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フン・セン首相に直談判した元アジア開発銀行局長

World Now
=和気真也撮影

タイと国境を接したカンボジアのプレアビヒアという土地があります。風光明媚なところで、NGOで借りた土地を耕し、有機農業に挑んでいます。村の人が手伝ってくれるのですが、元ポル・ポト派兵士も、その子どもたちもいる。彼らの笑顔に平和を実感するとともに、ようやくここまで来たなと感慨深く思います。

GMSプログラムを構想したのは80年代でした。インドシナ半島にはまだ、長く続いた戦争と、内戦の硝煙のにおいが漂っていました。でも、政府とポル・ポト派との内戦が続いていたカンボジアにも和平が見えてきて、メコン地域にも平和が訪れる望みが出てきた。平和を持続させるには、民族や国境を越えて通商を盛んにし、互いに経済的に必要としあう関係をつくるしかないと。それには、物理的につながる道路が必要です。

91年にカンボジア和平協定が成立してすぐ、国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)特別代表の明石康さんについて、後に首相となるフン・センさんに会いに行きました。GMS構想を打ち明けると、フン・センさんはひざをたたいて喜んだ。

その時の言葉を覚えています。「もしそれが可能なら、国境警備にかける国防予算が削れる。その分を子どもたちの教育にかけられるな」と。内戦で大勢が死にました。国を一からつくるのに、人づくりが必要だと思ったんでしょうね。

92年に初めて6カ国が集まりました。私は調整役を担いましたが、GMSを「ADBが主役のプログラム」にしないことに心を砕きました。6カ国が当事者として進めることが大事だと、三つだけ提案しました。

一つは協定をつくらないこと。協定なんて文書を作るとね、ピリオド一つ、どこに打つかで話が止まる。その間にまた鉄砲を撃ち出す国があるかもわからない。理念は紙にサインしたって実現しない。信頼を元に実績を積むしかないと思いました。

二つ目は、西洋風の多数決をやめること。それぞれ事情を抱えた国の集まりです。例えばある事業に賛成できない国は、近くで見るだけにして、賛成する国だけで始めてみようと。うまくいきそうなら、後から加わることを良しとしようという手法です。

その上で、三つ目として、最初から壮大なことを考えず、まず隣の国同士でつながっていなかった道をつなげましょうと言いました。

2年ほどかけて、参加国と一緒にどのルートがいいかを調査しました。鉄砲を置いて、一緒に調査するだけでも当時は意味がありました。できたのが、経済回廊の青写真です。

それから30年ですか。ようやく道がつながりましたね。私に言わせれば、青写真に色がついてきたという段階です。地域間の経済格差はまだある。特にカンボジアやミャンマー、ラオスなんてまだまだ。でも、この30年で人材が育ち、拠点になる多数の都市ができました。さて、これをどう広げていくか。先進国の手助けはまだ必要かもしれないけれど、各国で育った人材が中心となって国づくりをする段階にあります。

その際に考えるべきことは、メコン地域が世界の中で、いかなる責任を負う地域かということでしょう。中国とインドという二つの大きな国が、今後のアジアでは重要になります。メコン地域は地理的にその間にある。外交でも経済でも、存在感の示し方はあるでしょう。

そしてもう一つの大国である日本。これまでもODAを通じてこの地域を助けてきましたが、技術と人材育成のノウハウに長けた先進国として、今後どうメコン地域とかかわっていくのかを考えなければなりません。

アジアの中の日本でなければなりません。でも、私は時折、「『日本はアジアの一員でないのではないか』と考えるアジアの人が、一体どれぐらいいるのか」と考える日本人が、どれぐらいいるだろうかと考えます。言葉遊びのようですが、大事な視点です。つまり、日本はアジアの一員だということを当たり前とせず、いろいろな角度で考えることが、これからアジアに出て行く人には求められると思います。

冒頭に話したプレアビヒアは、実はポル・ポト派が最後まで抗戦した土地です。だからたくさん人が亡くなった。いまの村人は、和平後にどこからか集まってきた人たちです。集まって酒を飲んでも、語り合える共通の思い出がない。祭りがない。合唱できる歌もない。

だけど今年初めて、村の小・中学校に通った子どもたちが卒業します。彼らが一緒に登下校するのを見ていると、この世代には共有できる思い出があるんだなと嬉しくなる。平和に必要な下地。ようやくここまで来たんだなぁと。
(構成・和気真也)