中国・東北地方を高速鉄道に乗って5泊6日で旅した。昨年8月下旬のこと。ルートは、ハルビン―長春―瀋陽―大連の全長約920㌔。東京から広島のちょっと先までの距離である。
戦前には、南満州鉄道(満鉄)の看板列車、特急「あじあ号」が駆け抜けた区間だ。旅の道連れは「鉄学者」でもある政治学者、原武史さんら。道中、瀋陽鉄道陳列館(遼寧省)で小学生のころから夢にみた「あじあ」との対面を果たした話は、前回のコラムで書いた。
じつは、この鉄道の旅にはもう一つ、大きな期待があった。スマホを使った注文による車内への出前である。
中国の高速鉄道では2017年7月、スマホで事前に注文しておくと、乗車後に座席まで食べ物や飲み物を持ってきてくれるサービスが始まった。マクドナルドやケンタッキーフライドチキンから、肉まんや牛肉面、宮保鶏丁弁当まで、多くは駅構内にあるファストフード店を対象にしている。
スマホ決済の先進地である中国は、ちっちゃな屋台までキャッシュレス。街に出前も広がり、配達するバイクが走り回っている。そのサービスの応用形が高速鉄道にまで達していた。
これは、試してみたい。
長春西駅にあるケンタッキーの注文サイトを探して、フライドチキンをひと箱、買ってみた。中身は確か、約80元(約1300円)、配送料として日本円にすると150円ぐらいかかった。正確にいえば、注文は中国の友人に頼んだ。中国の携帯電話番号とスマホ決済システムに対応したアリペイなど中国の口座が必要だからだ。持っていれば、外国人でも注文できる。
私たちが乗った「和諧号」G8012は長春駅を定刻の12時7分に瀋陽に向けて発車した。長春西駅は次の駅だ。10分ほどで着いた。すぐ届くかな、とわくわくしながら座っていたが、なかなか来ない。長春―瀋陽(約330㌔)は1時間半足らずで着いてしまう。間に合うだろうか。なにより冷めてしまうではないか。
中国では新しいサービスを打ち上げたものの、試してみると欠点だらけの場合も少なくない。逆に言えば、見切り発車でもとにかく始めて「バグ出し」、つまり不具合を発生させながら改善していく強みもある。失敗したと見切ったら、撤収も早い。あっというまに、やめてしまう。
そんなことを考えながら待っていると、車掌さんがようやく、赤い箱に入ったフライドチキンを1号車の私の席まで持ってきてくれた。12時28分。ほんのりと暖かい。配達のめどとされている30分以内には届けられた。
利用できる駅やメニューが限られているとはいえ、このサービスは徐々に広がっている。中国鉄路総公司によると、全国38駅(6月時点)で注文できるようになったそうだ。予約も発車の2時間前までの制限を1時間まで縮めた。特産品のお土産を届けてくれる駅もあるそうで、サービスの進化ぶりをまた試してみたい。
中国の高速鉄道の車両には、基本的には食堂車はない。お弁当や飲み物、お菓子を売るコーナーはある。ここで売られているお弁当が、はっきり言っておいしくない。レンジでチンしているせいか、湯気がこもって、ごはんもおかずもしっけている。炒め物が多く、見た目もどんよりと茶色っぽい。彩りの概念を感じさせない。例外として、ごはんが過去最高においしかったお弁当は、北京―上海線を開業したときの1番列車。野菜炒めとごはんで25元(約425円)。2011年6月のこと。温家宝首相(当時)が開業を記念して途中まで乗っていたからに違いないとつい、邪推してしまう。
高速鉄道のホームには安全管理のためか、日本のキオスクのような店舗はいっさいない。駅の構内でも、パンやソーセージなどは売っているが、「駅弁」らしきものは見かけない。「食べテツ」でもある私は、「食の大国」中国の駅弁のそっけなさが残念でならない。
上海出身の20代の友人は「中国人はあたたかい食事を好む。日本に旅行したときに駅弁を食べるのは風情があって楽しいが、ふだんは冷たい食事はできれば避けたい」と解説する。在来線では、カップラーメンが旅のお供の定番だ。だが、高速鉄道の場合、そもそも食事を車内でとらない人も多い。「列車の旅を楽しむよりも、高速鉄道はあっというまに着くこともあって単に移動する感覚。お弁当をふくめて食べることに執着していない」と彼女は言う。
駅の周辺は新しく開発されたマンションが目立つが、沿線にはトウモロコシ畑が広がる。山や海が迫り、トンネルをくぐりながら走る日本の新幹線とは風景がまるで違う。中国の高速鉄道は、時速300㌔超でとにかくまっすぐ、びゅんびゅん走る。地形の差を考えると、営業速度を競いあうのはあまり意味がないことがよく分かる。
