時刻表にない駅「中国原子城」まで、観光列車に乗って出かけた。
「原子城」とは「核の町」を意味する中国語である。ほんとうの地名は、西海鎮と言う。青海省海北チベット族自治州の高原にある。中国が1950年代から原爆と水爆をひそかに研究、開発し、製造した「国営221工場」の跡地に、90年代半ばにつくられた。人口1万数千人の小さな町だ。海抜3000メートルを超える高原にあり、9月には雪がちらつく。中国最大の塩水湖、青海湖にも近い。
かつては軍事機密基地として完全に封鎖され、地図にも記されていなかった。
1964年10月16日、日本が東京五輪にわいていた秋のこと。中国は新疆ウイグル自治区で核実験に成功する。その爆弾が、この工場で造られた。ソ連との関係も悪化し、国際的に孤立していた中国が存在感を示す狙いもあった。毛沢東の指揮のもと、「自力更生」をうたって開発は進められた。国連に加盟していたのは台湾(中華民国)。中華人民共和国ではなかった。米国や日本と国交もない時代だった。
核開発そのものだけでなく、少数民族が多く暮らす地域で集中的に開発したことや、環境汚染や健康被害の問題などにかかわる情報開示についても、国際的には批判が根強い。いっぽうで、中国政府は「原子城」を国家の偉業をたたえる「愛国主義教育基地」「紅色旅行基地」と位置づけ、観光客の誘致に力を入れている。歴史の陰をたどる「ダークツーリズム」ではない。あくまでも「町おこし」をかねた「国威発揚」の旅である。
その「原子城」と省都西寧とを結ぶ観光列車が今夏、初めて運行された。7~8月だけ一日1往復する。約120キロを約1時間半で結ぶ。便名はY981とY982。駅に問い合わせると、外国人も乗車できる。中国の鉄道の切符は近年、外国人でも中国の旅行サイトなどを通じてネットで予約できるようになった。だが、今回は何度検索しても駅名が出てこない。深圳駅や南京駅など別の都市を訪ねたおりに窓口で買うことも試みたが、「中国原子城という駅なんてないよ」。駅員は、この臨時列車そのものの存在を知らなかった。中国は広い。他の地域の臨時列車まで気にしていないのだろう。
上海へでかけた8月の週末、時間ができたので思い切って西寧へ飛び、窓口に並んでみることにした。切符が売り切れていたら、夏休みでもあり、青海湖を見物して帰ろう。留学生や特派員として中国で8年暮らしたが、青海省は訪ねたことがなかった。
上海・虹橋空港から2時間半。西寧に着いた。市内へ向かうバスの窓からいきなり、習近平国家主席の顔が描かれた看板が見えた。続いて「民族団結」のスローガンが幾度も目に飛び込む。チベット族、モンゴル族、回族など少数民族が多い地域だからだ。
西寧駅は、まるで空港のように巨大だった。チベット・ラサに通じる直通列車「青蔵鉄道」の起点でもある。ざわめく切符売り場に並ぶこと1時間。割り込んでくる人もいる。いらついて「並びなさいよ」と怒鳴っている女性もいる。気持ちは分かる。しかし、あせっても仕方ない。スマホで予約サイトをいじっているうち、駅名を「中国原子城」ではなく、ひとつ手前の駅「海晏」と入れれば、Y981とY982もネットを通じて買えることに気づいた。まずはスマホで予約、支払いを済ませ、パスポートを見せて、窓口で無事、受け取った。
8.5元。135円ぐらいである。座席は指定。安い。
さあ、出発だ。「原子城」へ向かうY981は午前7時に発車する。午前6時にホテルを出るとまだ薄暗い。西寧と北京の経度は15度も違う。札幌と那覇ほどに差がある。夜が明け始めた6時半すぎ、改札が始まった。ホームには6両編成の「緑皮車」が待っていた。緑に黄色の横線が入った車両で、在来線でよくみかける。駅員さんは「中国を代表する伝統的な車両です」と誇らしげに説明してくれた。
牽引する車両は「和諧号」。胡錦濤前政権時代の政治スローガンだ。私の座席は2両目の12番。一等の軟座は設定されておらず、2等の硬座だった。駅の構内に入るとき、列車に乗るときにもパスポートチェックがあったのに、座席に着いてからも、乗務員がやってきた。「あなたが外国人ですか?」と聞く。「はい、日本人です」。パスポートを差し出しながら「降りなさい」と言われるのかな、と心配になった。「ご協力ありがとうございました」。丁寧な物腰で去っていった。
