日本橋の正式名称はチュルイ・チョンバー橋。市中心部と、開発が進む東部とを結ぶ重要な橋だ。タクシー運転手のポブ・リンダ(36)は「以前は日本橋しかなくて渋滞がひどかった。中国橋が隣にでき、上りと下りが分かれたので、通行がスムーズになった」と喜ぶ。「日本も中国もどっちも大事。カンボジアはまだ貧しいから、どっちの支援も歓迎だ」と言う。
日本橋は、70年代の内戦時代、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)が仕掛けた爆弾で破壊され、全長709メートルのうち、中央部分の265メートルが崩れ落ちた。日本の政府開発援助(ODA)は、紛争の激化でストップしており、橋は壊れたまましばらく放置されていた。
ところが91年にパリでカンボジア和平が調印され、日本も援助再開を決める。その大型援助の第1号となったのが、日本橋の修復工事だった。日本とカンボジアの友好のシンボルとして、「日本橋」の通称で市民に親しまれてきた。
そこに14年12月、約3000万ドル(約33億円)を投じて中国橋ができあがった。たもとには中国の国旗をあしらった立派な記念碑も建った。日本橋には欄干部分に日の丸の入った小さなプレートがあるだけで、存在感がかすむ。
カンボジア公共事業運輸省の担当者は建設の理由について、「渋滞を緩和するためにもう一本橋が必要になった。日本にはほかに多数の支援を頼んでいたので、今回は中国になった」と説明する。
国際協力機構(JICA)プノンペン事務所はどう思っているのか。担当者の福沢大輔は「日中それぞれ、支援の役割がありますから」と意に介していない様子だ。福沢によると、日本は91年のパリ協定後、内戦で分断した国土をつなぐことに注力。日本橋のほか、プノンペンの北東約120キロのメコン川に架けた「きずな橋」も無償でつくった。
2000年代に入り基幹となる道路や橋など「ハード面」の整備が一段落し、いまはその改修や、鉄道やバスなど公共交通網の整備の段階に移っている。政府の技術者を日本に招いた研修など、人材育成を中心とする「ソフト面」にも目を配っているという自負がある。
すでに発展した都市部で、渋滞に伴い必要となった橋や高架道などは、潤沢な資金力を誇る「中国に担ってもらおう」というわけだ。
そんな話を聞くと、競い合っているように見えた橋が、それぞれの役割をふまえ、仲良く共存しているようにも見えてきた。
とはいえ、JICAは今年末、25億円かけて日本橋の本格改修に着手するという。「今度は、もっと日の丸が目立つ看板もつけますよ」と福沢。やっぱり対抗している?
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