乗り鉄、撮り鉄、音鉄、収集鉄に模型鉄、廃止になる列車を見に行く葬式鉄―。19世紀初めから長き歴史を持つ鉄道とはいえ、「鉄ちゃん」を分類する言葉が日本でにぎにぎしく増殖したのは、今世紀に入ってからのこと。列車に乗るのが大好きな私は、間違いなく「乗り鉄」の1人だ。
さらに分類するならば、こんな言葉があるかどうかは知らないが、「逃げ鉄」である。
ふるさとは岡山県の宇野線沿線の小さな町。1988年まで高松と結ぶ連絡船が発着していた宇野駅には、東京行きの寝台特急「瀬戸」が停まっていた。テレビで見る満員電車が走る都会へと連れ出してくれる乗り物に思えた。だが、あこがれの青く長い列車には乗ることなく、地元の大学に進んだ。「女の子」は実家に残れという両親の圧力を覆せなかったのだ。
ふてくされて授業をさぼっては、岡山駅から山陽線、伯備線、吉備線と列車にゆられて本を読んだ。日が暮れるころ列車でこっそり戻った。いま思えば、気恥ずかしくなる中途半端な脱走ごっこだけれど。
以来ずっと、私にとって列車は勇気凜々とどこかを目指すよりも、今いる場所から逃げ出すための乗り物だったように思う。線路の上を走るから、道を大きく踏み外さない。行き先も実は分かっている。ちょっとだけ冒険し、現実や退屈から距離を置く。ときには思いがけない出会いもある。このコラムも、いつもの仕事から時に離れて「鉄輪」を手がかりに歩いたアジアを伝えたい。情報を極める「鉄」の方には、助けていただけるとうれしい。
そんな「逃げ鉄」の遺伝子は、母譲りかもしれない。彼女は日中戦争のさなか、祖父が商社マンとして駐在していた遼寧省撫順でうまれた。日本が中国の東北地方を侵略して建国した満州国の時代である。
1945年の敗戦で、5歳だった母を含めて家族5人は列車に乗り込み、命からがら逃げ出した。「車内は暑く、列車はしばしば止まった」「祖母は隠した貴金属などを食べものに変えていた」「途中で死んで捨てられた子供を見た」。母や伯父たちが語る博多港にたどり着くまでの鉄道と船の旅路は、私が人生で最初に接した中国の、いや外国のリアルな物語だった。意識したことはなかったが、新聞社に入って特派員として中国を取材することにつながった潜在的な記憶かもしれない。
子供のころ祖父から「あじあ号」と呼ばれた超特急の話もきいた。「満州国」を支えた南満州鉄道(満鉄)の看板列車だ。日本国内の特急を上回る速度でハルビンから首都とされた新京(現長春)をはさんで大連まで走らせていた。日本から対馬海峡を越えて朝鮮半島を貫き、中国や東南アジアまで鉄路でつなぐ構想があった、とも。欧米の植民地支配に代わって日本中心のアジアを築くと夢想した大東亜共栄圏をつなぐ大東亜縦貫鉄道のことだった、と後に知った。
侵略した敗戦国の国民として「逃げ鉄」した幼かった母の記憶。醒めた子供の目で地図を広げてみると、集団妄想だったとしか思えないような祖父の話。特急あじあが走った時代を想像すると、戻りたいとも戻るべき過去とも到底思えなかったが、その列車には乗ってみたかった。
瀋陽鉄道陳列館(遼寧省)に「あじあ」を牽引(けんいん)した蒸気機関車「パシナ」が展示されていると知り、中国特派員時代から何度か取材を申し込んでは、断られた。愛国主義教育にふさわしい場かどうかが見極められないことが理由とも言われていた。確かに、日中戦争の導火線ともなった満州事変は、瀋陽郊外の柳条湖での鉄道爆破事件から始まる。戦争の影を色濃く刻む乗り物は、日本人には郷愁の対象だとしても、中国では政治的に生々しい「国恥」の記憶が重なるからだろう。
その「あじあ」に、ようやく対面できる時がきた。
