話題になった英国発のドラマがある。幼い娘が一時行方不明になる経験をした母親が、「アークエンジェル」(大天使)というサービスを使い始める。娘の体にマイクロチップを埋め、どこにいてもタブレットで居場所がわかり、見たものが画面に映るようにしたのだ。
やがて思春期を迎えた娘の遅い帰宅を心配した母親は、再びタブレットを手にし、娘の初体験を目撃してしまう。ドラッグ使用、夜遊びといった映像を前に、タブレットを手放せなくなった母親は、娘の日常に干渉し始める……。
母の愛は本物だ。だが、自分が「安心」したいあまり、娘の「安全」の決定権をいつまでも握り続ければ、見守りはいつしか監視へと変わる。その線引きは実に微妙だ。
私たちは今回の特集のキーワードを、「監視? すべてあなたの安全のためです」とした。この言葉は、中国式の監視システムが輸出されたケニアの状況を取材した奥寺淳記者(広州・香港支局長)の経験から来ている。中国で取材しているとたびたび、当局者に、待ち伏せや付きまといで取材を遮られた。その時の当局側の決まり文句が、「為了你的安全)的安全(あなたの安全のためです)」。
少数民族の実態を知りたいと現場に入ろうとしたとき。大地震で子どもを失い、校舎の手抜き工事の責任を問う親を訪ねようとしたとき。当局者が真に守ろうとするのは「記者の安全」ではない。でも、安全と言われると、拒みにくい。当局はそこを突き、あなたのためと言いつつ、自分の立場を押し付けてくるのだ。
安全、安心のため、どこまで自由の制限を受け入れるか。コロナ禍でそのハードルが下がっている。シンガポール赴任直後に2週間、ホテルで完全な隔離生活を送った西村宏治支局長は記事「シンガポールで考えた監視社会」で、安心と気味の悪さの間を揺れ動く「監視・見守られる側」の気分を伝える。
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スマホに凝縮されたテクノロジーの進化はさらに問題を複雑にする。プライバシーが筒抜けになろうが、監視されようが、効率的なサービスがもたらす圧倒的な便益を私たちは享受できるようになったからだ。
カナダ・クイーンズ大学教授で監視社会を研究するデイヴィッド・ライアンは「見る側と見られる側の力の均衡をどう保つかということはとても大きな問いだ。この監視のありかたは適切か、人を中心に考えられているか、企業や政治家任せにせず確認し続けることが大切になる。技術でどんな問題も解決できると考えることは危険だ」と話す。
「安全のため」と言われたとき、誰のため、何のための安全・安心なのか、自分が納得できるまで説明を求め、主体的に考える。もし受け入れないなら、その結果を引き受けて生きる。そんな覚悟が、より求められる時代になったのかもしれない。安全のため、あなたはどこまで受け入れますか?