■数カ月単位で紛争地へ
白川はフランスで創設された国際NGO「国境なき医師団」(Médecins Sans Frontières=MSF)に所属する看護師。8年前に登録して以来、数カ月単位で紛争地に赴任する生活を繰り返している。スリランカ、パキスタン、イエメン、シリア、南スーダン、フィリピン、ネパール、パレスチナ。これまで9カ国に計17回。イラクから帰国した今年6月以降は東京の事務局で働くが、メール1本の要請で旅立つ覚悟はある。
爆音や叫び声が響く紛争地の現場と、賑やかな音楽であふれる東京の生活のギャップ。よく聞かれる「なぜあえて紛争地に行くのか」という問いに、白川は思う。紛争地で仕事をすることになるとは、自分だって思ってもみなかった。迷うたび「本当は何がしたいの?」と心に聞いて一歩ずつ進んできた。そうして、看護師として「もっともニーズのある場所」までたどり着いただけだ。
■「ふつうの少女」の小さなきっかけ
身長153センチの白川は「紛争地で生き抜く強い女性」のイメージには遠い。現場では体重は2カ月で7、8キロ減るし、帰国後は呼吸困難の症状も出る。大きな音には体が反応し、近くで花火大会があると避難するほどだ。弟で大工の賢太郎(43)は「姉が紛争地に行っているなんて、今でも信じられない。お笑い番組を見て、ガハハと笑っている。本当にふつうの人」。
都心まで電車で1時間ほどの埼玉県東松山市で、音響部品を製造する両親のもとで育った。「心配になるぐらい手のかからない子だった」と母の文子(72)は言う。MSFの存在を知ったのは7歳の時。偶然見たテレビ番組の内容は覚えていないが「国境なき医師団」のテロップは記憶の中で鮮明だ。とはいえ、すぐに将来に結びつくわけではない。「ふつうの子」が紛争地に行くまでには、こんな小さなきっかけが数珠のようにつながっていく。
「就職率が高く、制服がかわいい」と進んだ商業高校3年の夏。ハンバーガー店のバイトに忙しかった白川は、級友が「看護師になりたい」と話すのを聞き、「私も!」と口走った。受験勉強もしていなかったのに「パズルのピースが収まるようにピンと来た」。担任に「無理だ」と言われつつも地元の看護専門学校に合格。卒業後は、近所にある外科中心の病院に就職した。
1999年、白川はノーベル平和賞受賞のニュースで久々にMSFの名を聞いた。もう子どもではなく、3年の実績を積んだ看護師だ。「一員になりたい」と募集説明会に乗り込んだが、「英語力」の質問項目を見て、「お門違いの場所に来た」と悟った。英会話学校に通い、短期留学もしたが、その後に受けた「TOEIC」は平均点を100点も下回る430点。諦めかけた。
もがく白川の背中を押したのは母の文子だった。「いま諦めたって、この思いは10年先も続く。人生のピークを40歳あたりに見ればいい」と長期の留学をすすめた。文子は、この言葉を覚えてはいないが、「女だから」と途中で学業を諦めざるをえなかったこともあり「娘には、したいことをしてほしい」という思いがあった。
この言葉は、白川の道しるべになる。オーストラリアの語学学校を経て大学の看護学科に入学し、留学生の中でただ1人卒業。メルボルン最大の病院に採用され、チームリーダーを任されるまでになった。英語の電話対応が苦手な白川が受話器を取らないですむように同僚たちがフォローしてくれたおかげ、と白川は言う。「いくら言葉の壁があっても、私を経験豊富な看護師として扱ってくれた」
■看護師に戦争は止められない だけど……
2010年。白川はMSFに応募し、登録された。門を叩いてから10年。36歳になっていた。派遣先では、手術室での医師のサポートや患者のケア、限りある医療品の管理といった任務のほか、医療拠点の再建に携わることもある。「語学の壁」に苦しみながら培ったコミュニケーション力が、ここでものを言う。
カナダ人の麻酔科医ステファニー・テイラー(43)は、15年、内戦が激化したイエメンで病院の立て直しに奮闘する白川の姿が忘れられない。電気も水道も設備も、すべてが破壊された建物では武器を手にした男性が歩き回っていたが、白川は笑顔で中に入っていき、電気の代わりにガスを、洗面台の代わりにバケツをと、使える物資を駆使して、医療器具を消毒・減菌できる部屋をつくりあげた。「落ち着いていて、柔軟性がある。だから、ほかのスタッフも過酷な状況に耐えられた。彼女抜きでは、プロジェクトは失敗していただろう」
