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サハリンの日本遺産 姿消す統治の名残

迷宮ロシアをさまよう 更新日: 公開日:
サハリン州地誌博物館は、かつての樺太庁博物館。(撮影:服部倫卓)

消滅する日本由来の狭軌鉄道

ユーラシア大陸の東、北海道の北に浮かぶ樺太島(ロシアでの呼び名はサハリン島)は、日露戦争後の1905年のポーツマス条約により、北緯50度線を境に南北に分割され、北は帝政ロシア(後にソ連)領に、南は日本領になりました。しかし、第二次大戦末期の1945年8月のソ連対日参戦によって、ソ連軍が南樺太を占領。以降、樺太島全土を、ソ連(後にロシア連邦)が実効支配し、現在に至ります。今日のロシアの行政区画では、樺太島は極東連邦管区の中のサハリン州に属しています(樺太島だけでなく、千島列島=クリル諸島もサハリン州に所属)。

サハリン南部には今でも、日本統治時代の遺産が、わずかに残っています。その一つに、かつて日本が敷設した軌間1,067mmの狭軌鉄道もありました。ところが、ロシアは2003年からサハリンの鉄道の軌間をロシア本土と同じ1,520mmの広軌に入れ替えるプロジェクトに着手。曲折を経て、このほど9月1日より、広軌による鉄道運行が開始されました。

こうして、サハリン島における日本統治の名残が、また一つ姿を消しました。このニュースに接して、サハリンにおける貴重な日本遺産の風景を取り上げてみたくなりましたので(あくまでも私の限られた体験の範囲内ですが)、今回はこのテーマでお送りします。

ちなみに、プーチン政権は間宮海峡(その最狭部のネベリスコイ海峡)に橋を架けてロシア本土とサハリン島を結び、ここに鉄道を通すという壮大なプロジェクトを計画しています。サハリンの鉄道をロシア本土と同じ1,520mmに作り替えたのは、将来的に大陸とサハリン島を鉄道で行き来できるようにするための布石でもあります。

下の写真は、まだ線路が狭軌だった2013年に、州都ユジノサハリンスク(かつての日本名は豊原)の駅で筆者が撮影したもの。その後、線路、車両ともに広軌のそれに一新されてしまったはずなので、今となっては貴重なショットと言えるかもしれません。

なお、「D2-007」と書かれた手前にある列車は、1986年に富士重工宇都宮車両工場で生産されたものだそうです。当時のソ連運輸通信省が、日本の鉄道車両技術を参考にする狙いもあり、10編成40車両を、当時の日商岩井を介して輸入したのだとか。寂しいことに、サハリンにおける狭軌の廃止に伴い、この列車も引退する方向のようです。

2013年、ユジノサハリンスク駅にて(撮影:服部倫卓)

博物館が代表的な建築遺産

今日のサハリンの街中を歩いてみても、日本統治時代の建築物などは、あまり残っていません。そんな中、かつて日本が建てた樺太庁博物館の建物が、現在はサハリン州地誌博物館として使用されており、日本風の建築が往時を偲ばせています(冒頭の写真参照)。樺太庁博物館は1937年に開館し、日本の城郭屋根を乗せた当時流行の帝冠様式の建築でしたが、1945年8月24日にソ連軍によって接収されました。

サハリン州地誌博物館では、ソ連体制下では、1905~1945年の日本時代についての資料は展示されていなかったそうです。ソ連崩壊後は、日本時代の資料についても公開されるようになりました。北緯50度線の国境標石などを見ることができます(下の写真参照)。

左側が日本の国境標石、右側がロシアの国境標石(撮影:服部倫卓)

個人的に、2013年に初めてサハリン州地誌博物館を見学して、衝撃を受けた写真があります。日本は1945年に敗戦し、南樺太をソ連に明け渡したわけですが、日本人住民はすぐに本土に戻れたわけではなく、多くは2年ほど、ソ連統治下のサハリンで苦難の生活を余儀なくされたようです。下の写真は、ソ連統治下で初めて迎えた1946年のメーデーの様子。「国営オットセイ工場」という名前や、オットセイのハリボテがとぼけた雰囲気を醸していますが、笑顔のロシア人に対し、笑っている日本人は一人もおらず、彼らを襲った過酷な運命に思いを致さざるをえません。

なお、2018年に私が再度この博物館を見学した時には、このオットセイ工場の写真は見当たらなかったと思います。ひょっとしたら、もう展示はされていないのかもしれません。

オットセイは、おそらく肉や油を利用したのだと思われるが、詳細は不明(撮影:服部倫卓)

遠征軍上陸記念碑

あれは、サハリン島の南岸、コルサコフ(日本時代の呼び名は大泊)に程近いプリゴロドノエにある「サハリン2」の液化天然ガス(LNG)プラントを視察しに行った時のことでした。その近くの丘に登ってみたところ、そこに日本語の石碑がありました(下の写真参照)。

横倒しになった碑文には、「遠征軍上陸記念碑」とあります。私は確認できませんでしたが、後日、日本総領事館でうかがったところ、1905年という年号も書いてあるとのことでした。つまり、日本が日露戦争に勝利して南樺太を領有した際に、軍が当地に遠征し、それを記念したもののようです。

ちなみに、今日この地は海水浴場として地元民に人気があるようで、丘の周りは駐車された車で溢れていました。打ち棄てられた日本語の石碑、屈託のない笑顔で溢れるビーチ、そしてその向こうに見える世界最大級のLNGプラントと、なかなかシュールな風景でした。

コルサコフ(かつての大泊)近郊にある遠征軍上陸記念碑(撮影:服部倫卓)

旧北海道拓殖銀行大泊支店

そのコルサコフの中心部には、日本統治時代の建築遺産が、ひっそりと残っています。旧北海道拓殖銀行の大泊支店の店舗がそれです。私自身は訪問したことがないので、下に見るように、かつての同僚が撮った写真をお借りしました。

同行が樺太で営業を開始したのは日露戦争が終わって間もない1905年で、日本銀行の委託を受けた拓銀が社員を派遣。1907年には正式に支店となり、一部預金為替業務も開始したということです。

大泊支店はソ連の南樺太占領によって閉鎖されたものの、建物は残り、近年は日本の極真空手の道場として使われたりしていたそうです。内部は大理石の柱が立つモダンな造りながら、写真に見るように、近年は建物の傷みがだいぶ激しくなっていました。最新の情報では、シートが被せられて、修繕工事が行われていたようです。したがって、この日本遺産については、どうにか消滅を免れ、これからも日本統治時代の名残を留めてくれそうです。

旧北海道拓殖銀行大泊支店。2006年3月撮影(撮影:芳地隆之)