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釜山からソウルへ 「ひかり」が走った鉄路で 韓国編(中)

鉄輪で行く中国・アジア
ソウル駅旧駅舎。日本統治時代の1925年、東京駅を設計した辰野金吾氏に師事した塚本靖氏がてがけた。ガラス張りの駅舎が隣りに新設され、2003年から駅舎の機能は移された=2019年1月22日、ソウル市、吉岡桂子撮影
ソウル駅旧駅舎。日本統治時代の1925年、東京駅を設計した辰野金吾氏に師事した塚本靖氏がてがけた。ガラス張りの駅舎が隣りに新設され、2003年から駅舎の機能は移された=2019年1月22日、ソウル市、吉岡桂子撮影

釜山で鉄道を語ってみた 「駅テツ」との出会い 韓国編(上)はこちら

釜山駅を定刻に発車したソウル行きムグンファ号は、住宅街の防音壁の間を走っていく。一棟ごとに番号をふった砂色の高層アパートが、通り過ぎる。

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釜山から大田まで在来線を乗ったムグンファ号。韓国の国花ムクゲを意味する=2019年1月19日、釜山駅、吉岡桂子撮影

「洛東江(ナクトンガン)ですよ」。15分ほど過ぎたころだろうか。隣に座る通訳の金載協(キム・ジェヒョブ)さんが教えてくれた。朝鮮戦争期に北朝鮮軍が達した最南端とされる。韓国は、この川を「最終防衛線」としたという。釜山に臨時首都が置かれたこともある。

列車はずんずん北上する。窓の外には、稲刈りを終えた田んぼが広がる。ぐるんと巻かれたワラや葉をすっかり落としたカキの木、低い丘のような山……。ふるさと岡山の農村とそっくりだ。そのうち、朴槿恵(パククネ)前大統領の父親である故・朴正熙(パクチョンヒ)大統領ゆかりの駅を通り過ぎた。新巨(シンゴ)駅だ。

69年に水害視察で地域を訪れた朴正熙氏が、復旧に自発的に汗を流す住民の姿を目にとめて、立ち寄ったとされる。軍事クーデターで権力の座につき、60年代から70年代にかけて大統領を務めた人物である。経済優先の開発独裁体制のもと、韓国は「漢江の奇跡」とも呼ばれた高い成長をとげる。新巨駅周辺は、その彼が提唱した生活環境の改善や意識改革を進めたセマウル(新しい村)運動のきっかけになった地域と伝えられる。駅前広場に大統領像や当時の大統領専用列車の模型があるそうだ。

韓国を走る列車の名前はかつて、まさに特急セマウル、急行ムグンファ(韓国の国花、ムクゲ)、準急トンイル(統一)、普通ビドゥルギ(ハト)という「序列」だった。

「トンイル」は、2004年の最高時速300キロの高速鉄道KTXの開通にあわせて姿を消した。朝鮮戦争以来の分断国家にとって「統一」という目標を掲げる名前を失うことに政治的、社会的な抵抗はなかったのだろうか。

中国では高速鉄道に、胡錦濤(フー・チンタオ)政権時代は和諧号、習近平(シー・チンピン)現政権は復興号と名付けている。いずれも政権のスローガンである。そんな取材をしてきた身には、韓国の列車が「統一」を捨ててしまっていたことに驚いた。いろんな人に質問してみると、大きく分けて答えは二通り。一つは「「統一」という名称はありふれている。寂しいという声はあったが、そもそも列車名に特別な思い入れはない人も多い」。もう一つは「統一は、列車の名前から消えたぐらいで、消えるような目標ではない」。

車内は静かだ。つらつらと考えているうちに、居眠りしてしまった。15時5分。3時間ほどで、大田(テジョン)駅に着いた。

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韓国中部の大田(テジョン)駅前に設置された3人の鉄道員をたたえる銅像。朝鮮戦争時、銃弾がとびかうなか、米軍捕虜救出作戦を遂行する機関車を運転したという。後ろには韓国鉄道公社の本社ビルがある=2019年1月19日、大田市、吉岡桂子撮影

ここで会う「テツ」は、尹熙一(ユン・ヒイル)さん。京郷新聞東京支局長を17年春までの3年あまり務めた「日本通」だ。韓国に詳しい先輩から「鉄道好き」と紹介してもらい、初めてお会いする。

