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釜山で鉄道を語ってみた 「駅テツ」との出会い 韓国編(上)

鉄輪で行く中国・アジア 更新日: 公開日:
韓国南部・釜山駅。駅前を再開発中だった=2019年1月19日、釜山駅、吉岡桂子撮影

韓国の港湾都市・釜山からソウル、そして北朝鮮国境に近い都羅山駅まで、列車で旅した。日本統治時代には元祖「ひかり」が中国へと駆け抜けた鉄路だ。第2次世界大戦後は南北の分断、朝鮮戦争を経て、1960年代から70年代にかけて、初代新幹線0系ひかりのそっくりさん「観光号」も走った。東アジアの近現代史を背負う朝鮮半島で「南北」が融和を模索し、「徴用工」問題などで日韓政府の関係が冷え込むなか、出会った韓国の「テツ」たちは―。上中下の3編で報告します。

韓国の「テツ」に初めて、南部の港湾都市釜山(プサン)で会った。1983年生まれ、会社員の男性だ。本名は明かさず、「小井里(ソジョンニ)駅副駅長」というペンネームで鉄道ブログを書いている。私もここでは、「副駅長さん」と呼ぶことにする。

700を超える駅を訪ねた「駅舎テツ」。貨物専用の立ち入り禁止駅や地下鉄を除けば、韓国内の駅の大半を制覇したという。釜山大学・大学院で歴史学と文献保存について納めた「歴テツ」でもある。駅の場所、外観、歴史などをデータベース化し、日々更新している。資料の収集には母校の図書館や国家記録院も活用する本格派だ。

年明けのとある夕刻。待ち合わせに指定された東莱(トンネ)駅前の日本食レストランで、照り焼き丼の定食を囲んだ。副駅長さんは仕事帰りの黒い上着姿。堅実さと丁寧さが表情ににじむ。私は韓国語が分からない。ブログを通じて「副駅長さん」を探してくれた通訳の金載協(キム・ジェヒョブ)さんに同席してもらった。

日本統治時代の1930年代に開業した東莱駅の旧駅舎。保存されている=2019年1月18日、釜山市、吉岡桂子撮影

「とりあえずビールでもいかが?」と勧めると、副駅長さんは「お酒は飲みません」。特派員として中国駐在が長い私だが、韓国で暮らした経験はない。韓国の男性はお酒好きと思い込んでいたが、出合い頭から意外な返事だ。固定観念を持たずに質問をしようと肝に銘じる。私もビールは我慢した。
副駅長さんは鉄路がない中西部の忠清南道のある町で生まれた。

なぜ「駅舎テツ」に?

大学受験で願書を釜山に持参するおり、バスで近くの駅まで行ってからムグンファ号に乗った。韓国の国花、ムクゲからつけられた名前の列車である。17年前、2002年のことだ。

途中で見かけた「小井里駅」の地名の響きと字面にぐっときて、テツの世界へ足を踏みこむことになった。駅名に「萌える」……。そんなテツもあるんだな。ちなみに、韓国語の発音は女性の名前の響きに似ているそうだ。金さんがすかさず「当時のガールフレンドの名前ですか?」とツッコミをいれた。否定されてしまったが……。

その駅は、小さな三角屋根のある、日本統治時代に多く建てられた雰囲気の駅舎だった。残念ながら、04年に火事で焼失し、建て替えられた。今はとまる列車もなくなった小さな駅だが「いちばん好き」。フィルムカメラで撮った写真を大事に保存している。

「駅に興味を持ち始めたころから、廃線になったり建て替えられたりするものが増えた。だからこそ、記録していきたいと思ったんです。これからもずっと駅の変化を追い続けます」。

10年から2年間、釜山に近い慶尚南道にある無人駅の浣紗(ワンサ)駅の名誉駅長を務めたこともある。列車を運行する韓国鉄道公社(KORAIL)の公募に応じ、登用された。制服や名札を支給され、ボランティアで構内の掃除やお客の案内をした。お茶が特産の地域で、自分で描いた茶葉を配した駅のスタンプも作った。「やりがいがあり、楽しかった」。

