「機密」の裏側 ハンガリーは「黒い羊」か
中国悲願の鉄道が中欧で本格的に動き出した。ハンガリーの首都ブダペストとセルビアの首都ベオグラードを結ぶ全長350キロの路線である。19世紀末から整備されてきた鉄路は傷みが激しい。それを中国の協力を得て改善する。中国製の最高時速200キロ規格の車両が投入され、かかる時間は現在の約8時間から3時間弱まで縮まる見通しだ。総事業費は日本円にして数千億円規模。関係3カ国で2014年に建設に合意し、セルビア側は約2年前に着工していた。だが、欧州連合(EU)に加盟するハンガリー側は公共事業の発注方法などをめぐってEU基準の透明性を求められることなどから、遅れていたのだ。
コロナ禍のさなかの4月。ハンガリー政府がついに動いた。契約の詳細は10年間にわたって機密扱いする条件で中国輸出入銀行からの融資を受け入れることを決めたのだ。国会では賛成133票、反対58票、棄権1票と割れた。返済には100年以上かかるとの見方も出ており、中国からの借金漬けとなる「債務の罠」を心配する声もあった。それでも決断したハンガリー政府は「中国政府の見解も考慮し、ハンガリーの対外政策の利益を損なわないように10年間の機密保持を決めた」(シーヤールトー外相)と説明する。事業を受注しているのは、オルバン首相に近いとされるメーサーロシュ氏が支配する企業グループだ。
ブダペストで長く暮らし、ハンガリー情勢に詳しい経済学者、盛田常夫氏は指摘する。「ガス配管工からハンガリー最大の億万長者になったメーサーロシュ氏はオルバン首相に近いというより、一心同体です。オルバン政権が公金で育てた企業グループといえる。投資費用の回収が見込めない事業の全容を明らかにしたくないのでしょう。両国間を往来する乗客が少ないのに、ハンガリー政府が巨額の資金を投入するのは、中国政府との関係維持とあわせて、首相に近い企業に受注させ、利益を落とす狙いもあります」
中国はコロナ外交も熱心だ。マスクや防護服などを空路や鉄路で中国から運び込んだ。3~6月はほぼ毎日、貨物機が飛来した。物資の到着時にオルバン大統領が出迎えたこともあった。ゾルタン・コバチ・ハンガリー首相府報道官は4月、英BBCの取材に対して「中国以外に誰が我々に防疫物資を提供したのだ。英、EU、西欧は奪い合ってばかりだ」と言い切った。ゾルタン氏は私の鉄道にかかわる取材にこう話したこともある。「EUは鉄道支援に冷たい。この路線は整備を後回しにされてきた。中国以外に誰が資金を貸してくれますか」
もっとも、ブダペスト・コルビヌス大学のタマシュ・マツラ准教授は指摘する。「中国から送られたマスクなどの医療物資のほとんどは贈りものではない。ハンガリーが購入したものだ。政府がことさら感謝を示すことには違和感がある。EUの一員として、EUがコロナ復興のために設けた基金にこそ、より注目すべきだと思う」
中国は欧州債務危機をきっかけに、経済が弱り加盟国の団結にも亀裂が入ったEUへ攻勢をかけてきた。中国と中東欧諸国協力(16+1、その後ギリシャも加わり17+1)の枠組みを2012年から作り、チャイナマネーを投下した。この事業は、その目玉でもある。中国国有企業が買収したギリシャのピレウス港から欧州へと中国製品を輸送する役割を担う。
中国はEUに加盟するハンガリーとの関係を重視している。人権や南シナ海をめぐる問題にかかわる対中批判などの決定で、すべてのEU加盟国の一致が必要になる場合、ハンガリーの反対票で退けられるからだ。いっぽう、言論や人権問題に権威主義的な傾向をもつオルバン氏にとっては、独裁体制の中国が内政に「法の支配」などの条件をつけずに落とすカネは好都合である。こうして権力者どうしの関係が築かれていく。
まるで東南アジア諸国連合(ASEAN)におけるカンボジアのようだ。中国は自らに都合の悪い決定を、親中を隠さないカンボジアを通じて封じ込めている。私は元ハンガリーの外相で歴史家のジェスゼンスキー・ゲザ氏にそう、直言したことがある。一瞬きょとんとした表情をした彼は、こう言った。「われわれは(EUの群れから浮いた)黒い羊になってはならない。ハンガリーは欧州なのです」
