DD51が見えた。青くつややかに輝く「北斗星」のままだ。バンコクのフアランポーン駅から約80キロ。単線にゆられて約2時間で、ノンプラドク駅に着いた。線路の向こうにあるタイの鉄道工事会社ASの車両基地が、DD51の新たな居場所である。近づくと、金のラインや車両の側面の星の図案も見えてきた。
この2両は1975年から、北海道で「北斗星」「カシオペア」「はまなす」「トワイライトエクスプレス」などを率いていた。所有者のJR北海道が2015年に廃車にし、商社を通じてAS社が買い取った。「日本製の機関車は保全状態が良い」とみこまれた。タイのレムチャバン港からは特別なトレーラーを仕立てて運ばれた。警察の先導もついた。タイ国鉄がすすめる複線化工事で、来年からバラスト(砂利)を積んだ貨車を引っ張る予定だ。雪国から南国へ。タイの線路の幅は1000ミリ。日本は1067ミリ。わずかの差とはいえ、車幅の調整を進めていた。蒸気機関車に代わるディーゼル機関車の代表格として日本の発展を支えたDD51は整備や点検を受けながら、静かに出番を待つはずだった。
しかし、日本のテツは見逃さなかった。
タイに住む翻訳家の木村正人さん(52)が2018年秋、DD51のノンプラドクへの到着を知り、AS社を訪問。その姿を自らが運営する動画サイト「鉄道タイランドCH」にアップした。木村さんは鉄道好きの息子さんと一緒に乗り鉄をしながら映像をインターネットにアップするユーチューバーでもあるのだ。
長崎のテツがすぐに反応した。九州の鉄道ファンクラブ「長崎きしゃ倶楽部」代表世話人の吉村元志さん(62)だ。本業はホテルの営業本部長だが、小学校2年生のころから鉄道時刻表を買い始め、中学校2年生から乗った列車のすべての時刻や車番をノートに記録している。筋金入りの「テツ」である。
そして、DD51のファンだった。
1960年代から70年代にかけて約650両が生産されたDD51は、日本全国で特急、急行、普通列車から貨物列車まで率いて走った。吉村さんが子ども時代に大好きだった蒸気機関車を「駆逐」してしまった敵のような存在でもあったが、高度成長期の勢いある日本の象徴のような存在だった。そのまま、自らの思春期から壮年期の思い出にも連なる。2011年の東日本大震災のときには、被災地へ石油を運ぶため、全国からDD51が集められたこともあった。
いろんな雄姿が頭をよぎった。
吉村さんは昨年12月、DD51に会うためにタイへ飛んだ。木村さんとともにAS社を訪ねた。
驚いた。日本語で書かれた薄いマニュアルしか渡されておらず、運転席など車内の表示は日本語のまま。タイ語が達者な木村さんがタイ語に訳してシールを貼っている操作ボタンもあるが、十分ではない。日本から技術者は来ず、同じくDD51を扱うミャンマー国鉄の担当者による指導だけが頼りだった。
木村さんが動画に撮ったAS社の技術者の操作を見た日本の技術者は「起動からブレーキ操作まで基本と異なる」と指摘した。
危ない。重大な事故がおきかねない。AS社の方々は日本が好きで、機関車も大事にしてくれているのに……。DD51の再出発が心配になった。
そこで、日本から専門家を派遣するために、二人はクラウドファンディングを思い立つ。北海道企業のバンコク駐在員でもある鉄道愛好家小林涼太郎さん(32)も加わった。
目標額を150万円に定めて、8月11日に立ち上げた。これだけあれば、ふたりの技術者を日本から招くことができる。「AS社の皆さんは限られた資料を用いて手探りで整備しているが、車両のくせなど実際に運転してきた人でないと分からないものがある」
DD51など日本のディーゼル機関車の海外での人気は高い。「ミャンマーなど引退を待っている国もある」(海外鉄道技術協力協会〈JARTS〉)そうだ。手入れをすれば50年以上は使えるという。いっぽうで、日本から譲渡を受けたものの、タイに限らず、うまく扱えず放置されて朽ちていく車両もある。
今回の車両の値段は「1両4千万円」(AS社)。室蘭港からタイ・レムチャバン港の輸送費も含む。日本人の指導がないのも車両の表示がそのままなのも、売った方が親切ではないとはいえ、もともと約束をしていなかったことなら仕方がないとも言える。ミャンマー国鉄が使っている日本の中古車両の運転席を見ると、表示はすべて日本語のままだった。AS社は企業である。必要であれば、その費用を支払って日本人を呼び寄せることもできるだろう。
