南寧を訪ねるのは初めてだ。9月半ばとはいえ、日差しが痛いほどまぶしい。街路樹の濃い緑は、東南アジアの国々のよう。
南寧には「南方の辺境地をあんじる」という意味がある。中国の王朝は古くから南方を治める拠点の一つとしてきた。中国共産党・政府も東南アジア諸国連合(ASEAN)との自由貿易協定(FTA)の基本合意を受けて2004年から、関係を強める狙いで大規模な貿易博覧会をここで開いてきた。
その取材で、バンコクから出張した帰り、中越を結ぶ唯一の国際旅客列車である夜行寝台に乗ってみることにした。南寧からハノイ郊外のザーラムまで396㌔。切符は国際列車のせいか、ネットでは注文できず、南寧駅へと足を運んだ。
南寧から広東省深圳や広州などに通じる高速鉄道の多くは、郊外に新しく造られた南寧東駅に乗り入れている。南寧駅には「高鉄」ではなく、「動車」と呼ばれる時速300㌔未満の高速列車や快速列車、寝台列車が数多く発着する。幸い、切符売り場はそれほど混んでいない。しかも「英語窓口」を見つけた。係員も客も英語を使っているようすはないが、数人しか並んでいない。すぐに順番がまわってきた。私も中国語で注文した。
「ハノイまでのT8701、明日の切符を一枚。硬臥(3段ベッド)の一番上をください」
一等寝台にあたる軟臥(2段ベッド、4人個室)は寝心地は良いが、どんな人が同室になるか分からない。一人旅なら、開放的な硬臥の方が気楽だ。しかも、安い。空間は狭くて不便なのに最上段が好きなのにも理由がある。下段の場合、上のお客二人が夜が更けてもソファがわりに使っておしゃべりし、なかなか横になれなかった経験が何度もあるからだ。
ただ、係員の返事は「この列車には軟臥しかありません」。
困った。そういえば、中国の列車の切符の購入は身分証を示す必要があり、実名を前提としている。ひょっとしたら飛行機のように端末で個人名を管理しているかもしれない。
「女性がいる部屋にしてください」。だめもとで粘ってみたが、「男性ばかりが怖いなら、乗ってから調整してあげるから心配しなくていいよ」。
中国では列車や飛行機で指定席にこだわらない人が多い。とりわけ列車はそうだ。中国で鉄道の旅を始めた留学生時代の20年前。私の席を占領している先客に抗議すると、「あっちのあいている席に座ればいいじゃないか」と怒られたこともしばしば。以来、私も適当に座るようになった。今回もなんとかなるだろう。
ハノイまで215元(約3440)円。表紙、料金の内訳、注意書きと4枚つづりの切符を手にして驚いた。中国語やベトナム語以外に、ロシア語やドイツ語が書いてある。さらに、瑞士法郎(スイスフラン)という文字がある。
調べてみると、東西冷戦時代の名残だった。「国際鉄路旅客連運」(中国鉄道出版社)によると、1950年代、ソ連を中心とする東独、ポーランド、中国、モンゴルなど当時の東側諸国で国際旅客列車の協力組織を結成した。切符には、列車が通る国の言語だけでなく、ロシア語、ドイツ語などの表記も加えるように規定された。切符の為替レートの換算はソ連の通貨ルーブルを基準とした。
スイスフランに変わったのは、ソ連が崩壊する直前の91年初め。経済も大混乱し、ルーブルは基準の役目を果たせなくなった。それにしても、英語や基軸通貨米ドルを避けた運用が、今なお続いているのは興味深い。その意味においても、共産党一党独裁を共有する「社会主義」国家どうし、中越は確かに「同志」の仲ではある。
ハノイへ向かうT8701は、夕方6時05分に南寧駅を発車する。到着は翌朝5時半。中国とベトナムは1時間の時差がある。中国時間でいえば、6時半である。4人用の個室寝台で、12時間半の旅をご一緒するのは、どんな人たちだろうか。
出発の30分ほど前に改札が始まった。
ホームには在来線でよく見かける緑に黄色いラインの「緑皮車」が待っていた。「南寧―河内(ハノイ)嘉林(ザーラム)」と両国の言葉で書かれたプレートの上に、天安門に5つの赤い星を配した徽章が貼られている。ベトナムではなく、中国が運行する車両である。
13両編成で、8両は中国内で切り離される。ハノイまで行く寝台は後尾の5両に限られる。どきどきしながら指定された1号車25番へ向かった。意に反して下のベッドだったが、部屋はとても清潔だ。白いレースのカーテンに、ぱりっとした枕カバーやシーツ。掛け布団も国内を走る寝台よりもふかふかしている。
