BTSといえば、世界的にはKポップグループ「防弾少年団」。でも、バンコクにはもう一つある。「Bangkok Mass Transit System(バンコク大量輸送システム)」。高架鉄道スカイトレインのことだ。1999年12月に開業した。タイではトムヤムクン危機と呼ばれるアジア通貨危機の直後だった。23キロからじわじわと延長し、目下の運行距離は約60キロ。都会の空を貫いて4両編成でゴトゴト走る。派手な広告でラッピングされた列車も多い。初乗りは16バーツ(約60円)。ひどい渋滞に悩まされるバンコクで暮らす私にとっては、大事な生活の足である。もともとはドイツの技術で建設され、車両もシーメンス製だったが、10年から中国中車製が混じるようになった。モノレールではなく、標準軌(1435ミリ)の鉄道である。
そのBTSが制作したコロナ対策の動画に登場する主なメンバー5人と、ハーイェーク・ラプラオ駅で待ち合わせた。3月初旬に本社やメンテナンスセンターと並んで動画のロケ地となった。昨夏に延伸を果たしたばかりの新しい駅だ。振り付けを担当したのは、運行管理部門で働くドリームさん(28)。大学時代からKポップをカバーし、歌って踊っていたそうだ。「手を洗おうとか、距離をとろうとか、メッセージが伝わりやすく、元気がわくダンスにしました。完璧を目指すKポップの精神はベースにあるけど、AKBのように親しみやすい雰囲気を心がけました」
一度聴くと耳に残る。一緒に踊りだしてしまいそうなノリである。「COVID-19 武漢で始まった。急速に広がって、人々は死んでいく」。発生地論争に躍起になっている中国政府の思惑はさらりと受け流し、歌詞では武漢にも触れている。手洗いや他人と距離を取ることのほか、じか箸を避けたり掃除をまめにしたりしよう、身体も鍛えようと呼びかけている。彼らダンスチーム以外にも、メンテナンスセンターや本社の管理部門の人々も登場する。
動画制作の緊急プロジェクトを立ち上げた会社の呼びかけに、ドリームさんのほか、社内の運動会などでチアリーダーを務めるナナさん(38)や高校時代からタイ・ダンスになじみのあるトーンさん(31)を軸に、アンさん(26)、インさん(23)らがチームに加わった。曲をきいて踊りをあわせてリハーサル、撮影まで、わずか1日で仕上げた。みんなバンコク生まれのバンコク育ち。息があっている。
フェイスブックで公開し、駅の構内でも流し始めると、国内に限らず朝日新聞をはじめ日本、米国、韓国、インドネシア、香港など外国メディアからも注目を集めた。ある駅の責任者であるナナさんは「よくわからない病気でもあり、乗客のみなさんの心配やストレスを減らせればいいな、と思ってプロジェクトに参加しました。こんなに話題になるとは思っていませんでした。コロナ禍のなかで交通の現場で働く私たちへの励ましの言葉もいただき、うれしかった」と話す。
タイの新型コロナの感染者は3378人、死者は58人(8月17日時点、米ジョンズ・ホプキンス大学まとめ)。3月末からタイ政府による非常事態宣言が出されたままではあるが、市中感染は2カ月あまりにわたって確認されていない。目下のところ状況はうまく管理されているといえる。とはいえ、感染リスクを抑えるため、BTSも一時は運行を2~3割まで減らし、今もまだ6~7割までしか戻せていない。改札口では検温があり、乗車にはマスクの着用が義務づけられている。
そもそも運輸業に携わり不特定多数の乗客と向き合う彼ら自身が日々、コロナウイルス感染の危険と隣り合わせだ。インさんやアンさんは駅の窓口で働いており、家族は心配していたという。「会社から支給されたマスクをつけています。会社は医療保険もかけてくれ、安心しました」とインさん。社内に約15人いる女性の運転手でもあるトーンさんは「お客さんを乗せて走るプロとして、自分の健康をまず管理せねばと緊張します。消毒用のジェルがあっというまに減っていきます」
そんな中で制作された動画の仕掛け人は、同社の戦略コミュニケーションアドバイザーを務めるナリサラ・スリサンさん(39)だ。未知の病であるコロナに対する注意喚起として、歌やダンスで呼びかける案を思いついた。趣味でつくっていた自作の曲を社員と一緒にアレンジし直し、歌詞をつけた。上司から企画にゴーサインをもらうと、わずか1週間で動画公開にこぎつけた。なんとスピーディーなプロジェクトだろう。「タイで非常事態宣言が出る前でしたが、感染症対策が目的ですから時期を逸しては意味がない。出演は社員ですし、コストもかかっていませんよ」。公開直後はSNSに「素人くさい」などと批判的なコメントがまじっていた。「ひやひやしましたが、1週間ぐらいで理解を得られたと感じました。外国からは想像を超えた反響がありました」と喜ぶ。英語表記をつけた静かな曲調の第二弾も制作した。
バンコクに駐在する日本企業の幹部は言う。「明るい雰囲気で緊張感を和らげてくれる。感染リスクにさらされるBTS社員にとっても一体感をもたらす効果があったのではないか。ただ、もし日本の企業が従業員を登場させてAKB風のコロナ対策動画を作ったら、日本社会はどう反応しただろうか……」。場合によっては、危機意識に欠けている、ふざけていると批判を浴びたかもしれない。確かに、タイ発の動画なら楽しめても、日本でそのまま受け入れられるとは限らない。コロナがもたらす緊張感やストレスの発露の仕方は、それぞれの社会によって異なる。いかに対応を議論し、状況を改善させていくか。コロナ対策は、医療技術を超えた社会のありようと切り離せない。タイ社会には、危機のなかでもこうしたちゃめっけのある雰囲気がゆるやかに受け入れられる幅の広さがあるのだろう。
BTSの投資家向け資料によると、バンコクで大量輸送を担う交通手段のうち、バスが8割を占めてダントツである。鉄道は13%。半分近いシンガポール、東京や香港に比べると、存在感はまだまだだ。BTSは5年後には運行距離を現在の3倍以上の210キロ、10年後には8倍以上の515キロまで延伸する野心的な計画を持っている。バンコク名物ともいえる大渋滞の緩和に期待したい。