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データと技術が与えてくれる便利な暮らし でも一度立ち止まって考えよう

World Now
デイヴィッド・ライアンさん=本人提供

――約40年にわたり監視の研究を続けてこられました。きっかけは何だったのですか。

1980年代初頭に新しいテクノロジーの社会的側面に非常に興味を持つようになりました。マイクロエレクトロニクス革命と呼ばれた時代で、情報化社会の可能性が話題になっていました。当時社会学者として、情報化社会とともに、兆候が見え始めていた監視強化の問題を指摘しました。この問題は経済的、社会的、文化的に、あらゆる面で深遠なものだと気づきました。その後の監視の増え方は驚くほどです。

――著作に「監視文化(The Culture of Surveillance)」という本があります。SNSの普及がこの種の文化を生み出すのに役立ったと思いますか。

監視の文化は常にあると思います。例えば、極端な権威主義の政府、かつてのソビエト連邦や中南米で独裁政権が成立した場所では、一般の人々の日常に監視の文化が色濃くあった。彼らは特定の種類のコミュニケーションに警戒する方法などを知っていました。

デジタル技術への移行が始まると、人々は監視カメラの存在に気づき、特定の場所ではカメラを避けるようになり、逆にアーティストなどは意図的にカメラの前に立ってアピールしました。カメラがインターネットに接続されるようになると若者の人気を呼び、90年代にはウェブカメラの前で人々が演じ、オンラインでパフォーマンスをする時代になった。

Google、Apple、Facebookなどの巨大なデジタルプラットフォーム企業が成長すると、彼らはこれまでゴミとして捨てられていた「個人データ」を再利用する方法を発見しました。データを分析し、他の目的に再利用して新しいことができることに気がついた。人々が現実に監視に関与するようになったのです。企業は宣伝だけでなく、人々の行動を特定の方向に変えようと影響を与え、プラットフォームやアプリを中毒性のあるものにするために大金をつぎ込むようになった。

独裁政権による監視の場合、人々はそれが抑圧的で自由を支配するものだと知っていました。一方で、インターネットのプラットフォームは、まるでそれが人々に自由を促し、個人の自由を増やすような印象を与える。魅力的で便利で、心地よく、親密さな関わりをもたらす。気がつくと、かなりの量の個人データがこれらのシステムに使われている。

「コロナウイルスのまんえんを防ぐため」といった名目があると、とても容易にデータを引き出せるようになります。日本も含め、世界の主要国で実際に使われているコロナ感染者の追跡アプリはGoogleとAppleの協業によるものです。

――巨大企業のコロナの感染者追跡アプリへの関与にはどんな問題があると感じるのですか。

重要なことは、こうした企業があまりに大きな力を持っているため、「私たちは技術的な解決策を持っています」と言う声に、人々がすんなり耳を傾けがちだということです。「テクノロジーは答えを持っている」と考える「技術解決主義」は、米国だけでなく、世界中の他の多くの国でも顕著に広がっています。誤解を招く考え方だと思います。

私たちはコロナウイルスの世界的流行のまっただ中にいます。その問題にまず対処するのは公衆衛生当局や疫学の専門家であるべきです。彼らはどんな解決策が適切か、重要な考えを私たちに与えてくれるからです。それは「私たちは世界を救うアプリを持っている」と言う技術者であるべきではない。

人類は歴史的に伝染病と流行病を経験してきました。グローバル化した世界で、脅威はより大きくなります。危険なのは、テクノロジーには答えがあるという信念です。残念ながら、多くの人がそう信じています。まず人間のニーズを最初に考え、次にそれに合わせて技術を構築するべきです。

デジタルを使って情報を追跡する手段は、ウイルスの脅威が減少した後もなくならない可能性が高い。それは2001年に米国で起きた同時多発テロの時と非常に似ています。

米同時多発テロ事件を受け、福岡空港出発ロビーには影響を伝える看板が立ち、厳戒態勢で荷物検査が行われていた=2001年9月12日、福岡市博多区

以前は、飛行機に搭乗する際になかった監視が、今では当たり前のものになっています。世界中の特定の場所を除いて深刻なテロの脅威はないのにもかかわらず、今や誰もがこのシステムを利用しています。そして、テロとは何の関係もない人が「搭乗拒否リスト」に名前を記載され、余分な尋問を受けなければならなくなりました。その被害を受けるのはしばしば、白人中心の国にいる特定の少数グループの人々です。問題を新技術で解決するはずが、適切に機能しない、または過剰な監視という長期的な影響をもたらしてしまった。

今同じことが起きています。民主主義社会の市民たる私たちが声を上げるべき重要な問題だと思います。

――「監視」と「見守り」の違いとは何なのでしょうか。例えば少子高齢化の日本では、介護現場でも多くの技術が使われています。どのように違いを理解すべきでしょうか。

英語の監視という言葉(surveillance)はフランス語が語源です。その意味するところは、見張りや見守り(watch over)と同じです。私はすべての監視が否定的、抑圧的、不適切だと考えてはいません。人間中心で、民主的な監督や規制にのっとった形で監視することはできると思います。私は週に数回水泳に行くのが好きなのですが、プールにはいつも監視員がいて、高い場所に座って泳ぐ人たちを見てくれている。