ほかの3人はすでに部屋にいた。向かいに座っていたのは、定年後に仲良く旅するご夫婦。南寧の近くに住んでいる。40人ほどのツアーにまじって10日間、ベトナム、ミャンマー、ラオス、中国昆明を回る。費用は二人で6000元弱(約9万円)。年に数回、夫婦で国内外を旅するそうだ。閑散期を狙ったり早期予約を駆使したりして、割安なツアーを探す。「世界は市場経済だよ」と夫の栗さん(72)。かつては百貨店に勤めていた。短パン姿がハツラツとしている。
「年をとるとのんびりと動きたいから、今回は寝台もまじった旅行にした」と、妻の陸さん(64)。持っていたナツメをくださった。小児科医だったという。外国のものが口にあわないかもしれないと、食べ物をたくさん持ってきている。トランクがぷっくりとふくらんでいる。中国から年間延べ1億人以上が大陸外に出かける時代である。陸さんたちのような世代も少なくない。
私のベッドの上の女性は、スマホをいじっている。見知らぬどうし、個室はなおさら距離感が大事だ。しゃべりたくない時に話しかけられるのはうっとうしいだろう。あいさつは後にすることにした。
もらったナツメをほおばるうち、食堂車が気になってきた。昨夏、香港から上海まで乗った夜行寝台の中華料理はとてもおいしかった。夕食も朝食もすぐに満席になった。今回も楽しみにしていたのに、乗務員に聞くと、食堂車はなかった。数年前に廃止されていた。ビールを買おうと思っても売店もない。がっくりだ。「カップラーメンだけある。お湯を入れて20分で持ってこられる」。列車に乗る前に駅の食堂でぶた肉のせ麺(16元=約250円)で腹ごしらえをしたばかりだ。カップ麺は見送ることにした。中国でもコストを意識して、食堂車は減る傾向だ。寂しい。
列車は定刻に、ガタンっと音を立てて走り始めた。音楽など発車音はない。しばらくして、中国語のみで放送があった。途中で止まる駅や時間を紹介している。お客も多くは中国人のようだ。
乗務員が身分証のチェックにやってきた。駅の敷地に入るとき、構内に入るとき、改札、乗車、そして入室後。合計5回も調べる。私のパスポートには記者ビザがたくさん貼り付けられている。職業はすぐに分かる。念入りにノートに書き込んでいる。そして、切符を渡して、引き換え証を受け取る。これが終わったら、同室の3人は布団をかぶって寝始めた。まだ午後7時半すぎである。あまりに早い。枕元のライトをつけて本を読もうかと思ったが、壊れていてつかない。仕方ない。私も休むことにした。
ゴトンゴトン、ゴトンゴトン・・・。1435ミリの広い線路は安定感がある。大阪の経済部にいた90年代、東京へ寝台列車「銀河」で何度か出張したことを思い出した。日本の在来線の線路の幅は、ベトナムよりちょっと広いだけの1067ミリ。トンネルも多く、もっと揺れた。あの寝台はもうなくなってしまった。
レースのカーテンの隙間から星が見える。寝つけないでいるうち、中国からの出国手続きをする凭祥(ピン・シアン)駅に着いた。22時10分。定刻である。
食品を含むすべての荷物をまとめて降りるように指示がある。上のベッドの女性が慣れた様子で真っ先に部屋を出る。私も遅れないようについて行った。ベトナム人だった。地元の大学で中国語を学び、卒業後は中国人と結婚し、南寧でベトナム語を教えている。2歳になる子供を実家に預けているので時々、帰省している。ハノイのひとつ手前の駅のそばに実家がある。親もいよいよ南寧に移住することを決めたそうだ。喜んでいた。
ぞろぞろと暗やみを歩き、駅に入る。荷物を検査し、小さな窓口で出国のスタンプを押してもらう。売店も両替店もない。写真の撮影も禁じられた。70人ほどしか国境越えをする乗客はいない。あっさりと終わり、列車に戻った。
うとうとしかけたころ。2時間後に荷物をまとめて降りることになった。ベトナム側で入国の検査をするドンダン(同登)駅に着いたのだ。ここには小さな売店があった。両替をかねて、缶ビールを買った。ビア・ハノイである。
お札の顔も、毛沢東からホーチミンへと変わった。いずれも建国の英雄。このふたりを越える政治家は両国とも現れていないとみえて、人民元とドンとそれぞれすべての額面の顔を独占している。
ホームのあかりにぼんやりと照らされた線路は、レールが三本ある。メーターゲージと呼ばれるベトナムの1000ミリ幅のレールの外側に、もう一本レールを加えてある。中国と同じ幅にして、そのまま列車が乗り入れられるようにしているのだ。
中国鉄路南寧局のホームページなどによると、鉄道で中越をつなぐ構想は、50年代に毛沢東とホーチミンが合意して進められた。当初は、レールの幅が異なることもあって、国境の駅で貨物は積み替え、旅客も乗り換えていた。
ベトナム側のレールを3本にしたのは1972年。きっかけは、ベトナム戦争だ。中国は北ベトナムを支援していた。米国との戦いが続くなか、中国から列車を直接乗り入れて物資を運びこむことにした。3本のレールは、戦時の措置だったのだ。
