2013年秋、新しい学校が生まれる。インターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢。その設立準備財団の代表として走り回る。
日本初の全寮制インターナショナルスクールで、国内外から集めた150人の高校生が学ぶようになる。3~4割はアジア各国から留学生を受け入れ、うち40人ほどは年間350万円の学費・寮費を全額免除することにしている。
「才能をもちながら、貧しいためにチャンスを得られないアジアの若者を集めたい」と、目を輝かせる。
7月、留学生の候補らが集まったサマースクールが軽井沢であった。参加したのは、インド、フィリピン、ネパールなど9カ国と日本からの計30人だ。 インドからきたバークマンズ・ゴヴィンドラージ(13)はまだあどけないが、将来の目標は「首相になって政治腐敗と闘うこと」。
インドにあるチベット出身者の村で生まれたテンジン・イングセル(14)はチベットに行ったことがない。「中国が許さないからです。私はチベットを代表する慈善活動家として、よりよい場所をつくるために働きたい」
恵まれない環境ゆえに培われた強い意思とハングリー精神。アジアからの留学生たちと、日本の生徒たちが互いに刺激し合いながら学んでほしいと小林は願っている。
「将来、アジアのリーダーがここから巣立ってくれたら」
理系・文系を超えて
「物理をもっと頑張らないと東大は難しい」。小林は国立の進学高に入ってすぐ、1学期の三者面談で教師にそう言われた。「学級委員もしたし、得意教科もある。なぜ、私のいいところを見てくれないんだろう」。高校の教育理念に疑問が膨らみ、間もなく中退した。
自分のことをしっかり評価してくれる学校はないか。たどり着いたのは、カナダにある全寮制のインターナショナルスクールだった。86カ国から様々な境遇の生徒が集まってくる学校だ。
この学校で共同生活をするうちに気づいたのは、「機会は均等ではない」ということと「教育のありがたさ」だ。メキシコ人の友人は実家が貧しく、6人きょうだいのうち彼女だけが高校に進めたという。奨学金をもらってやっと教育の機会を得た同級生も多かった。
「学校を選べる自分がどれだけ恵まれているか。この幸運や能力は自分だけのためにもらったんじゃない」。将来は教育で恩返しをしたい、と漠然と思うようになった。17歳のときだ。
卒業後に帰国し、東京大学で開発経済学を学んだ。さらに米国の大学院で教育学を学び直した後、ユニセフでフィリピンの貧困層教育に携わる。
マニラ中心部のストリートチルドレンに職ため業訓練や勉強を教える草の根の活動は、確かに、子どもを買春やドラッグから守る助けにはなった。スラムの小さな家に招かれ、教え子の家族に「ありがとう!」と抱きつかれたこともある。
だが、貧富の格差はいかんともしがたく、政治家や富裕層は社会のしくみを変えようとはしない。「トップ層の意識を変えていけるような人材を、どうすれば増やせるのか」。もどかしい思いを抱えていたとき、友人の紹介で出会ったのが、独立系投資会社あすかアセットマネジメントの社長、谷家衛だった。
ふたりの子をもつ谷家はかねて、「学校はもっと多様性をもつべきだ」と考えていた。いま日本には、何をやっていいのかわからないように見える子どもが多い。国際性や語学力を身につけようとインターナショナルスクールに進んでも、結局、同じような経済状況で、同じような考え方の生徒たちの集団になってしまう。一つの価値基準にしばられることなく、アジアの若者の刺激を受けながら、自分の人生を思い切り生きる人間が育っていく――。谷家は、そんな学校づくりの構想を温めていた。
谷家の話は新鮮だった。「その舞台で、私もやりたいことを生かしたい」とメールを送った。胸のもやもやが、さっと晴れた。
学校のカリキュラムのうち、小林たちは「デザイン力」を特に重視している。といっても、ものをデザインすることだけではない。さまざまな引き出しから、自由な発想で問題解決の手だてを考える力、つまり、理系・文系の枠組みではくくれない「柔軟な対応力」だ。
冒頭のサマースクールでは、「息子のおむつでバッグがかさばって困る」という小林の悩みをテーマにアイデアを募った。ある生徒が「(布団圧縮袋のように)袋にいれたおむつを掃除機で圧縮したら」と提案し、大人たちからおーっと歓声が上がった。
生徒が自分の個性を知り、自分なりのリーダーシップを発揮できるようにする教育も大切だという。
「東日本大震災では、自分で判断して世界に発信する力をもつリーダーが日本にいない、ということを多くの人が痛感した」。だからこそ、自分たちの学校は時代のニーズに応えられる。小林は、そう確信している。
大震災の「波紋」
不安がないわけではない。
建設費などで、最初の数年間は財政状況が厳しくなることも予想される。アジアからの留学生に奨学金を支給するには、ほかの生徒から集める学費だけでは足りない。企業や個人に支援をもちかけてきた。
大震災の後、「それどころではない」と寄付を取りやめた人がいた。だが、その一方で、リーダーシップに欠ける政府や国会の対応をみて、「やっぱりこの学校は必要だ」と改めて支援を約束してくれた人たちもいた。うれしかった。
実は、この3年間、小林は無給で走ってきた。設立準備財団のスタッフ37人や、サマースクールの運営スタッフ30人も、みんな小林や谷家に共感して集まったボランティアだ。「きらきらした目でビジョンを語る小林に、いつの間にか巻き込まれていた」と、長年の友人でもあるボランティアの一人はいう。
共鳴しあう人たちが、時間やお金や労力を出し合ってつくる。「それがこの学校のパワーだと思っています」
(文・鈴木暁子、写真・豊間根功智)
小林 りん(こばやし・りん)
1974年、東京都出身。国立高校を中退し、カナダの全寮制インターナショナルスクールに留学。東京大学経済学部で開発経済を学ぶ。ベンチャー企業経営などをへて、2003年、国際協力銀行へ転職。05年に米スタンフォード大国際教育政策学修士号を取得。06年から2年にわたり、国連児童基金(ユニセフ)でフィリピンの貧困層教育にかかわる。09年4月から現職。