1. HOME
  2. LifeStyle
  3. 渡せなかった楽譜 カンボジアで歌われた昭和歌謡

渡せなかった楽譜 カンボジアで歌われた昭和歌謡

トッケイ7回鳴いたかな。
「上を向いて歩こう」のカンボジア版、「パラダイス・キリロム」。写真の女性はこの歌を歌ったマオ・サレッ。ポル・ポト時代に亡くなった=YouTubeのスクリーンショット

カンボジアの1月1日は「インターナショナル・ニューイヤーデイ」という味気のない名前をつけられ、休日はたった1日で終わる。カンボジア人はほかに、中国の旧正月、4月のカンボジア正月と、合計3つの正月を祝うのだが、1月1日は3つのうちで最も地味で静かな正月だ。

それでも私たち在住日本人にとって年末年始は大切な一年の節目であり、「紅白見たいね」「年越しそば食べたいね」ということになる。私自身、海外生活は10年近くになるが、大晦日の「紅白歌合戦」はどこにいても欠かしたことがない。リアルタイムで見るので、カンボジアでは午後5時からの開始だ。ちょっと早いがなじみの定食屋を開けてもらい、おかみさんと一緒に見る。そのうち友達が集まってきて、宴会となる。

毎年不思議に思うのは、日本にいるときよりも「演歌」や「昭和歌謡」と呼ばれるような古い歌が好きになったことだ。加齢のせいばかりではない。20代前半、留学していたアメリカで口ずさんでいたのは、日本では歌ったこともない「365歩のマーチ」だった。

そんな日本の昭和歌謡や演歌は、カンボジアでも時間を超えて愛されている。

例えば坂本九の「上を向いて歩こう」。安保闘争に敗れた若者の心情をうたったとされるこの歌は、1970年代、避暑地として知られるカンボジア南部の「キリロム高原」を舞台にした恋の歌「パラダイス・キリロム」に生まれ変わった。

松の林が風に揺れて/花の香りを運んでくる/小鳥たちが楽しげに集い/安らかな気持ちに満たされる/心配ごとは何もない・・・(後略)

ここはキリロム/松の葉がこころに刺さる/まるで秘密の恋心のように/(中略)あの滝のように心に流れる激しい思い/抱いていることすらつらくなる(後略)

キリロム高原は、カンボジアの首都、プノンペンから南へ約120キロ、車で3時間ほどの場所にある。カルダモン山脈のすそ野に広がる森林地帯で、カンボジアでは珍しい松林があり、熱帯雨林とは違う景色が広がる。山道をゆくと、美しい滝や清流があり、休日にはピクニックに訪れる人たちでにぎわう。

避暑地として知られるキリロム高原。清流で川遊びをする人たち。女性が頭につけた花冠はキリロムの名物だ。

避暑地として知られてきたキリロム高原だが、1970年代からの内戦と混乱の時代にはポル・ポト派に占拠され、外部から人が入ることができなくなった。ふたたびこの地が観光客を受け入れ始めたのは2000年代に入ってからだ、と地元の人たちに聞いた。

内戦前、1950年代から60年代のカンボジアは、東南アジアのパリとも呼ばれるほど国際色が豊かで、最先端の文化を吸収する町だった。当時のプノンペンを舞台にした映画には、ミニスカートでモンキーダンスを踊る女性や、ロックバンドなどが出てくる。米国との対立色が濃くなる60年代後半には、その最先端音楽が、「米国資本主義の腐敗の象徴」として映画に登場していることも興味深い。そんな中で、「パラダイス・キリロム」の親しみやすいメロディーは、幅広い世代の人に愛されたようだ。

山道を1時間以上歩いてたどりつくキリロム高原・チョンボックの滝。

キリロムと日本の縁はこれだけではない。1950年代半ばには、日本からの大規模な移民計画があった。当時の新聞記事や、アジア経済研究所の初鹿野直美さんのリポートによれば、この計画は、日本からカンボジアに毎年1万人ずつ、合計5万人もの農業移民をキリロムに送り出し、農業開発に取り組むほか、病院や大学、ホテルやレクリエーション施設、日本式庭園や五重塔まで建設する「高原都市建設計画」だった。

