新型コロナの中、世界の人々はどう生き、何を考えたのか。世界各地からの証言です。
- <ブラジルから>「保障も支援も理解もない」コロナ感染者急増のブラジルから、最前線の医師の訴え
- <米国から>「感染したかも」病院で受けたコロナの検査、相手は防護服 残った複雑な思い
- <フランスから>オンラインでは想像力も制約される 新型コロナで実感、何げない対話の価値
- <イタリアから>コロナと子供 爆発的な感染拡大のイタリアで、母として保育士として感じたこと
- <中国から>SARSの体験があったから自由の制限を我慢できた ある北京市民の実感
- <台湾から>「不便」と言えば改善される コロナ対策で世界が注目、台湾は自信を取り戻した
- <フィリピンから>検問でID、罰則に腕立て伏せも…地区ごとに細かなルール、フィリピンの感染対策
- <ベトナムから>外出制限の暮らしの中で、大人も子供も身につけた知恵がある
- <ザンビアから>オンライン教育と言われてもネットがない コロナに見舞われた途上国の苦しみ
- <フランスから>働きながら子供2人のオンライン授業を支える母の苦労 でもいいこともあった
■9・11の恐怖再び
――新型コロナウイルス感染の拡大は、米国のみならず、各国を巻き込んで世界的な危機が起きています。
当初、米国内でも感染のニュースは聞くけれども、多くの人の命を奪うほどの脅威になるという認識は全くありませんでした。それが変わったのが3月初め、米国各地で学校が次々と臨時休校を始めたころです。それでも数日間の休校だと聞いていました。それが、いつまでたっても再開されない。そうしているうちに、感染は180を超える国・地域に拡大し、死者数も急増をみた。国が恐怖に占領されていく。そんな様子を目の当たりにしながら、経験したことのない事態が今まさに起きているのだと、いや応なしに認識させられました。同時に、米国史上最悪の事態となった911(米国同時多発テロ)の恐怖を思い出しました。
2001年9月11日、私はニューヨーク市に住んでいました。世界貿易センターで働いたこともあります。911で救助活動にあたったニューヨーク市警の兄からテロ直後の悲惨な光景を何度も聞かされた。国が壊されていく。そして、もう同じ生活は戻らない。空港や公共の場所では、極めて厳しい安全対策がとられた。人々は周囲の異変に敏感となり、お互いを監視して、通報も相次いだ。一時的な傾向だと思ったら、結局それが当たり前となった。ニューノーマル。まさに私たちが今直面している状況と極めて似ています。
――911の時と同じように、元の生活は戻らないとお考えですね。
米国は今、コロナ収束後の経済活動を見つめています。夏までには、コンサートやスポーツ観戦もできるようになるでしょう。ただ、それも今までとは同じではない。入場前の健康状態のチェックや消毒の義務づけは続いていく。飲食店では、前後の席との間隔は保たれる。生活は戻ります。ただし、全く同じ生活ではないということです。
経済は反動で一時的に盛り上がる可能性はあるし、人々もオフィスワークに復帰する。ただし、夏が過ぎて秋になっても新型コロナで死亡する人はでてくると思います。毎年インフルエンザで死亡するのと同じように、それ自体もニューノーマルになっていく。人と人の距離を保つ、常に消毒をするなど、自分の健康や安全を自分で守るための行動は、より習慣化されていくと考えています。
■奪われた有名歌手の命
――コロナ禍を911と比較されました。まさに世界各地で、このコロナ危機は、見えない敵との戦争と表現されました。私生活でも闘いを強いられたのではないですか。
ナッシュビルは、「米国音楽の聖地」と呼ばれ、カントリーミュージックを始めとする米国音楽の中心地です。私の自宅の3軒隣に、米国音楽界では非常に有名な、グラミー賞受賞者のカントリー歌手、ジョー・ディフィーが住んでいました。彼は3月29日、新型コロナウイルスが原因で息を引き取ったのです。61歳でした。
カントリーミュージックに疎い私にとっては普通の人でしたが、家族思いで優しい、とてもいい隣人でした。いつも笑顔で、話しやすく、地域の誰からも好かれていました。彼の7歳の義理の娘は私の娘と同い年で、いつも自宅前で一緒にスクールバスが来るのを待っていた。よく知っている人の命が奪われる。これは数字としての死者数が急増するよりも、とても衝撃が強い。私の同僚もサンディエゴに暮らすおじをコロナで失いました。感染をより恐ろしく感じますし、ただただ憎いです。
実は私の妻と娘も感染が疑われる状態になりました。娘は私と同様、ぜんそく持ちなので、とても心配しました。3月中旬のことです。テストを受けなかったので、結局のところ、これがコロナウイルスなのかどうかは今でも分かりません。幸運にも2人とも重症にはいたらなかったのですが、いま思えば、コロナ感染を疑う症状は複数あった。それでも検査を受けるという意識がなかった。
その2週間後、私も体調を崩しました。呼吸が乱れ、痛みを感じ、微熱がでた。この時点ですでに、現在も続く在宅勤務となっていたため、すぐにかかりつけの医師がいるクリニックに相談に行きました。そこで見た風景はまるでホラー映画のシーンようでした。
待合室は誰もおらず閑散としているのに、看護師や医師はマスクとフェースガードをつけて、緊張して私と向きあっている。症状を説明したら院外で待つように言われ、数分もしないうちに新型コロナウイルスのテストをすると告げられた。テストをした看護師は防護服で全身を包んでいる。人間として扱われていないような、すごく嫌な気分になりました。結局、テストの結果は陰性。単なる風邪だと分かったのでほっとしましたが、なんとも複雑な気持ちでした。
日用品を買うのも大変な状況でした。ナッシュビルのスーパーマーケットはどこも品薄状態で、空棚が目立ちました。特に牛乳や卵、パンやコメ、トイレットペーパーなどは数週間にわたって入手困難となった。通信販売など考えられる手段は全て尽くしたのですが、それでも手に入らないものは多かった。誰よりも早く商品を買うために早朝にスーパーに出かけたり、人がいない深夜に行ってみたりと工夫しました。ところが実際の供給量や備蓄量に問題は起きていないことが後になって分かりました。人々がパニックを起こして買い集めに走ったがゆえの混乱でした。
米国経済はここ数年非常によく、日用品はあって当たり前で、品薄になるなんて予想すらしたことがなかった。ところがコロナパニックで手に入りにくい状態を初めて経験して、実際には必要のない、商品の買い集めが起きたんだと思います。「最低限の生活に必要な品を手に入れるために人々が日々闘っているキューバや、その他の最貧国のような状態だ」。キューバから移住してきた友人が言った言葉が忘れられません。