戦状態に陥った。「広い世界へ出たい」というメイさんの願いには暗雲が垂れ込めた。それでも何とか勉強を続ける道を探し、プノンペンに上京して名門シソワット高校に入学、工科専門学校へと進学した。だが同じころ、戦況は悪化し、米軍による爆撃や学生の動員が始まっていた。
メイさんは留学を決意した。有力者とのコネがなく、資金もないメイさんのような学生にとって留学は夢のようなことだった。しかし、「日本の国費留学は、コネなどではなく公平な試験で留学生が選ばれていた。だから日本を選んだ」。メイさんは厳しい試験を通り、4人の国費留学生の一人に選ばれた。そして東京へ向けて飛び立った。1974年、ポル・ポト派政権が樹立する前年だった。
1975年、ポル・ポト派がカンボジアを支配したとき、メイさんはまだ日本にいた。東京外国語大学での日本語の勉強を終え、神戸大学で開発学を専攻していた。詳しい状況は分からなかったし、カンボジアの家族の消息もまったく分からなくなった。
自分を日本に送り出したロン・ノル政権が消えた。パスポートが効力を失い、国籍を証明するものがなくなった。カンボジアという国が消えた。メイさんは、言う。「私はそのときから何人(なにじん)でもなくなってしまった。国が消えるという不安感、焦り、そこから逃れたことはない日々だった」
1978年、ポル・ポト派政権の幹部が日本へ来て、留学生たちに「国のためにカンボジアへ帰れ」と諭した。しかしメイさんは日本に残った。わずかに伝わる惨状や粛清に「血の匂い」を感じたからだった。「もう二度とカンボジアには戻れないだろう。国にも、だれにも頼らず一人生きていこう」。そう決意したという。
それからのメイさんは、「心まで日本人になろう」と必死だったという。大学の先生の勧めで日本の商社に就職し、日本人の同僚と同じように働いた。ポル・ポト時代が3年8か月と20日で終わっても家族の消息は分からず、カンボジアは内戦の泥沼に陥った。メイさんは、カンボジアも家族もあきらめ、考えないようにした、という。
しかし、忘れられるはずがなかった。くすぶる思いを封じ込めることはできず、1987年、メイさんは商社を退職し、国連食糧農業機関の採用試験に応募した。「国連職員になればカンボジアのために働くことができる」。メイさんは、応募者180人の中から選ばれた15人のうちの一人となった。
メイさんが国連職員として祖国の土を踏んだのは1993年。内戦終結の2年後、総選挙が行われた年だった。74年にカンボジアを離れてから19年がたっていた。ようやく探し当てた家族とも再会した。そして、ポル・ポト時代に家族に何が起きたのかを初めて知った。
父は連行され殺害された。兄はプノンペンに動員されたまま行方知れずとなった。母と末弟も消息不明、4男は餓死した。9人家族のうち、5人が亡くなっていた。
かろうじて生き残った妹のティニカさんから聞いた話に、メイさんは言葉を失った。ポル・ポト政権はカンボジア国民を新人民と旧人民に分けて支配した。知識層や資本家など主に都市部の住民は新人民とされ、農民など旧人民が監視するサハコーへと強制移住をさせられた。メイさんの家族も「新人民」とされ、バラバラに移住させられた。
母と幼いティニカさん、3男、4男、末弟は一緒に居ることができたが、サハコーでの強制労働と食糧不足は母に悲壮な決断をさせた。11歳のティニカさん、15歳の3男、13歳の4男にサハコーを脱走しろと言ったのだ。足手まといになるであろう末弟と自分はサハコーに残る。子供たちが逃げたことが分かれば、母には過酷な罰が待っている。それが分かっていても、母は3人を送り出した。「走れ、そして生きろ」という願いを込めて。
子供たちは2日で村人に見つかってしまう。でも、親切な村人たちと偶然出会った知人に命を救われ、ティニカさんたちは親のいない子供たちが暮らす施設へと移された。ただ、そこで4男が亡くなった。食料も薬もなく、ベッドの上で冷たくなっていく兄を見守るしかなかった、とティニカさんは語った。
1993年、19年ぶりにカンボジアに戻ったメイさんは、ティニカさんはじめ内戦を生き延びた家族と再会し、カンボジアの復興に力を尽くしたいという思いを強くした。2008年には国連を退職し、カンボジアに定住することを決めた。ティニカさんは「それが人生で一番うれしい出来事だった」と話す。
それからのメイさんは、国家最高経済評議会のエコノミストとして、カンボジア政府の金融政策や農業政策を作ってきた。王立プノンペン大学の理事長となり、長年手がけてきたカンボジア伝統産業である養蚕業の復興も、今年、産官学連携事業として同大学内に設立された「シルクセンター」に結実した。
国とは何だろう、と考える。
メイさんにとって、自分を国外へと送り出した国は消滅した。けれど、家族のきずなは国家には断ち切ることはできなかった。忘れようとした国へ、家族へ、メイさんが何年もかけてまた戻ってきたのも、命がけで家族を守ろうとした父と母の願いが導いたからなのではないか。「走れ、そして生きろ」。異国でたった一人生きてきたメイさんにも、母のこの思いは伝わっていたのだろう。
国は消えても、家族のきずなは残る。いや、一つひとつの家族のきずなのうえにこそ、国家や社会は成り立っている。カンボジアの現代史は、人が何を大切にしなくてはならないか、を私に教える。