プノンペンの王宮に近い「ウナロム寺院」には、2人の日本人の慰霊碑がある。本堂の裏手、目立たない場所にあるが、いつ行ってもきれいに保たれており、この国で暮らす日本人として、慰霊碑を守ってくれるカンボジアの人たちに頭が下がる。
ふたつの慰霊碑のうち、ひとつは25年前、内戦後初めて実施されたカンボジア制憲議会選挙の監視活動中に殺害された中田厚仁さんのもの。そしてもうひとつは、1970年代、共同通信の記者だった石山幸基さんのもの。カンボジアでポル・ポト時代が始まる前、同派の支配地域を取材中に行方不明となった日本人だ。
カンボジアで命を落としたジャーナリストといえば、映画にもなった一ノ瀬泰三さんや、沢田教一さんがよく知られている。しかし、1970年から75年の混乱の時代にカンボジアで亡くなった日本人の報道関係者は、彼らだけではない。私も知らなかったのだが、外国人、カンボジア人合わせて、少なくとも37人いるという。そして驚くことに、その中で最も多いのは日本人で、その数は10人にものぼる。フリーランスや日本の報道機関の記者だけでなく、当時のカンボジアには、外国の報道機関の日本支社に勤務する日本人も取材に来ていたからだ。
8年前、「最初で最後の同窓会」と銘打った、当時の外国人特派員たちの会合がプノンペンで開かれた。世界中から内戦中のカンボジアを取材した記者たちが集まり、命を落とした仲間の慰霊をするのが主な目的だった。
私はそこで、石山幸基さんの奥様、陽子さんに初めてお会いした。
陽子さんによると、石山さんは1973年に、ポル・ポト派が首都を占領する少し前に、同派が支配する村に取材に入った。こうした取材では、支配下にある村の関係者との間で、取材者の安全を確保する手続きがあり、それは済んでいたはずだった。しかし何らかの事情で石山さんは村を出られなくなり、行方不明となってしまった。
やがて戦況は激しくなりポル・ポト派が政権を握ると、石山さんの捜索は困難になってしまった。ポル・ポト派政権は、資本主義を敵視し、極端な共産主義を掲げていた。東西冷戦時代のいわゆる「西側」の外国人は即時に「スパイ」とみなされ、裁判もなく殺害される恐れがあった。捜索どころか、カンボジアに入国することすらできなくなっていた。
「特派員で1年行ってくるよ」。石山さんは、結婚して3年足らずだった陽子さんにそう言って出かけたきりになった。陽子さんは、2人の小さなお子さんを抱えて、「行方不明」の夫をただ待ち続けるしかなかった。
「カンボジアは南国だから川には魚がいて、道端にはパパイヤがなっている。きっと飢えて死ぬことはないよ」。陽子さんは、石山さんのお母さんとともに、そう話しながらひたすら生還を待った。気丈な陽子さんと、「菩薩のように優しい」石山さんの母親。ふたりは手を取り合っていつ終わるとも知れない長い時間を待った。
ようやく陽子さんが、当時の同僚たちとともにカンボジアに捜索に入ったのは1981年。行方不明から8年もの年月が流れていた。そして、現地の調査で知ったのは、石山さんがとらわれた村で病死していた、という事実だった。
どこで、どのように暮らし、亡くなったのか。どこに埋葬されているのか。それ以上調べたくても、当時のカンボジアはまだ内戦が続いていた。石山さんがとらわれた村に調査に入ることもできず、陽子さんが埋葬地とされる場所へたどり着いたのは、それからさらに18年後の2009年1月。行方不明になってから36年もの歳月が流れていた。
そこは、カンボジアの地図にも出ていないような山の中で、野戦病院のような跡が残っていた。石山さんは村に足止めされるうちに病気になり、何らかの手当てを受けていたが回復せずに亡くなったということだった。そしてその近くに埋葬された、ということだった。
「薄暗いジャングルの木々をかきわけて、夫の埋葬地とされる場所へ行きました。そうしたら、ちょうどその部分だけ、ぽっかりと空が見えて、穏やかな日差しがあたっていたんです。思いがけず明るい、いい場所だったのです」
それはまるで、幸基さんからのメッセージのようだった。「心配しなくていい、自分はいま、こんなに穏やかな場所にいる」。私にはそれが、突然いなくなった夫の足跡を36年もの間、追い続けた陽子さんが、いちばん知りたかったこと。無念の死を遂げた石山さんが、家族に全力で伝えたかったこと、だったのではないかと思えた。
石山さんの慰霊碑の前で手を合わせると、いつも思う。自分は仕事に命を懸けているか、と。たとえば明日、人生が終わっても後悔しない、そんな仕事を、そんな生き方をしているか、と。カンボジアという場所は、どんな仕事をしていても私にそう問いかけてくる。