水中での私の様子が注意深く見守られているのは、水の事故が起こる可能性があるからです。私は彼らがいてくれてうれしいのです。そのような考え方は、他の領域にも広げて考えることができます。親が子どもたちを見守っているとき、時にはその監視には少しの強制が含まれることもあるでしょう。車が通る道路に子どもが走っていくのを見ているだけでなく、止めるわけです。子どもたちが傷つかないようにしている。それは問題でしょうか。私はそうは思いません。適切な監視というものがあると思います。

しかし、常に問い続けなければなりません。この監視は状況に対して適切なものだろうか。それは他の方法で行うことができるか。私たちはこの監視をやりすぎていないだろうか、と。

デイヴィッド・ライアン氏=本人提供

数年前に非常に親しい友人を亡くしたのですが、彼は若くしてアルツハイマー病を患っていました。家族が居場所を検知できる装置を腕につけたので、彼が家から出て行って姿を見失ったとしても、見つけることができるようになった。それは親愛なる友人の妻の愛情によるケアでした。大半の時間、彼の妻は直接的な方法で彼の世話をしなければなりませんでしたから、この装置は緊急時のためのものでした。

友人の場合と違って、もしも誰かがその生涯を通じてずっと装置をつけられたままだと聞けば、私も心配になります。多くの人は、機械にしばられて生活したいとは思っていません。私の知人のほとんどは、人とともに暮らし、人に愛されたいと願っています。大事なことは、制限があるかどうかということです。お互いに納得のいく制限をみつけて、ひとりの市民として、家族として、この状況で何が適切かを決めることができるなら、装置は有効だといえると思います。私は監視に反対しませんが、人が信じる正義に反し、人間中心でなく、人の繁栄のためにならない不適切で不均衡な監視には反対します。

――見る側の力が強すぎるなど、見る側と見られる側のパワーバランスが不均衡なときに問題が生じやすいのかもしれませんね。

そうだと思います。そして、それは高齢者ケアの現場だけの話ではありません。例えば近頃の学校ではどうでしょう。登校時にかざす電子ID、あるいは高校のロッカーやかばんを置く場所にある監視カメラ。私はこうした機器が多すぎると思います。例えば学校で暴力事件が一つ起きた時、人は技術的な解決策に目を向けがちです。私ならそこには心が向かいません。そもそもどうして暴行が起きたのか、学校の環境はどうだったのかという問いかけをまずしたい。技術的な解決策に走りすぎる傾向があると思います。

――見る人と見られる人のバランスをどのように維持したらいいのでしょう。

それは非常に大きな問いです。私たちは、新しいテクノロジーの利点をさまざまな方法で用いることに取り組む必要があります。人間の繁栄につながる方法はあります。コロナウイルスの拡大防止や安全対策には、市民中心で、民主的な規制がなければならない。私たち自身が、テクノロジーの使用について適切な規制があるかどうか知っておく必要があります。技術は危険になったり、人々に圧力をかけるものになったりする恐れもあるのです。

私たちが健康や福祉、雇用など多くの分野で用いるシステムは、すでに特定のバイアスがかかったアルゴリズムが使われています。このシステムで実際に何が起こっていて、アルゴリズムはどのように機能するのか。市民として、テクノロジーには適切な保護手段(セーフガード)が必要だと要求することです。ソフトウェアのエンジニア、アルゴリズムを作る人たち、システムを設計する人たちと話しをする必要もあります。政治家や企業の経営者だけに判断させないで。これは教育の問題であり、家族で話し合う必要があります。

現代的な監視が始まった初期にも、本当に必要なことは何かと問いかけた人たちがいました。1978年、カナダ・トロントの編み物工場で、衣服を作る女性労働者たちがいました。工場の所有者は、労働者が何をしているか見るために工場に監視カメラを設置したのですが、女性たちはこの監視に反対し、ストライキを始めたのです。最終的には訴訟で雇用側を打ち負かしました。70年代にも、職場の監視について問題提起する人々がいたのです。何が起こっているのかを立ち止まって顧みること、行動することを呼びかけたいです。

――ジョージ・オーウェルは小説「一九八四年」の中で、ビッグ・ブラザー率いる党が監視し、支配する近未来の世界を描きました。テクノロジーと人の暮らし方がこのまま続くとしたら、未来はどうなると思いますか。

ディストピア(理想郷の反対の暗黒社会)は非常に賢く、優れていて、わかりやすく、私はそれら(の小説や映像)を読んだり見たりするのが好きです。でも、私は最悪の場合のシナリオではなく、最も良い場合のシナリオを考えたいと思います。「では、どのような世界を望みますか」と問いかけたいと思います。そして、そのためには「今、私たちはどのような行動をとる必要があるのか」と問い続けたいと思います。

社会学者。カナダ・クイーンズ大学社会学部教授、同大監視研究センター所長。著書に「監視文化の誕生 社会に監視される時代から、ひとびとが進んで監視する時代へ」など。