尹さんは、鳥取県八頭町にある「隼(ハヤブサ)駅」の名誉駅長を務める。第三セクター若桜鉄道の無人駅で、同じ名前のスズキの大型バイク「ハヤブサ」の愛好家たちが「聖地」として慕う駅だ。ローカル線の取材で訪ねたのが、きっかけで縁ができた。

尹さんのご自宅で、妻の朴賢美(パク・ヒョンミ)さん手作りの家庭料理をいただきながら、話をきいた。豆腐チゲやチヂミ、キムチ、茶わん蒸しと、私の大好物が並ぶ。

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元京郷新聞東京支局長の尹熙一さん(中)と妻の朴賢美さん(右)。左は筆者=2019年1月19日、韓国大田市、金載協氏撮影

なぜ、名誉駅長に?

ライダーたちや地元住民がつくる「隼駅を守る会」が一体となって地域を盛り上げるようすに、「引き込まれた」と言う。守る会の人たちとお酒を酌み交わし、交流を深めた。「そこに住んでいないライダーたちにとっても、駅がみんなの気持ちのまんなかにあるかんじ」。尹さんのテツは「出会いテツ」。鉄道が取りもつ出会いを楽しんでいる。

韓国では、鉄道取材を担当していた経験もあって、京釜線の池灘(チタン)駅の名誉駅長でもあった。

「ここも隼駅と同じく田んぼの中にある駅なんですよ」。尹さんのはからいで、ふたつの小さな駅は姉妹駅となった。「東京特派員のあいだ、鳥取の隼駅の名誉駅長という話をすると、日本の方々に親しみを持ってもらえた。駅のおかげです」。北海道から九州まで各地を鉄道で旅した。妻や二人の娘が一緒のときもあった。「日本のローカル線が大好き。東京からは見えない日本に触れられた気がします」。和歌山電鉄貴志駅のたま駅長を記事で取り上げたこともある。

尹さんが住む大田には、日本統治時代に鉄道職員の官舎があった通りが残っていた。瓦ぶきの平屋建て。再開発が間近に迫っているそうだが、昭和の記憶がよみがえるような風景だ。

寒村だった大田は、鉄道で一変した。ソウルと釜山を結ぶ京釜線が走り、南西部の光州方面へ走る湖南線の分岐駅だった時期も長い。交通の要衝として、韓国鉄道公社(KORAIL)の本社もここにある。

湖南線の分岐駅時代は、列車が方向を変えるあいだに、降りて、かけうどんを駅で食べて、急いで再び乗るのが乗客の楽しみだったそうだ。ふるさとの宇高連絡船のデッキで食べたうどんを思い出す。

駅のうどんも特別な味がしただろうな。いまは、韓国でも食堂車や車内販売も姿を消し、多くは自動販売機になっている。「味気ないけど、時代の流れですね」と尹さん。

吉岡桂子_大田駅の立ち食いうどん
韓国中国の大田(テジョン)駅は、ソウル―釜山を結ぶ京釜線、光州方面と結ぶ湖南線の分岐点だった。湖南線は大田で方向を変えるため機関車をつけかえ、その待ち時間にホームで食べるうどんが名物だったそうだ。韓国鉄道公社の本社も大田駅前にある=2019年1月19日、大田市、吉岡桂子撮影

日本統治時代に建てられた旧忠清南道道庁庁舎で開かれている「旧大田駅の歴史と意義」展に誘ってくれた。旧庁舎は黄色いタイル張りのつくりで、日本のどこかの県庁のような建物だ。尹さんは「昔に造られた下部は今でもしっかりしているのに、後から付け足した上部だけ古びているでしょう」と指摘する。

吉岡桂子_大田忠清南道庁旧本館
日本統治時代の1932年に建てられた大田(テジョン)忠清南道庁旧本館。京郷新聞・元東京支局長の尹さん(右)と筆者。尹さんは東京駐在時代、鳥取県八頭町・隼駅の名誉駅長になった=2019年1月19日、韓国中部・大田市、金載協氏撮影

駅は、通りの先、庁舎と向かい合うような位置にある。展示資料によれば、かつての駅舎は「日本の木造建築と西洋の古典様式を結合させた」ようだったが、朝鮮戦争で、駅周辺を拠点とした北朝鮮軍を米軍中心の国連軍が爆撃する過程で「焼けてしまったとみられる」と記されている。