ハンガリーで鉄道が初めて開業したのは1846年のこと。欧州の名門貴族ハプスブル家が支配していた時代だ。1930年代には旅客列車の半分以上がディーゼル車となり、電化も始まった。7カ国と隣接し、今も欧州大陸をつなぐ国際列車が行き交う。19世紀にブダベストで開業した地下鉄は、ロンドン、イスタンブールに次ぐ歴史を持ち、世界遺産にもなっている。路面電車も市民の足として約150年の歴史を持つ。旧ソ連で少年少女が共産主義を学ぶピオネール活動に由来する「子供鉄道」も健在だ。そんな豊かな鉄道文化をもつハンガリーに中国が乗り込んで造る鉄道は、単なる輸送を越えて21世紀の国際政治に波紋を広げている。
昔より遅い 痛んだ鉄路古い列車
私は2018年12月、この区間の在来線に乗った。どんよりと冷たい日だった。
国際列車が多く発着するブダペスト東駅。1880年代に建てられた駅舎は当時のさまざまな建築様式を取り入れて設計された。ステンドグラスも美しい。
セルビア行きの列車は端っこのホームで待っていた。3両編成の落書き列車だ。イボ・アンドリッチ号。旧ユーゴスラビアのノーベル文学賞受賞作家の名前を冠している。350キロを約8時間かけて走る。一等車の運賃は片道28ユーロ(約3500円)。長距離バスと値段は変わらないが、2時間以上長くかかる。線路や通信施設が古いので速度を上げられないからだという。
定刻より5分遅れて午前8時2分に出発。車内は少ししっけたにおいがする。電源はない。同じ車両に乗客は13人だけ。がらがらだ。車窓から見えるのは、葉を落とした樹、クリーム色の低い四角い建物。窓が割れたまま放置された朽ちた工場をわきを通り過ぎていく。中国やデンマークの輸送会社のコンテナを積んだ貨物列車とすれ違う。30分近く走ると単線になった。ちょっとくたびれた濃紺の制服を着た車掌が検札に着た。
収穫を終えた麦畑、灰色の空、くすんだアズキ色の屋根、枝だけになったブドウの木。小さな駅に着くたびに、10数人が降りる。ホームをイヌが走る。ほとんど誰も乗ってこない。
3時間半ほど走って、ハンガリー側の国境の駅ケレビアに着く。青い制服の警察官4人が乗り込み、パスポートをチェック。その場で蒸気機関車のマークの出国スタンプを押してくれた。30分ほど停車して走り始めると、すぐにセルビア側の駅スボティツァだ。今度はセルビアの警官2人が乗ってきた。鼻にはピアス。「どこに行くの?」「終点のベオグラードセンター駅です」「ふうん」。パスポートを取り上げ、どこかでチェックし、30分後に戻ってきた。
セルビアに入ったころには、私が乗った1号車は誰もいなくなっていた。貸し切り列車が、ゆっくりと走り出す。雪が残る。さびた信号機が見える。鉄路の古さからか徐行する区間もあった。ノビサド駅に着いた。1990年代末のコソボ紛争中には、この町にかかる、ドナウ川を結ぶ3つの橋がすべて北大西洋条約機構(NATO)による空爆で壊されたという。
列車はEUの支援で建設された新しい白い鉄橋を渡っていく。2018年3月に完成したばかりだという。セルビアのあるベテランジャーナリストが言っていた。「セルビアにとってEUは大事な支援者だが、合意形成が複雑で人権や民主についても意見を言われる。なかなか決まらない。彼らは中国の影響力は問題だとも言うが、だからといって行動には移さない」。中国の李克強首相はセルビア訪問時、橋などインフラ建設の支援を約束していた。そういえば、セルビアのブチッチ大統領は李首相に対して感謝の気持ちを伝えるのに、この古びた列車の名前にも使われているイボ・アンドリッチ氏の言葉を引用したことがある。「人間がつくる建造物の中で、橋ほど重要なものはない」と。
終点のベオグラードセンター駅に着くと、夕方5時近い。やはり一等車は私だけ。「昔の方が速く走っていた」と乗客が教えてくれた。それほど古い鉄路だった。
乗ってみて実感した。ブダペストが180万人、ベオグラードが160万人。沿線人口を考えても旅客輸送では収益が上がらない。照準は貨物だ。中国政府は「中欧班列」と呼ばれる中国と欧州を結ぶ貨物輸送に力を入れている。ハンガリー―セルビア間で在来線の改良計画が持ち上がった当初、時速300キロの高速車両の投入もうわさされた。だが、貨客両用に落ち着き、最高時速は160キロ程度にとどまるとみられている。採算を考えれば当然のことだろう。
「習兄さん」がゆさぶる欧州
「ありがとう習兄さん」。セルビアの首都ベオグラードで2020年春、中国の国家主席習近平氏が描かれた大きな看板が登場した。現地語と中国語で感謝の言葉が添えられている。「コロナ外交」を展開する中国はセルビアに対しても、医療チーム、マスク、防護服などを届けた。中国企業の寄付のかっこうをとって、簡単に組み立てられて新型コロナの検査などに使えるラボ「火眼」も欧州の国としては初めて送った。遺伝子解析で有数の中国企業が生産しているものだ。米国など先進国の一部からは、中国は「火眼」の普及を通じて世界中から遺伝子など個人情報を集めようとしているのではないか、と警戒する見方も出ている、いわくつきの施設である。