この制度は長く続かなかった。13年までの4年間で取りやめになってしまう。副駅長さんによれば、列車はとまるが無人となった駅の管理を助けてもらうとともに、鉄道ファンを増やすことが狙いだったが、あまり盛り上がらなかったからだ。

韓国にも2万人を超える「テツ」の愛好会があるそうだ。車両の「撮り鉄」が多く、大半は男性。だが、日本ほどには「テツ」の輪に広がりはなく、模型やキーホルダー、ぬいぐるみ、文具など鉄道グッズも乏しい。「RAILERS(レイラーズ)」という鉄道雑誌が10年~15年にかけて19号まで発行されたが、20号は出ないままになっているそうだ。「ネットに押されて雑誌不況のせいもありますが、日本ほど鉄道ファンの市場がないのが最大の理由でしょう」。

韓国にとって、日本統治時代に骨格が築かれ、多くの路線が敷かれた鉄道は、負の歴史と重なるからだろうか。

文在寅(ムン・ジェイン)政権のもと、韓国の法定記念日である「鉄道の日」が18年に9月18日から6月28日へと変更された。朝鮮半島では1899年9月18日、当時の大韓帝国下で初めての鉄道が開通した。その後、日本による統治時代に9月18日を記念日とし、韓国として独立後も引き継がれていた。しかし、「日帝残滓の清算」などを理由に、大韓帝国が鉄道局を創設した1894年6月28日を記念日の根拠に変えたのだ。

ここ釜山はかつて、さまざまな理由で日本と往来した人々の玄関口でもあった。彼らの韓国内の移動に鉄道も使われた。「徴用工」らも含まれる。今回、見学した釜山の高台にある「国立日帝強制動員歴史館」の常設展示場の出口近くの床には、短い線路が敷いてあった。参観を終えた人が、そのレールを踏んづけて出口に向かうしかけだ。

国立日帝強制動員歴史館に置かれた線路。列車で釜山に来て、日本まで海を渡った人も多かったという=2019年1月19日、釜山市、吉岡桂子撮影

副駅長さんは言う。「日本による鉄道の敷設が韓国の近代化に役立ったという一面的な評価に対しては、韓国内で反発が強い。日本は韓国の発展のためではなく、物資や労働力などを収奪するために鉄道を敷いた、と考えられています」。そのうえで、こう続けた。 「とはいえ、日本時代に鉄道がつくられたからというだけで、韓国人は鉄道を嫌いだとか関心が乏しいというわけでもないと思います」。1950年代前半の朝鮮戦争で壊され、造り直された線路や駅舎も少なくない。2004年には高速鉄道も開業した。2000年代半ばからは、廃止になった古い駅を文化財として保存する動きも広がっている。

「むしろ、日本人はなぜ、そんなに鉄道が好きなのかな、と思いますね」。これには金さんも大きくうなずいている。実のところ、私はこの質問を韓国以外のアジア各地で頻繁にうける。いつも答えにつまってしまう。日本にいると、普通に思えるからだ。

韓国と対比して言えば、日本にとっては、鉄道を近代文明の象徴として欧米の技術を追いかけ、受け入れ、第2次世界大戦中は膨張を志向する大日本帝国の道具にした。敗戦後は東京五輪とあわせて、そのころの世界最速となる新幹線を走らせた。鉄道は復興と高度成長の証しとして誇らしい存在だった。ただ、日本のテツも国家を背負いこんだ愛国テツばかりではないはずだ。自家用車よりも先に普及しており、通勤や通学の手段として、都市部の私鉄を含めて身近な存在だったことが大きい気がする。私もローカル線の無人駅から高校へ通った。自転車とあわせて足だった。戦後、「軍隊」を持たない国家として再出発したので、戦艦、戦車、戦闘機のおもちゃで遊ぶより、鉄道模型のほうが遊びの道具になりやすかった、という説を語る知人もいる。