中越の「蜜月」はつかの間だった。米国に勝利をおさめたベトナムと中国のあいだで、もめごとが頻発する。78年には国境を越える列車の運行はとりやめとなった。さらに、ベトナム軍がカンボジアに侵攻したことなどから、中国軍はベトナムへ侵攻し、中越戦争が勃発。その後、91年に外交関係を修復し、両国を結ぶ運行が96年に復活するまで20年近くの歳月を要した。中越の鉄路はまさに、戦争と切り離せない。
私が乗った南寧―ハノイの国際旅客列車の運行は2009年に始まった。中国とASEAN諸国、とりわけベトナムとの関係を深める象徴として、胡錦濤前政権が進めたプロジェクトである。
国境を越える寝台列車は、一番眠い時間帯に荷物をまとめて二回も降りなければならない。しかも、ベトナム側のドンダン駅には、2時間近くも停車していた。そのまま発車すると朝早く着きすぎるからだろうか。これでは、なかなかお客が増えない。高速道路が一部開通し、貨物のみならず旅客バスも頻繁に走る。安くて便利である。
このため、この路線は赤字が続き、値下げをしたり、ダイヤを調整したり対策を講じても、お客さんは伸び悩んでいる。広西チワン族自治区政府は17年までに「1.6億元(約26億円)」の補助金を突っ込んだ。「一帯一路」戦略を掲げる習近平政権のもとで、外国との連結をより重視するようになったため、なおさらひくにひけない。
中国は、ベトナム側の線路を中国と同じ規格にして新たに造る提案をしている。路線も、首都ハノイに乗り入れ、港湾都市ハイフォンまで通じる新線を整備することを働きかけている。資金負担にも応じる姿勢だ。そうすれば貨物列車を含めてスピードアップが可能になる。海へ通じる鉄路を戦略的に築こうとする中国の姿勢を映している。
だが、ベトナムとは温度差がある。ハイフォンは漢字で「海防」。ベトナムにとって北部の海の要衝となる港だ。軍港でもある。中国紙によれば、ベトナム政府との間で何度も基本的に合意している。
ベトナムも調査を進めているとは言うものの、工事が始まる気配はない。中国の侵攻を受けて戦火をまじえた歴史は、わずか40年前のこと。なにより、隣国どうし2000年以上にわたる愛憎の歴史が累積している。現在も、南シナ海の領海をめぐる紛争に代表されるように、安全保障的には利害は一致しない。経済的には結びつきを強めても、ベトナムの中国に対する警戒は解けない。ベトナムが戦略的に建設をじらしているとみるのが適当だろう。
英仏やベルギーをつなぐユーロスターの場合、乗車駅で出入国とも検査できる。双方の信頼関係があってこそできることだ。とてもじゃないが、現在の中越関係のもとでは考えにくい。
それでも、不便さを抱えながら国境を越えて日々往来する列車は、平和の象徴と言えるのかもしれない。とりわけ、戦場となってきた地域にとっては。
中国とベトナムをつなぐ鉄路は実は、もう一本ある。フランスがインドシナ半島を支配していた1910年、ベトナムのハイフォン―ハノイ―ラオカイ―雲南省河口―同昆明へとつなぐ路線(854キロ)を開業させた。1000ミリの線路だ。第二次世界大戦後、58年に復活したが、こちらも中越関係が悪化した78年に停止。関係修復後の96年から、再び国際列車を走らせた。
ただ、中国は経済の発展とともに、雲南省と中国のほかの地域とつなぐほうがより重要になった。省都昆明からベトナム国境の町、河口までの区間も老朽化した1000ミリの線路を運休、いや事実上の廃線とし、1435ミリの線路を建設した。
こちらについても中国はベトナムに対して同じ幅の線路でつなげようともちかけてはいるが、実現していない。
私はこの区間も、列車で旅したことがある。昨年6月のことだ。北京から2700キロ。世界最長をうたう高速鉄道でまず、昆明へ。和諧号で約11時間で着いた。そして、在来線に乗り換えて国境の町、河口北駅へ向かった。400㌔を6時間弱で走った。この区間には、中越の国境を越える旅客列車はない。橋を歩いて渡った。ベトナム側のラオカイの駅には、古びた中国製の列車が停まっていた。ハノイまでの約300キロを、9時間あまりかけてとことこ走る。
スピードアップと便利さを優先して、ベトナムが中国と同じ幅の線路を受け入れる日は来るのだろうか。
まだ太陽が昇りきらない朝5時半。私が乗った「T8701」はハノイ郊外のザーラム駅についた。外に出ると中国人観光客めあての売店に漢字があふれていた。列車はベトナム国鉄の列車番号「MR1」として、同じ日の夜、南寧へと折り返す。