だが、セルビアのブチッチ大統領は意に介さなかった。中国から運ばれたコロナ対策の医療物資を届けた特別機を空港に出迎え、中国の国旗にキスした。コロナ禍のなかでもハンガリーで先行して進む鉄道の工事現場にも足を運び、中国の協力をたたえた。
セルビアと中国の関係は歴史的にも良好だ。セルビアもかつて加盟していた連邦国家旧ユーゴスラビアは、チトー氏のもと、東西冷戦下で米ソともに距離を置く非同盟的な立場だった。1949年に建国された中華人民共和国に対しては、旧ソ連や東欧の国々とともに早々に承認した。コソボ紛争中の99年、現地の中国大使館が米軍による空爆で破壊された事件も、両国をより近づけたとされる。その後独立したセルビアも、中国と友好関係を維持してきた。他方、米国との軍事同盟を求めて北大西洋条約機構(NATO)に加盟している他の中東欧の国と異なり、90年代に激しい空爆を受けたセルビアにとって米国は長く憎い相手だった
近年のセルビアは対外政策で優先順位が高いEU加盟が思うようには進まないなか、中国との距離を縮めてきた。習氏は2016年、中国の国家元首として初めてセルビアを訪問し、空爆された旧中国大使館跡も訪れ、献花した。鉱山や製鉄所、インフラなど数々の投資を決めている。セルビアはEUや米国を刺激することを承知で、中国の軍用ドローンを購入したり華為技術を重用したりしてきた。
ハンガリーもセルビアも実際のところ、主な貿易相手はドイツを始めとするEUで、半分以上を占めている。当然のことながら地理的にも歴史的にも欧州各国やロシアとの関係が深い。中国との接近は、チャイナマネーという経済的なメリットを得るともに、EUに対して発言権を確保するための交渉の道具でもあるのだ。
ブダペスト・コルビヌス大学のタマシュ・マツラ准教授は懸念する。中国の膨張主義や人権問題、さらにコロナもあって欧州主要国が中国への警戒を強めるなか、オルバン政権の中国傾斜を「危ういゲームだ」と。
米中対立が深まるなか、米国が「ゲーム」の表舞台に姿をみせた。今年9月、トランプ政権がセルビアとコソボの経済関係の正常化の仲介に動いた。セルビアにとって08年のコソボ独立以降に悪化していた関係の修復は、EU加盟の条件にもなっている。
欧州国際政治が専門で中東欧にも詳しい東野篤子・筑波大学准教授が、こう分析してくれた。「NATOによる空爆から20年がたち、セルビアの対米感情も少しずつ軟化してきた。その素地のもと、トランプ政権が動いた。大統領選挙を控えていた時期で外交実績作りの色彩が濃かったが、バルカンの主要国ながら親中に傾斜するセルビアにくさびを打ち込みたい狙いもあったはずだ。セルビアからすれば、トランプ政権からの急接近は青天の霹靂。戸惑いながらも歓迎したが、同時に他の中・東欧諸国のように米中対立の中で板挟みになる恐れも感じているだろう」
「一帯一路」戦略にからんで中東欧でも数々の投資を約束した中国だが、期待されたほどには実現していない。進行中の事業も現地の雇用を十分に生み出していないとの不満もある。ポーランドなどを筆頭に膨らんだ期待がしぼみつつある。こうした背景からポーランド、チェコ、ラトビア、ブルガリア、エストニア、ルーマニアなど米国の圧力をうけて華為技術の5Gを採用しない中東欧の国は多いという。米中対立のもとで中東欧と中国の関係はどうなるのか。東野氏は「中国の戦狼外交の影響もあって、対中警戒を深めている米国やEUは以前より中東欧への関与を強めていくだろう。中東欧も国によって差はあるが、中国との関係を維持しながらも、究極的には『欧米の一員』としての立場を優先せざるを得なくなるのではないか」とみている。
コロナ禍のなかでも中国の支援を得て建設が進むセルビア側では今秋、首都ベオグラードの一部区間で運行が始まった。両国の関係者がホームに集まり、祝った。
長い歴史を生き抜く中東欧の国々は、大国を操るゲームの主か。板挟みか。
輸送にとどまらない意味を持つ鉄路を、欧州、米国、中国のパワーに揺さぶられながら列車は走る。全線の開業が予定される2025年には、バランスはどちらに傾いているだろうか。