答えになっているだろうか。

副駅長さんには別れ際、お世話になったお礼として出張に 持ち歩いていた『旧日本領の鉄道 100年の軌跡』(監修 小牟田哲彦)を差し上げた。写真もたっぷりで興味を持っていただけたようだ。日本語は話せないが「漢字は読めば分かる」とおっしゃっていた。

釜山では、廃駅になりながらも保存されている駅のひとつ、海沿いにある旧松亭(ソンジョン)駅を訪ねた。待合室には時計やムグンファ号が走っていた頃の時刻表が残る。

日本統治時代の1930年代に開業した松亭駅旧駅舎=2019年1月18日、釜山市、吉岡桂子撮影

事務室だった部屋にあかりがついている。地元の工芸作家キム・ヨンシンさんが工房として使っていた。「ここに住んで三代目なんですが、海も近く、とても気に入っている。駅の保存に役立てばと思い、アトリエにしています」。アクセサリーなどをつくって販売もしている。暖をとるストーブがわきにある。

「韓国の鉄道はもちろん、日本との間の痛々しい歴史も抱えている。若い人の中には、そもそも古い駅を保存して何になるんだ、という意見もある。でもね、駅には私たちの暮らしや思い出があるんです。家族で列車に乗って海水浴に来たときの駅なんです、とわざわざ訪ねてきた人もいました」。

駅は時代ごとに、それぞれの思い出がつまっている空間なのだ。

使われなくなった松亭駅旧駅舎に工房をもつ工芸家のキム・ヨンシンさん=2019年1月18日、釜山市、吉岡桂子撮影

彼女に勧められて駅に隣接する廃線を歩いてみることにした。列車が走っているころから、美しい海が見える区間として知られていたそうだ。廃線後は紆余曲折を経て散歩道として整備されることになり、工事が進んでいた。夕闇がせまるなか、線路に沿って歩く人かげがポツポツと見えた。

翌日、釜山駅に向かった。中部にある京釜線大田(テジョン)まで列車に乗るためだ。ガラス張りの現代的な駅舎のテラスから、釜山港が見える。「きっと伝えてよ カモメさん 今も信じて耐えてる私を」――。80年代に日本でもはやった『釜山港へ帰れ』が歌詞の記憶も鮮明に口をついて出てきた。

山口県下関市と韓国・釜山を結ぶフェリー=2019年1月18日、釜山港、吉岡桂子撮影

山口県下関港と結ぶ白いフェリーが停泊している。20世紀初めから戦前にかけては両港を結ぶ関釜連絡船が往来していた。日本にとっては、単なる旅客船というよりも東京や大阪から下関までの列車と接続し、朝鮮半島を経て中国から欧州を目指すルートの一部だった。朝鮮半島の鉄道は、日本の狭軌(1067ミリ)より広い国際標準軌(1435ミリ)が採用されていた。

その狙いの是非は脇に置くとし、韓国の鉄道は生まれた時から国際性を帯びていた。だが、朝鮮戦争後は国際鉄路の運行も「分断」状態にある。韓国にとって、鉄道は今もさまざまな矛盾をはらむ存在だ。

だからこそ、政治性を帯びる。昨年4月の南北首脳会談で、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長は韓国の鉄道を高く評価し、「(文氏が訪朝すれば)われわれの交通に不備があり、不便をおかけするのでは」と持ち上げた。韓国の文大統領は18年6月のモスクワ訪問で「シベリア横断鉄道が、私が育った朝鮮半島の南端、釜山まで向かうことを期待する」と下院での演説で語った。

釜山駅構内で駅弁の代わりに、韓国語でオムクと呼ばれるさつま揚げを買う。1953年創業とある。3年間続いた朝鮮戦争が終わった年である。

1番ホームにおりると、青、赤、白のラインのムグンファ号が入ってきた。高速鉄道は選ばず、在来線に乗ってみることにした。17800ウォン(約1800円)。大田駅まで約3時間。もう一人の「テツ」が待っている。

釜山から大田まで在来線を乗ったムグンファ号。韓国の国花ムクゲを意味する=2019年1月19日、釜山駅、吉岡桂子撮影

釜山からソウルへ 「ひかり」が走った鉄路で 韓国編(中)に続く