列車は、定刻にプォーンと出発。思ったほど乗客は多くない。100人いるかどうか。無理もない。自動車を走らせれば1時間半。主な観光地である青海湖へ行くならバスツアーもたくさんある。中国政府は「放射能は処理されており、問題ない」としているが、近寄りたくない人もいるに違いない。週末にわざわざ列車で「原子城」を目指すのは、私を含めて変わり者なのかもしれない。向かいの席は見つめ合ってささやくように語り合う若いカップル。女性の麦わら帽子にピンクのリボンがかわいい。後ろはお茶を飲みながらおしゃべりが途切れないおばちゃんたち。通路をはさんで隣は、母親と娘。高校生のようだ。車内でずっと「語文(国語にあたる)」の問題集に取り組んでいた。
5分もすればまぶしいほどの太陽が昇り、30分も走ると町は遠ざかった。車窓から見える風景は草原に変わっていく。40分が過ぎたあたりからトンネルがちになった。途中停車したのは切符に記されている「海晏」だけ。降り始めた雨が大粒に変わったころ、「中国原子城」に着いた。新しく作られた駅は、まるでプレハブのようだ。改札もない。ぞろぞろと他のお客について外に出た。半袖のシャツだけでは寒い。周りはみな、上着をはおっている。不安げなオーラを放つ外国人の私に、隣の席にいた母親が声をかけてくれた。「あなた、薄着すぎる。ここは海抜3000メートルを超えている。西寧より1000メートルほど高く、平均気温が7度ぐらい低い。気をつけて。傘はあるの」。親切な言葉に「傘はあります。タクシーはすぐにつかまりますか」ときいてみた。すると、単身赴任している夫が駅まで自家用車で迎えにきているから、中心部まで送ってくれるという。ありがたい。
大学への進学を目指す娘が中学校に入るタイミングで、母娘はレベルの高い学校がある西寧へ引っ越したそうだ。父は公務員、母は教師だった。娘は高校3年生。文系。いつもは週末になると父が西寧にやってくる。今回は学校も夏休みに入り、列車で父親を訪ねたそうだ。白いワーゲンの車中で、そんな話をするうち、市街地へ入った。毛沢東の像がそびえ立っている。「最前線に立って、毛主席を守ろう」。赤い字で書かれた毛時代のスローガンも多い。国策で生まれた町を物語る。習近平政権のスローガン「中国の夢」をふくめ、いろんな看板が「蔵文」と呼ばれるチベット語と漢字の両方で書かれていた。
父親は車から降りて、雨のなか走ってタクシーを呼び止めてくれている。「この車は室内がくさい」「これは汚い」「運転手が普通語(中国の共通語)をしゃべれない」とダメ出しが続く。母親も「日本人の女性だし、清潔なのじゃなきゃだめよ」と念を押している。貴重な家族だんらんの週末を、私のタクシー探しで時間をつぶしている。車の中に恐縮して座っていた。そのうち、香港人や米国人の客をのせた経験があるタクシーを探しあてた。運転手はチベット族だ。「ここのものは口にあわないかもしれないから」。母親は別れ際、持っていたチーズケーキカステラまで持たせてくれた。
中国を旅していると、驚くほど親切な人に出会うことがある。だが「私が記者だとは知らないはずだが、外国人とは知っているので見張り番をつけたのかな」と邪推したり、逆に「名前をきいてお礼状を出したいけど、外国人の記者の私に親切にしたことが万が一迷惑になっても困るな」と心配したり。結局、名前を名乗らず、問わずに別れた。夏休みとはいえ、中国という場所、記者という職業の宿命だと思う。
いずれにせよ、高速鉄道よりも在来線の旅のほうが間違いなく、出会いはカラフルだ。ゆっくりと時間が流れている。
料金交渉は言い値で「一日400元(約6400円)」。地元の物価では安くないのだろうが、寒くて値切る気力がない。タクシーに乗り込むと、雨はしだいにあがってきた。帰りの列車まで7時間もある。ほっとしたらおなかがすいた。運転手に頼んで、牛肉麺を食べに行く。日本でも最近、はやっている牛肉麺の本場、蘭州は青海省の隣。西域が本場の食べ物だ。手打ちの風景がガラス越しに見える。大好きな香菜はのせほうだい。9元(約140円)。麺は細めだ。運転手のまねをして黒酢をかけて食べたらとてもおいしかった。
まず「原子城記念館」へ行った。「外国人は入れてくれないよ」。親切な家族にも運転手にも言われていたが、念のため、入り口まで足を運んでみた。「申し訳ありませんが、外国人は入れません」。いくら「退役」し、開放したとはいえ、中国最初の核施設があった所だ。立ち入り禁止地域に足を踏み込んではたいへんなことになる。外国人も見学できる施設を電話で確認してもらった。郵便局のわきにある「221地下指揮センター」もだめだという。
「爆発試験場は入れるよ」