1904年の鉄道の開業で、大田は「鉄道の分岐点として近代新興都市へと変化し始めた」。いっぽうで、「鉄道は日本帝国主義のための徴兵、徴用、供出など収奪の道具だった」。そして、日本による統治と朝鮮戦争を経て「大田駅は市民の哀歓が込められた空間となり、なくてはならない重要な暮らしの一部となった」と締めくくられていた。

韓国の鉄道には、ひとびとの哀しみとよろこびが凝縮されている。

そろそろソウルへ向かう時間だ。大田駅には地元の名物パン屋「聖心堂」が店を出している。ニラ玉パンとメロンパンにあんこを入れて揚げたそぼろパンで知られる。どちらも日本円で200円弱。いつも行列ができているそうだ。韓国三大パン屋の一つらしい。

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聖心堂の名物そぼろパン。メロンパンを揚げたようなパンにあんこが入っている=2019年1月19日、大田駅、吉岡桂子撮影

創業は1956年。朝鮮戦争で釜山まで逃れてきた家族が、列車が故障して大田で降りることになった。そのうち、パン屋を始めた。戦後3年の混乱期である。私と同い年、1964年生まれの尹さんは「学校でコメを弁当に入れるな、他の雑穀を食べろと言っていたなあ」とつぶやく。韓国の発展は映画を早送りして見るようだ。

併設のカフェは、駅の店らしく列車の座席を再利用している。壁には、荷物棚まである。「ソウルには、頼まれても支店を出さないんだよ」。地元の名物を紹介するとき、尹さんはちょっと得意げだ。

妻の朴さんが並んで買った名物パンを、別れ際に持たせてくれる。ホームまで見送りに来てくれた。

ありがとう。カムサハムニダ。

青と白の配色の列車がやってきた。高速鉄道KTXに初めて、乗る。運賃は23700ウォン(約2370円)。
韓国初の高速鉄道商戦で90年代、日欧が激しく火花を散らした。TGVを擁するフランスが勝った。韓国側は日本の技術移転の「消極性」を理由にあげるが、日本側は根深い歴史問題も響いたとみていた。

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韓国中部・大田(テジョン)駅からソウル駅まで乗った高速鉄道KTX。フランスの技術を取り入れて開発、2004年に開業した。最高時速は300キロ=2019年1月19日、大田駅、吉岡桂子撮影

韓国の現代史はどっしりと重い。同時に、尹さん夫妻の心遣いと揚げパンの温かさも、おなかのなかで混じっていく。

暗闇をびゅんびゅん走り、ソウル駅には約一時間で着いた。隣接する旧ソウル駅は、日本統治時代の1925年に京城駅として建てられた。KTXの開業とともに駅の役割を終え、今は文化イベントの会場として使われている。東京駅を設計した辰野金吾氏に師事した塚本靖氏がてがけた。赤れんが造りといい、どことなく面立ちが似ている。

釜山からソウルへ――。私がムグンファ号とKTXを乗り継いだ京釜線をかつて、不思議な顔立ちの列車が走っていた。「観光号」である。韓国鉄道公社(KORAIL)の資料から見つけた。その写真には小さく1969年と添えられている。

この顔、日本の初代新幹線0系にそっくりなのだ。東京五輪が開かれた1964年に東京―大阪を走り始めた、あの夢の超特急である。観光号の方が、ちょっとのっぺりとはしているが、団子鼻で白地に青のラインである。

吉岡桂子_ひかり号のまねっこ車両
韓国の観光号。1969年と記されている。日本で1964年に開業した新幹線の0系車両ひかり号にそっくり。ソウルと都羅山駅を結ぶDMZトレイン車内に歴代車両のひとつとして貼ってあった=2019年1月20日、DMZトレイン車内、吉岡桂子撮影

釜山で会った鉄道愛好家で歴史に詳しい「小井里駅副駅長」さんにきいてみた。「セマウル号の前身とされる高級列車でソウル―釜山間を走っていた。日本から全車両を購入したので、似ているデザインになった、と言われている。観光号が運行を始めた60年代後半は、人々の経済状況が高級列車に追いつかず、もっと手軽に乗れる3等列車を増やすべきだという批判を浴びた。脱線事故などもあって、70年代には名前もセマウル号に変わり、先頭車両も通常の機関車の形にかわったようです」。

記述が残る数少ない資料として、韓国で1969年に発行された雑誌『サンデーソウル』を紹介してくれた。その後、きいてみた知人の多くの「ネタ元」もやはり、同じ雑誌だった。誰でもアクセスできる限られた資料なのかもしれない。