昨年8月下旬のこと。日本中国文化交流協会の訪問団の一員として東北地方の4都市(ハルビン、長春、瀋陽、大連)を5泊6日で旅した。団長は、放送大学教授で天皇研究が専門の政治学者、原武史さん。原さんのもうひとつの顔は、鉄道を素材に多角的に政治や社会、歴史を分析する「鉄学者」である。原さんの意向で都市間の移動はすべて高速鉄道となり、「鉄」の研究対象として陳列館にも入れることになったのだ。
2万平方メートル近い大きな体育館のような展示場に、ドイツや米国、チェコスロバキアなどで戦前に作られた蒸気機関車から現在の高速鉄道車両まで、所狭しと並んでいる。説明書きは素っ気ないものの、部品なども含めると全部で千点を超えるという。
念願の「パシナ」は車体が修復され、青い塗料でぽってりと厚化粧している。日本の在来線の幅は1067㍉だが、満鉄は40㌢ほど広かったせいか、イメージより背が高く、どっしりと大きく見える。生産された「パシナ」全12両のうち、現存が確認されている2両が並んでいる。
説明書きによれば、757号機は日本国内の川崎重工業の兵庫工場、751号機は満鉄大連の工場で、いずれも開業した34年に製造されたものだった。最高時速130キロまで出せる設計で、平均速度は80キロを超えた。豪華客車を牽引しており、大連―長春間の約700キロを8時間半、大連―ハルビン間の約940キロを12時間半で結んだ。「日本型蒸気機関車の横綱」(川崎重工業)と位置づけられている。
戦況の悪化で、「あじあ」は43年に10年足らずで運行を停止した。戦後は中国が接収し、「中国人民の戦利品」(中央人民ラジオ)として80年代前半まで使われていた。中国鉄路総公司のHPによれば「日本軍国主義の中国侵略の罪の証」と断じてはいるが、「日本の(新幹線につながる)高速鉄道の第一世代の試験的列車」と技術力を評価している。
陳列館は、日本にあれば「鉄」の聖地になるはずだが、残念なことに外国人には今も公開していない。原さんは90年代初め、当時の中国の時刻表と「あじあ」を見比べたことがある。「あじあ」の方が速かったという。「中国にとって東北の鉄道に対しては複雑だろう。積極的に見せたい対象にはなりにくい。陳列館も数は多いが説明はそっけなく、まるで車庫。歴史をとどめておくための貯蔵庫のように見えた」
興味深い展示を見つけた。中国で「抗美援朝(米国に対抗し、朝鮮を支援する)」と呼ばれる朝鮮戦争(1950―53)にかかわる写真だ。北朝鮮の鉄路の維持し、攻め込んだ中国軍への物資の供給を支援するため、数多くの鉄道関係者が北朝鮮に赴いたという。阻もうとする米国軍に鉄路を壊された写真もあった。戦争と鉄路は切り離せない。
朝鮮半島の分断から55年が過ぎた今年4月、南北首脳会談が11年ぶりに板門店で開かれた。北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長が韓国の鉄道の発展ぶりに言及した。合意の文書には南北をつなぎ、中国やロシアに抜ける鉄道の整備が盛り込まれた。前回の会談でも取り上げられたが、それどころではない状態が続いている。開通する日は、いつか来るのだろうか。
世界をゆさぶるニュースに触れながら、鉄路がつながることの意味を改めて考える。支配の道具か、交わりをつなぐ平和の象徴か。それは、時代とともに変わる。人の意志で変えられる。「あじあ」との対面を思い出しながら、東アジアの鉄道に宿る歴史を反芻した。
鉄道は、歴史と今がつながる。国や町の境を越えて、つながる。あなたと私もつないでくれる気がする。「逃げ鉄」の線路の先に見えてきたものを綴りたい。あなたの「旅」のおともに、どうかおつきあいください。