これは、第二次世界大戦後、カンボジアが日本への戦後賠償請求権を放棄したことへの感謝の気持ちとして、日本政府が立ち上げた経済協力計画だった。しかし、電力などインフラの整っていない現地の実状とはかけ離れた計画で反対意見が相次ぎ、実現しなかった。

「上を向いて歩こう」が誕生したのは1961年、この計画がとん挫した後であり、カンボジアに伝わったのはさらに遅い1970年代だ。したがって、キリロム高原都市計画と、カンボジアでのこの歌のヒットとを結び付けることはできない。でも、もし内戦がなかったら、もしポル・ポト時代がなかったら、この歌もキリロムもどんな変化を遂げていただろうと想像がふくらむ。

今、このキリロム高原では、日系企業による大規模な学園都市建設が始まっている。自然を生かしたリゾートホテル、情報技術に特化した大学の開校などが取り組まれている。長い空白の時間を経て日本とカンボジアを結びつける不思議な縁を感じる。

カンボジアでは、そのほかにも多くの日本の歌が、現地語で歌い継がれている。「港町ブルース」、「潮来笠」、「ここに幸あり」、「長崎は今日も雨だった」「骨まで愛して」。覚えやすくて明るく、けれどどこか切ない。昭和歌謡のメロディーが持つ独特の「陰影」は、この国の人たちの心に寄り添うものだったのだろう。

1967年に外務省の語学研修生としてカンボジアに派遣された篠原勝弘・元在カンボジア日本国大使は、日本の歌を、鉄道のプノンペン中央駅の一角でよく聞いた。外国の曲を演奏するバンドマンたちがいて、日本の歌もよく演奏してくれたのだ、という。彼らは「日本の歌は、カンボジア人に合うんだ」と、言っていた。

プノンペン中央駅。南部シアヌークビルなどへの長距離列車や貨物列車が走る=木村文撮影

今のようにインターネットがあるわけでもなく、日本のテレビもラジオも聞いたことがない彼らに、日本の歌謡曲がどのように伝わったのだろうか。篠原さんによれば、当時すでに、タイやインドネシアには日系企業が多く進出していて、駐在員たちが「生オケ」で日本の歌を歌っていたのだ、という。駐在員たちがカンボジアでもリクエストをしたのか、バンドマン同士のつながりがあったのか、現地のラジオで流れたのか。とにかく、カンボジアでも日本の曲が、はやり始めていたのだ。

「こんど日本へ帰ったときには、楽譜を買ってきてくれないか。日本の歌をもっと演奏したい」。バンドマンに言われた篠原さんは、一時帰国した際に楽譜をいくつか入手してカンボジアに持ち帰ったという。

「けれど、もう中央駅に彼らの姿はありませんでした。政情が悪化していましたからね。楽譜は渡せませんでした」。1974年、ポル・ポト時代が始まる前年のことだった。

それから半世紀近くがたち、ユーチューブもネット配信音楽もこの国で楽しむことができる時代になった。若者たちはK-POPに夢中になり、欧米の人気歌手がコンサートに訪れる国にもなった。それでも日本の歌は、しっかりと愛されている。たとえば中島美嘉の「雪の華」、近藤真彦の「夕焼けの歌」。やはり、明るくて覚えやすくて、哀愁の漂う昭和歌謡の流れを受け継ぐ曲が多い。「潮来笠」や「ここに幸あり」は、今でもパーティーで愛唱されている。

かつて戦争は人々の命を奪い、音楽を奪った。パラダイス・キリロムを歌った歌手も、多くの昭和歌謡をカバーして大人気だった歌手も、ポル・ポト時代に命を落とした。流行歌は拡声器から流れる労働歌にとってかわられた。それでも、歌は人々の心に残った。懐かしいメロディーを聞くたびに、歌の力を思い知らされる。