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「ありがとう」を胸にシャッターを切る 安田菜津紀が語る「写真、家族」

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
東日本大震災後に安田が撮影した「奇跡の一本松」には、多くを教えられたという=岩手県陸前高田市、外山俊樹撮影

「家族って、なんなのだろうか。私も、もやもやしたものを抱えていました」。3月下旬、東日本大震災から8年を迎えた岩手県陸前高田市。かつて中学校の校舎だった施設で開かれたイベントで、安田菜津紀(32)は、難民キャンプや被災地の写真を見せながら子どもたちに話しかけた。「人と人とが一緒にいられる時間って限られたものなのに、どうしてわざわざ人を傷つけるのだろうか、と」
シリアやフィリピン、ウガンダなどで紛争や貧困の中で生きる人の姿を撮ってきた。テレビ番組のコメンテーターとして全国に知られ、明るく、活動的なイメージを持たれることも多いが、原点は、心に抱えてきた家族との葛藤にある。
写真を見せながら講演=岩手県陸前高田市の陸前高田グローバルキャンパス、外山俊樹撮影

手広く事業を手がける父と、月300冊もの本を読み聞かせてくれる母のもとで育ったが、小学3年の時に父の商売が傾き、両親は離婚。父や兄と別れ、母と妹と3人暮らしが始まった。

3歳ごろ、東京の井の頭公園で©Dialogue for People

中学2年の時に父が亡くなり、戸籍を見て初めて在日コリアン2世だったと知った。その1年後に兄が他界。兄とは異母きょうだいだったこと、兄が父になぜか敬語で話していたこと……。「家族とはなんなのだろう」と答えのない問いに、心が乱れた。周囲とのかかわりを避けて、髪を染め、深夜の繁華街をうろついた。

カンボジアのこと、伝えたい

転機は16歳のとき。担任教師がクラスで紹介した話が、心に引っかかった。NPO法人「国境なき子どもたち」が取材のために世界各地に派遣する「友情のレポーター」を募集しているという。異なる環境で生きる同世代の人たちは、家族とどう接しているのだろうか。吸い寄せられるように応募した。

派遣されたカンボジアで過ごした10日間は衝撃的だった。内戦終結から10年あまり。貧しさから人身売買されたり、売春をしたりして生きてきた子どももいた。なのに、彼らは真っ先に「家族」のことを語る。「家族を支えたい。早く身につけられる技術や知識は何だろう」。その明るい表情には、血がつながっているとは限らない、「守りたい誰か」への思いがあふれていた。

「彼らのことを誰かに伝えたい」。その思いが向かった先が写真だった。一瞬で目に映り込み、「無関心」から「関心」へと、人の心を引き寄せる力があると感じたからだ。

高校時代に訪れたカンボジアで、市場で働く少女を取材する安田(中央)=NPO法人「国境なき子どもたち」提供

大学に入学してからは、写真を勉強しながらカンボジアに通った。マスコミへの就職も考えて、尊敬する写真家の渋谷敦志(44)に相談すると「生半可な気持ちなら、写真をやめた方がいい」と厳しい言葉が返ってきた。出会った人たちを撮り、伝え続けていこうという決意を固めたのは、この時だった。

「伝える力」は、当時から卓越していた。カンボジア訪問に主催団体の職員として同行した清水匡(48)は、日本の紹介リポートをする安田の姿を覚えている。話し始めるや子どもたちが食い入るように聴き入り、万雷の拍手が起こった。「歴代レポーターの中でも一番。その表現力はいまも変わらない」。2013年からコメンテーターとして出演するTBS系報道番組「サンデーモーニング」司会の関口宏(75)は話す。「自ら足を運んで取材してくるので、コメントに説得力がある。貫いていて、ぶれない」

大学卒業後、親を亡くした子どもたちのキャンプに参加した時にイラク人の男の子と友達になったのをきっかけに、シリアやイラクにも赴くようになった。紛争やエイズ。取り上げるのは深刻な社会問題でも「現場に行くというより、人に会いに行く」と考え、「縁あって出会えた人」との触れ合いを大切にして撮影する。そんな作品が徐々に注目されるようになり、10年には初の個展を開催する。そんななかで、人生に大きな影響を与えるできごとが起きる。

かつて「イスラム国」(IS)が支配したシリア・ラッカで、鉄くずを拾って生きる子どもたちと話す安田(右)©Kei Sato/Dialogue for People

一本松は「希望」なのか

安田の代表作のひとつに、11年の東日本大震災の直後に陸前高田で撮った「奇跡の一本松」がある。震災発生時は海外で取材をしていたが、のちに夫となるフォトジャーナリストの佐藤慧(36)の両親が暮らす陸前高田に駆けつけた。佐藤の母は津波に流されて行方不明になり、変わり果てた町に医師の父が残されていた。日本百景に数えられた松林は更地になっていたが、1本だけ残った松があった。「希望の象徴になればいい」との願いを込めてシャッターを切ったのが、この1枚だ。