鉄学者の原武史さんは「見える風景がかわり映えしないので、窓の外を見る気がしない。今どこにいるのか、距離感すら失ってしまう。発車の直前まで改札を閉めているので、ホームをうろうろする楽しみがない」とためいきをつく。中国の高速鉄道はあくまでも、移動の手段なのだ。
鉄道は土着のものである。地形はもちろん、その社会に応じた発展をとげる。スマホで注文、決済し、座席まで温かい状態で配達する新たなサービスは、電子商取引で世界一の規模を誇る中国らしい「駅弁」だ。あまたとある沿線の名物が、座席まで出前される日が来るだろうか。食いしん坊として、さらなる充実を楽しみにしている。
フライドチキンを食べ終えて、しばらくすると列車は瀋陽に到着した。
中国の高速鉄道網は10年ほどで、総延長2万5千㌔に広がった。日本の新幹線の約8倍である。ハルビン―大連は、真冬には零下40度もの極寒の地を走る路線だ。建設にあたって、強気な中国もさすがに懸念を秘めていた。
2006年11月のこと。日本、ドイツ、フランスの間で高速鉄道をめぐる10年ごしの受注合戦が繰り広げられていた。その渦中、中国鉄道省(当時)の幹部から日本政府に対して、ある提案があった。
北京の天安門広場の西、鉄道省の会議室。中国軍の最高意思決定機関である共産党中央軍事委員会や国防省の一部が入る建物、八一大楼のすぐそばだ。1949年の発足当初は、人民解放軍出身者が大臣を務めた。軍と深い関係を持つ巨大組織である。
日本大使館の西宮伸一公使を呼び出したのは、張曙光・運輸局長。車両畑を歩み、高速鉄道の技術を海外から導入するにあたって、首席交渉代表を務めていた。「高速鉄道の第一人者」と呼ばれた人物だ。ふたりは会議机をはさんで向き合った。双方の部下もわきに控えた。
「ハルビンから大連まで、高速鉄道の建設を日本に任せたい。寒冷地でもあり、高度な技術が必要だ。新幹線方式でやってほしい」 まさに、「あじあ」が戦前、駆け抜けた路線である。西宮氏は即答をせず、持ち帰った。宮本雄二大使を含め、北京で商戦の最前線にいた外交官や企業の担当者は大いに乗り気だった。張氏は東京にも出向き、日本企業の本社の幹部にも説明した。歴史問題などをめぐる長年の対立を抱えていても、中国の鉄道官僚は長く支援を続けてきた日本企業や技術者らを評価していた。
だが、日本側は結局、断った。新幹線も零下40度もの寒冷地で走った経験はない。日本企業として、未熟な技術は輸出できない、と。さらに言うなら、中国政府に対する不信もつもりにつもっていた。「北京―上海こそを新幹線でやりたかった。欧州勢とてんびんにかけられたうえ、最果ての地か」「満鉄と重なる路線。政治的にどうせもたないだろう。中国に振り回されるのは、もういやだ」。前年には、小泉純一郎首相の靖国神社参拝への反発などから北京や上海などで大規模な反日デモが起きていた。東京本社の幹部は冷めていた。あっというまに夢はしぼんだ。
結局、中国は自力で開業した。12年12月、着工から5年あまり。在来線の特急で9時間半かかったハルビン―大連間が、最短3時間半で結ばれた。
北京に駐在し、中国政府と直接交渉してきた担当者らは今でも悔しがる。「東北地方に新幹線方式を走らせていたら、中国の鉄道産業に対する日本の影響力を高めるだけでなく、日中協力の象徴になったかもしれない。やってみたかった」
私は当時、北京で鉄道問題も取材していたが、恥ずかしながらこの提案には気づかなかった。政治的に敏感な話題として伏せられていた。もっとも、運輸局長だった張氏は数年後、やり手で知られた劉志軍鉄道相とともに巨額な汚職で起訴され、死刑判決を受けた(のちに二人とも無期懲役に減刑)。北京青年報によると、モーレツな働きぶりで名をはせた劉氏は、獄中でも罪を反省する論文が「獄内二等賞」を受賞し、「労働改造積極分子」として評価されたという。
劉氏は元国家主席の江沢民氏と親しい関係にあると言われていた。中国で汚職摘発は権力闘争と一体だ。あの事業を引き受けていたら、日本企業が巻き込まれていた恐れもあっただろう。明暗ともに、「もしも」が頭をかすめた。
日中の歴史を踏みしめながら、和諧号はずんずん走った。線路は社会を切り裂いて敷かれているように見えて、その社会に包まれている。