そこで、草原にある試験場へ向かった。入場料は50元(約800円)。「国家の誇り」。開発に尽力した10人の科学者をたたえる大きな碑がある。赤い五星紅旗が雨上がりの青い空にはためく。きのこ雲の絵も彫られている。手前の石碑には「無私奉公、団結して開発に成功した」と自賛し、「世界平和へ重大な貢献した」と核保有国の理屈が書いてある。赤い文字で「毛主席万歳」「万難を排して勝利を勝ちとろう」などと書かれた建物には、研究に取り組む様子を人形で展示してあった。実験成功のきのこ雲を映すビデオは、飛び上がって喜ぶ関係者の姿を繰り返し流している。中華人民共和国を1949年に建国して、わずか15年の偉業として、人民日報は「喜報」という号外を配ったそうだ。
屋内にも、青黒いきのこ雲の像が置いてあった。1メートルはゆうに越える高さだ。誇らしげに取り上げられるきのこ雲に、非常に強い違和感を覚えた。私をふくむ日本人の脳裏に刻まれたきのこ雲と、国際社会での地位を高めた象徴として中国が描くきのこ雲。この溝は激しく深い。
改革開放政策を推進し、中国が世界第二の経済大国となる基礎を築いた鄧小平が放った言葉がある。「中国が原爆や水爆、人工衛星を持っていなければ、重要な影響力を持つ大国だといわれず、現在のような国際的地位もなかっただろう」。数年前に取材した中国科学院の研究者、何祚シウ(ホー・ツオシウ)さんも言っていた。
「中国がどうしても勝てないでいた日本が、米国が落とした原爆2つであっというまに降参した。あれを見て、中国は原爆の開発が絶対に必要だと考えた」。何さんは27年生まれ。清華大学時代の恩師は、核実験を成功に導いた立役者の一人である銭三強氏だった。「原子城」の試験場の碑にも横顔が彫られていた人物だ。米国による日本への原爆投下を、中国紙は「戦争技術の革命」(解放日報)と伝えたという。
50年代の朝鮮戦争では、米国が原爆で「中国を封鎖し、日本を核兵器の基地とした」(青海原子城記念館ホームページ)とも受け止めた。
「上星駅」の跡地も公開されていた。新疆ウイグル自治区の実験場まで、この駅を通って爆弾などを「夜間に秘密裏に運んだ」(青海原子城記念館ホームページ)。入場料は20元(約320円)。駅の残骸のそばに、ふるぼけた機関車が置いてあった。赤茶けたさびが浮かんでいる。ほかにも工場の跡地が、草原に点在していた。
空はくっきりと青いが、しだいに憂鬱な気分になってきた。
記念館を、なぜ外国人には見せないのだろう。「機密保持」という説明だ。しかし、中国人には一般公開している。どうしても守りたい機密なら、誰にも見せないはずだ。きのこ雲を見たとき、ふと浮かんだ。核兵器の絶賛、国威の発揚。展示の具体的な内容は見ていないので分からない。だが、試験場や記念館のホームページの記述から推測すると、愛国主義と核兵器の開発をストレートに結びつける表現をちりばめた展示を、外国人に見せたくないのではないか。国家は核を持ったとたん、核への立場は変わるものだ。自らの保有は核の独占を破る国際平和のためであり、他国の保有は平和を壊す行為となる。ほかの核保有国は、自らが核を手にした過去をどのように展示しているのだろうか。
もっとも、中国国内にも水面下にはさまざまな意見はある。50年代から80年代にかけて数万人の技術者や労働者、学生が厳しい気候の高地の草原に送られて、開発に携わった。封じ込められてはいるが、環境や健康被害について問題視する関係者も当然、いる。
「原子城」の旧跡をたどるうち、重い宿題を突きつけられたようで、言葉数が減っていった。運転手が「ここに来て青海湖に行かないのは、ありえないよ。料金は変わらないよ」と声をかけてくる。
たしかに、そうだ。湖へと車を走らせた。
マイカーで遊びに来ている人たちが大勢いた。近隣からだけではない。北京や広東省、上海、山東省など各地のナンバープレートが勢揃いしている。小さなテントをひらいて食事をわいわい食べたり、かっこいいウェアを身につけて本格的なスポーツ自転車で走ったり。思い思いに楽しんでいる。「原子城」より、はるかににぎわっている。湖畔には黄色い菜の花が植えられ、写真スポットになっていた。もっとも、湖に近づくには、どこも入場料が必要だったが……。青海省のひとりあたりGDP(国内総生産)は、上海の約3分の1。「核の町」の観光振興は、豊かな人から富を移す政策でもある。
夕方4時55分。「中国原子城」に別れを告げて、帰りの緑皮車に乗り込んだ。