日本が敗戦で去った1945年以来、24年ぶりの一等客車の復活として取り上げられている。ソウル―釜山(約420キロ)を約4時間45分で走る。写真でみるとディーゼルなのだが、意外と速い。新幹線を意識してか「夢の超特急」という記述もある。「サロンカー」、「ビジネスルーム」などを備えた豪華列車で「走る応接間」ともうたう。

特一等には、青いカーペットが敷かれ、冷暖房完備、自動で温度調節ができる。席ごとに案内員を呼び出せるベル、枕、ゴミ箱、簡易テーブルなどもある。ビジネスルームには、事務をこなせるデスクがあり、トイレは洋式。

一等は、特一等と比べてベル、ビジネスルーム、枕がなく、トイレは従来の方式。でも、これまでの列車より座席の間隔が広い。

そして、輸入元は日本とされる。「すべての客車、発電車は新しく日本から導入された。合計2億4386万ウォンにのぼる」

問題は運賃だった。ソウルから釜山までの料金は特1等席が4700ウォン、1等席が4200ウォン。現在の物価に換算すると、約30万ウォン~40万ウォンに相当するそうだ。「麦一俵の価格を超える」と指摘された。ソウルの公務員の月給が2万ウォンぐらいの時代に、4700ウォンはあまりに高すぎる、と。

鉄道庁は試乗会に国内外の貴賓、有名歌手やデザイナーを招待し、旅行用バッグ、記念メダル、ビール、トースト、コーヒー、キャラメル、タバコ、お菓子などの盛りだくさんのプレゼントを用意した。その費用だけで600万ウォンかかった。『サンデーソウル』はそう、書く。

新幹線ひかりが東京―大阪を、そのそっくりさんがソウル―釜山を駆ける数十年前。日本統治時代の朝鮮半島を元祖ひかりが走っていた。釜山からソウル、平壌を抜けて、中国へと向かう。『新幹線の歴史』(佐藤信之著)によると、東京駅15時発の特急「富士」に乗ると、翌日の9時25分に下関到着。下関10時30分発の連絡線に乗り換え、釜山には18時に着く。釜山桟橋で19時発の「ひかり」に乗れば(旧満州の)新京(中国吉林省長春)に3日目の21時45分に着いたそうだ。ちなみに、このころ、日本は旧満州の奉天(中国瀋陽)に向けては、のぞみを走らせていた。いずれものちに、日本の新幹線の名前になる。

『帝国日本の植民地支配と韓国鉄道 1892~1945』の著者で、鉄道に詳しい歴史家、鄭在貞(チョン・ジェジョン)ソウル市立大学教授にきいてみた。51年生まれの鄭さんは観光号にも乗ったことがあるという。「ずいぶん広々としていた記憶がある。ディーゼルなのに速くて立派だなあと思った」
「韓国は当時、日本から技術や資金を投入して、追いつき追い越せの時代だった。社会全体としてはひかりと似ているかどうかは気にしていなかったんじゃないか」と話す。

鉄道ビジネスに詳しい日本の商社関係者が言う。「韓国はむしろ、ひかりにそっくりな顔を先進技術の象徴として受け止めていた可能性もある」。1965年の日韓国交正常化以降、日本からの「援助」で製鉄所、ダム、高速道路、地下鉄などインフラの建設がすすめられた時期である。

さて、観光号。あいまいな部分も多い。朝日新聞の過去記事を検索してみたが、「観光号」のキーワードでは記事は一本も見当たらなかった。海外鉄道技術協力協会(JARTS)に問い合わせた。客車は日立製作所や日本車両が製造し、旧国鉄も協力した。しかし、ひかりに似た先頭車両については両社によるものではなかった。「誰が造ったか不明」(同協会)。日本では韓国製との見方も根強い。

1969年時点で、ひとりあたりの国内総生産(GDP)で言えば、韓国は日本の2割以下。経済力の差は大きかった。

その後、1970年代には日本の援助でソウルの地下鉄が開業したそうだ。

両国の社会はひかりそっくりさん列車が韓国を走る姿に、どう反応したのだろうか。当時の日韓関係を鉄道を通して感じとる、一つの材料にもなりそうだ。取材を深めたい。お乗りになったことのある方、ぜひ感想をきかせてください!

私にとって初めてづくしの韓国の列車旅。明日は韓国と北朝鮮を隔てるDMZ(非武装地帯)への列車ツアーである。

安保を「観光」する列車 非武装地帯ツアー 韓国編(下)に続く