前編はこちら→マレー半島に伸びる中国の鉄路(上):曲折しながら進む「一帯一路」
ナジブ政権下でシンガポールと合意した案では、クアラルンプールとシンガポールを時速320キロで走り、1時間半で結ぶ構想だった。距離は東京―名古屋間とほぼ同じ350キロ。2026年の開業を目指し、国際入札が予定されていた。
マレーシアはマハティール政権のもとで現在、地元コンサルタントを使って事業費の圧縮や政府の負担の軽減などを課題に見直しを進めている。年内にまとめ、年明けからシンガポール政府と話し合い、来年5月にまでには方針を固める。マレーシア側が計画を一方的に破棄すれば巨額の違約金も発生する。とりやめてしまう可能性は低い。企業や各国政府の関係者には、政府の負担を減らして着工に向けて準備を再開する方向と受け止められている。
実のところ、マハティール政権下で入札が先送りされ、日本勢は安堵している。
中国と比べて劣勢は明らかだったからだ。
ナジブ前政権下でのマレーシアと中国の政治的な蜜月によるものだけではない。中国が提案する事業費のコストは日本より4割ほど安いと言われてきた。さらに、採算度外視で乗り込む国有企業中心の中国と民間企業中心の日本とでは、とれるリスクの幅が違う。
しかも、日本は人材が足りない。海外で鉄道の建設に携われる技術者が限られる。先行するインドでの高速鉄道建設に人手をとられ、「インドと同時にマレー半島が動いたら、物理的にも対応できない」(日本の総合商社幹部)との声すらあがっていた。
考えてもみてほしい。中国の高速鉄道の総延長は約3万キロ。日本の10倍である。国土は広く、人口も多い。経済規模は3倍近い。当然といえば当然だが、同じ目線で世界中でインフラ輸出を競いあうには、かなりの無理がある。日本のビジネスの現場の一致した意見である。
マハティール氏の登場で、高速鉄道商戦に幸い「水入り」が入った。国土交通省幹部は「親中を隠さなかったナジブ政権のもとでの入札にならずにすんで良かった。マハティール政権による仕切り直しは大歓迎だ。チャンスはある」と話す。「日本からも良い提案をしたい」。日本政府はマハティール氏にそう、伝えているそうだ。「アベノミクス」の成長戦略の一角を占めるインフラ輸出には、安倍晋三首相自ら旗を振っているだけに官邸を中心に日本政府の鼻息は荒い。こうした政界や官界の意欲は世論に裏打ちされたものだ。高速鉄道商戦は、日本のナショナリズムのツボを強く刺激する。「『ぱくり新幹線』の中国に負けるな」。インドネシアのジャカルタ―バンドン間の高速鉄道計画を日中で競り合った結果、中国が2015年に獲得して以降、日本国内の新幹線に対する愛国濃度が高まった。
ただ、JRや住友商事など日本企業は、日本の政治家や政府、そして国内の世論ほどは前のめりではない。現地の日本企業の幹部は淡々と語る。「延期には正直言って、ほっとした。国有企業が全面に立つ中国と競うのはコスト的に厳しい。民間企業としては採算にあわなければ、参画には慎重にならざるを得ない。新たな計画を見極めたい」
マレー半島と東アジアとつなぐ鉄路は、習政権の「一帯一路」がオリジナルではない。第2次世界大戦中には大日本帝国も夢想した。戦後も1960年代に浮上し、東西冷戦期には棚上げになっていたものの、マハティール氏自身も1990年代に「東南アジア縦貫鉄道」を提唱している。
世紀をまたぐプロジェクトは、誰の手に落ちるのか。マレー半島をどう変えていくのだろうか。
そんなことを考えながら、高速鉄道が予定されているクアラルンプールからシンガポールへ向けて在来線に乗ってみた。6月中旬のことだ。2016年春にはシンガポールからクアラルンプールまで北上したこともある。冷房ががんがんにきいて震え上がったので、今回はウールのカーディガンを持参した。
マレーシア内の直通便はなくなっていた。途中まで電化されたからだ。まずはマレーシアの交通の中心となるKLセントラル駅からグマス駅まで約165キロについて、インターネットを通じて切符を買った。31リンギ(約780円)。この区間は3年前と異なり複線になり、電化もされている。6両編成の車両は、中国の国有企業「中国中車」の株州(湖南省)工場製と記されている。線路の幅は1000ミリのまま、時速160キロまで出せる。「メーターゲージ世界最速」(中国網)とうたう。正午すぎに出発し、2時間半ほどで着いた。椰子の木が続く車窓からの景色は単調だ。車内の売店でチキンライス弁当(8リンギ=約200円)を買って食べたら、睡魔に襲われた。