だが、全国紙に載った写真を見た義父は言った。「あなたのように、以前のまちを知らない人にとっては希望なのかもしれない。でも、7万本の松と暮らしてきた自分にとっては、波のすさまじさを象徴しているだけだよ」。はっとした。「自分がとらえようとしていたのは一体、誰のための『希望』だったのか」

その後、安田は佐藤と結婚する。若い頃に弟と姉と死別した佐藤とは心が通じ合った。「家族は減るだけではなく、増える喜びもある」と義父に伝えたい。佐藤の目にも「本当の娘のように接していた」という義父は、4年後に亡くなる。作品を見るたび、安田は義父を思い、かみ締める。「伝えるという仕事の役割は、声を上げられずにいる人々の痛みを置き去りにしないことだ」

死別した人と出会える窓

シャッターを切る時、安田は「ありがとう」という気持ちを抱くようにしている。末期の乳がん患者の女性と、最後の時間を大切に過ごすパートナーの日々を追っていた時に学んだことだ。

出会った時に着ていた服を着て大好きなバンドのライブに行く――。ふたりがそんな計画を立てていた日、彼女は亡くなった。連絡を受けて駆けつけた時、男性は頼んだ。「ふたりの写真を撮ってほしい。一緒にいた証しを残したい」

数日後に家を訪れ、男性が写真の中の女性に「写真家さんが来てくれたよ」と優しく話しかける姿を見て、安田は気づいた。「写真は死別した人と出会える窓になる」。だから、常に撮らせて「いただく」と思ってシャッターを切ろう。幼い頃から多くの死と向き合ってきた安田が、たどり着いた思いだ。

中学生から大学生までが参加した座談会を見つめる=岩手県陸前高田市の陸前高田グローバルキャンパス、外山俊樹撮影

震災直後から交流が続く陸前高田の防災士、佐藤一男(53)は、安田のそんな変化を感じていた。「感情移入するくらい真剣に相手の話を聞く。以前はそれで心にダメージを受けることもあったが、強くなったね」

「写真家というより、だれかの苦しみや痛みをありありと想像できるジャーナリストで、『あなたはひとりじゃないよ』と遠くの誰かに届けることのできるメッセンジャー」。安田を見守ってきた渋谷が考える、安田の「役割」だ。

講演会後に参加者と話す=岩手県陸前高田市の陸前高田グローバルキャンパス、外山俊樹撮影

最近、安田は次の世代の人たちに何を伝えていくかを考えるようになった。高校生と被災地を訪れる毎夏のツアーは、今年で6回目になる。被災地の漁師を描いた写真絵本も出版した。悩みの多かった子ども時代。だからこそ、彼らを前に安田は力を込める。「それぞれに、必ず役割がある」(文中敬称略)

■Profile

  • 1987 神奈川県横須賀市で生まれる
  • 1995 両親が離婚。母と妹との暮らしが始まる
  • 2000 父が亡くなる。翌年には兄が死去
  • 2003 NPO法人「国境なき子どもたち」の「友情のレポーター」としてカンボジア訪問
  • 2004 報道写真展で目にしたアフリカ・アンゴラの難民キャンプで、やせ細った母親の乳房に吸い付く赤ん坊の写真に引き込まれる。のちに写真家・渋谷敦志の作品だと知る
  • 2005 上智大学に入学
  • 2007 写真の勉強を本格的に開始。シリアで暮らすイラク人の難民を初めて訪問
  • 2010 カンボジアのHIV感染者が暮らす村をテーマにした初の個展を東京・新宿で開催
  • 2011 東日本大震災発生。岩手県陸前高田市の取材を始める。佐藤慧と結婚
  • 2013 ヨルダンのシリア難民キャンプの取材を始める。報道番組「サンデーモーニング」のコメンテーターに
  • 2014 高校生向けに東北地方の被災地へのスタディーツアーを始める
  • 2015 義父が他界。J-WAVE「JAM THE WORLD」に毎週水曜に出演するように
  • 2016 著書『それでも、海へ 陸前高田に生きる』『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』を出版
  • 2018 女優サヘル・ローズの詩と安田の写真による『あなたと、わたし』を刊行

■Memo

釣り…東北地方の被災地に通ううちに、本格的に釣りをするようになった。休みがとれたらさっと旅立ち、夏は渓流釣りを、冬はカキ漁船に乗り込み、アイナメなどの近海魚を釣る。「糸を垂らしてぼーっとしているように見えるでしょう。でも、とても頭を使うんです」。取材相手と釣りをすることもよくある。漁師を取材するために1級小型船舶の免許を取得した。

佐賀県で漁師を撮影中に釣りに参加=2018年 Dialogue for People提供

猫好き…小学生のころは、人間よりも野良猫と接している方が、心が安らいだ。いまは、妹が飼っている猫を「愛している」という。猫エイズに感染した保護猫だ。ゆくゆくは猫と触れ合うことで、大切な人との死別などの悲しみを癒やすグリーフケアとして「保護猫カフェ」をつくる夢を抱いている。「グリーフケアは写真や文章を超えた、私たち人間の普遍的なテーマだと思っています」