少々意地悪な言い方をするならば、なぜビジネスに関係のない人たちが何の得にもならないことに対して、身銭を切って支えるのだろうか。
やぼすぎる問いかもしれない。
そう、好きなんだな。これが好きだということだ。鉄道が好き。DD51を縁に出会ったタイのAS社の人たちのことも好き。損得を超えるからこそ愛好家なのだ。
共感の輪は広った。10月2日までに150人が応じ、目標を達成した。募金の額に応じたリターンにも趣向がこらされている。「DD51写真つきクリアファイル」「現地DD51の壁紙用画像の無料進呈」「機関車内に名前を記載する」「DD51構内走行に添乗」……。DD51が好きな人でなければ、おそらくたいした価値はない。
でも、好きならば、そこに愛おしいほどの価値が生まれるのだ。
9月下旬に現地を訪問した吉村さんらに同行した。AS社との対話のなかで、鉄道工事事業執行取締役のポンサック・スティブーンさんが「法人じゃなく、有志としての支援がほんとうにうれしい」と語った。自分の祖父が日本で運転していた機関車だと言って、わざわざ見に来た日本人もいたそうだ。「大事にされていたんだなあと愛着がわきました」。通訳を務めた木村さんも「これで、このプロジェクトはきっとうまくいく」。双方が笑顔をみせた。
吉村さんは長崎から持ってきた「北斗星」のヘッドマークのレプリカを手渡した。裏側には、ママ鉄として日本では知る人ぞ知る豊岡真澄さんのサインが記されていた。「豊岡さんのサインですよ」とうれしそうに伝える吉村さんに対して、AS社の幹部陣はきょとんとしていた。実は、私も彼女を存じ上げなかった。タイの方が知らずとも不思議とは言えまい。
テツの海は広い。こだわりのありかしだいで、同じ車両にも違う風景が見える。
タイに来たDD51は偶然ながら、70年余り前の歴史とも縁がある。
AS社によると、DD51を整備している車両基地のあたりは戦中、日本軍の倉庫があった場所だったそうだ。この駅は第2次世界大戦中、日本軍がタイ―ビルマ(現ミャンマー)間に敷いた泰緬鉄道(約400キロ)の泰側の起点である。日本軍が連合軍の補給路を遮断しようとしかけてインドに攻め込んだ「インパール作戦」で、日本軍の補給路を確保するための鉄路として造られた。日本語をまじえた石碑がホームにあった。「着工1942年9月16日、ノンプラドク駅から建設が開始された」。西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島の戦いが始まった直後。連合軍が本格的な反攻に転じたころである。
日本軍は工事を急いだ。わずか1年で完成させた。オーストラリア人など連合国軍の捕虜のほか、東南アジアの労働者を大量に動員した。過酷な労働や病気が原因で数万人の労働者が亡くなった。アカデミー賞を受賞した映画「戦場にかける橋」のモデルにもなった「死の鉄道」として世界的に知られている。
帰り際、AS社の一人は冗談交じりに「このあたりは幽霊が出るっていわれているんだよ」と笑った。それ以上は語らなかった。
タイの鉄道に詳しく、「タイ鉄道と日本軍」などの著書がある柿崎一郎・横浜市立大学教授は明かす。「倉庫のものを盗んだタイ人を日本軍が殺したという記録も残っています。各地でいろいろなもめごとがあったようです」
吉村さんたちにすれば、DD51を追いかけてきて偶然に出会った歴史だ。「DD51を長く安全に使ってもらえるように協力を続けたい。泰緬鉄道の起点駅がDD51の新たな拠点になるわけですが、私たちの協力を通じて日本とタイの友好の星にしたい」。クラウドファンディングは、目標額を上回り約180万円(10月11日時点)に達した。「支援の幅を広げたい」と期限となる10月末まで続ける。
末永く使ってもらうため、交換部品の供給ルートも探したいと考えている。
日本の愛好家らは、さまざまな歴史が降り積もる地に、自らの新しい歴史を紡ぎ始めた。
さて、この泰緬鉄道。タイでは国連教育科学文化機関(ユネスコ)による世界遺産の指定を目指す動きがある。ミャンマーでの取材とあわせて改めて書きたいと思う。