目が覚めるとグマス駅だった。ここで、シンガポール国境のジョホールバルにあるJBセントラル駅行きに乗り換える。列車の待ち時間は約1時間。冷房がきいていない駅の2階でじっと待つ。売店もなく、のどが乾く。猫が歩いている。
出発が近づき、アナウンスに従ってホームに降りると、窓ガラスに大きくひびが入った古い車両が待っていた。ディーゼル機関車に牽引され、列車は定刻通り3時35分に出発した。電化されていないうえ単線でもあり、遅い。急に速度が落ちた。扉がしまらず、バタンバタンとずっと大きな音がしている。ほこりが入ってくる。顔がすすけそうだ。約197キロに4時間半もかかり、到着したら午後8時。日が暮れていた。クアラルンプールから8時間もかかった。こちらの切符は21リンギ(約530円)。
この区間も複線にして電化する工事が進んでいる。車窓から赤っぽい土が掘り返されているのが見える。中国企業が一部を請け負っている。クアラルンプールからジョホールバルまで乗り換え無しで走れるようになる。時速160キロで、時間も3時間半まで短縮される。現在の半分以下である。
シンガポール国境の駅JBセントラルに入ったとたん、人々が歩く速度が上がっている気がした。出入国の手続きで長い列に並ぶ。夕方のラッシュとも重なって混み合うバスを乗り継いで都心へ向かう。ホテルに着いたら夜の10時を過ぎていた。
それでも、マレーシアの鉄道はタイやベトナムなど近隣国と比べれば近代化されており、電化も進んでいる。この区間も両国間の出入国の手続きを簡素化したり、相互に乗り入れたりするだけでもかなり時間は短縮されそうだ。シンガポールは1965年にマレーシアから独立した経緯もあって、意図的に往来を不便にしてきたともきく。関係の安定を受けて、両国の国境近くの街を鉄道でつなぐ計画がある。2024年の開業を目指す。わずか4キロの区間ではあるが、5分で往来できるようになる。
いずれシンガポールの都心へとつながる。物価が安いマレーシア側に住んでシンガポールに通勤している人もいる。地元の人々の生活だけでなくビジネスや観光にとっても便利になるだろう。
クアラルンプール―シンガポールは高速鉄道で1時間半。いっぽうで、在来線を高速化すれば上述したように3時間半、そして飛行機ならわずか1時間である。毎日すでに約30便も直行便があり、格安航空会社(LCC)なら片道約5千円だ。新線を敷くことに伴う沿線の開発による経済効果への期待はあるとはいえ、人々の生活には身近な都市鉄道の充実がより待たれているのではないか。高速鉄道はどれだけ需要を掘り起こせるだろうか。飛行機や在来線、高速バスとの競争から運賃は抑えられるはずだ。利益を上げられない構造なら、民間企業中心の日本勢は及び腰になる。「マレー半島の先端、大規模な港を持つシンガポールは安全保障上の要衝だ。潜在的な脅威である中国に鉄道を敷かせるわけにはいかない」。そう話す日本政府の幹部もいる。ただ、その「脅威」と鉄道を、シンガポールやマレーシアは結びつけて考えるだろうか。
マレーシア北部のペナン島では海を埋めたて人工島を造り、鉄道でつなぐ構想があるそうだ。日本企業も関心を寄せている。ここでは、中国は新しい技術で攻めている。レールを使わず道路の上を自動走行できる「ART」という乗り物だ。軌道を敷設しないだけ事業費が安くつくという。見た目は電車だが、電気バスのようでもある。中国はマレーシアでの普及を目指して、地元企業と合弁会社も設立した。すでに北部には電車の組み立て工場もある。「コスト」競争力だけでなく、マレーシアが欲する投資も武器にする中国は、なかなか手強い。
日本に出番はあるのだろうか。
日本政府はマハティール氏の要請をうけて、既存の交通網を活用しながら、鉄道のみならず、航空やバスなど総合的な交通のあり方の調査に取り組んでいる。マハティール氏も5月に東京で開かれた安倍首相との会談で、JRグループによる鉄道技術者の人材育成への協力に対して感謝を表明していた。計画や人材づくりの段階からの関与をもくろむ。
鉄道の協力で、日本の長所をいかせる分野はどこにあるのか。高速鉄道に執着する意味は何か。クアラルンプール―シンガポール高速鉄道の商戦が再開すれば、改めて突きつけられる問いである。