白川を「戦友」と呼ぶ外科医の田辺康(60)は西洋人とアラブ人のスタッフに隔たりがあった現場で、白川が両方と打ち解けたのをきっかけに、隔たりが消えていくのを実感したことがある。「少女のまま大人になったような人。ひたすら勤勉で和を重んじるが、意見をはっきり言い、どんな文化にも入っていける」
そんな白川にも、看護師をやめようと考えた時期がある。12年9月、内戦の泥沼に陥ったシリアでのことだ。相次ぐ空爆で病院に運ばれて来るのは兵士ではなく、子どもや妊婦、お年寄りばかり。家族を失って泣き叫ぶ姿を見続ける中で「看護師の私のすることでは、戦争は止められない」との思いが膨らんだ。「ジャーナリストになって、戦争の実態を伝えたい」。帰国後、知り合いの記者に相談したが「なったからって戦争を止められるわけではない」と返され「相手にされていない」と落ち込んだ。
半年後、悩みながら再び赴いたシリアで、空爆で両足のかかとの骨が粉砕された女子高校生が運び込まれてきた。3日に1度の手術を繰り返したが、再び歩けるようになりそうにはない。アラビア語で話しかけて手を握っても無表情なまま1カ月がすぎた。だが、病院を去る前日に「写真を撮ろう」と声をかけると、少女は笑顔を見せた。「医療に限界はあっても、手を握り続けたことで、彼女の心から不安を取り除くことができた。こうした積み重ねで、復讐心の芽を摘めるかもしれない」。少女を抱きしめながら「看護師として、自分にしかできないこと」を感じた。
それ以来、白川は世界史や国際関係の本を読み、勉強会に足を運ぶようになった。国連職員として紛争解決に取り組んだ伊勢崎賢治(61)に「学ぶことで経験が整理され、発言に説得力が増す」と誘われ、東京外国語大学大学院のゼミにも参加した。伊勢崎は「敵味方なく人と仲良くなれる人間性に、誰もが耳を傾ける」と白川の「伝える力」を評価する。今年7月に初の著書「紛争地の看護師」を出版。講演に出向く日々だ。
だが、口を閉ざさなければいけないこともある。帰国後、予定されていたイベントへの登壇が急遽中止になった。紛争地で活動する仲間の安全を守り、現地の活動を継続させるために発言を控えざるをえないことは、これまでにもあった。MSFの看護師であることと、伝えること。その狭間に立ちながら、白川は話すことをやめない。脳裏に焼き付いた紛争地で手を握った人たちの顔。彼らには発信する手段がない。なら、伝えるのは自分の役目だ。看護師であることを超え、人間として。
(文中敬称略)
■Profile
1973 東京で生まれる。3歳で埼玉県東松山市へ
1991 埼玉県の川越商業高校(当時)3年の夏に看護師になる道を決める
1996 坂戸鶴ケ島医師会立看護専門学校(埼玉県坂戸市)卒業。近くの病院に就職
1999 「国境なき医師団」(MSF)がノーベル平和賞を受賞。説明会に参加
2004 オーストラリアン・カトリック大学看護学科に入学
2007 メルボルンのロイヤルメルボルン病院に就職
2010 帰国。MSFに参加登録し、初めてスリランカに赴任。翌年パキスタンに赴任2012 イエメンに赴任。シリアで看護師長として手術室を統括。翌年再びシリアに赴任
2014 南スーダン・マラカルに赴任。その後、台風被害のフィリピン・レイテ島へ
2015 ネパール、イエメンを経てパレスチナ・ガザ地区に赴任
2016 イラク、イエメンに計3回赴任
2017 イラク、シリアに計3回赴任
2018 イラクへ3回目の赴任。7月、初の著書「紛争地の看護師」を出版
■Self-rating sheet
白川優子さんはどんな「力」に自信があるのか。8種類の「力」を5段階で評価してもらうと「持続力・忍耐力」に「一番自信がある」と即答した。
「体力と行動力も任せて!」。一方で「分析力・洞察力」は1にした。「全てをポジティブにとらえちゃうから、マイナス面が見えなくなる」。恋人と秋の温泉旅行の計画を立てていたのに、紛争地の赴任期間が延びて帰国が冬になった時のこと。「待ってくれている」と楽観して「雪見温泉もいいよね」と言うと、別れを告げられた。「アドバイスを仰ぐから」と「決断力」は2に。「語学力」は3と控えめだが、「繰り返し話しかけ、ジェスチャーも使ってカバーします」と「コミュニケーション力」に5をつけた。
■Memo
メイク道具…基礎化粧品やメイク道具は必需品。紛争地に行くときは、フリーザーバッグに小分けにして、赴任期間よりもひと月分多く持っていく。きちょうめんに整理された様子を見た外国人スタッフに驚かれることも。「1分間でも、メイクをする時間が貴重な息抜きになります」
家族…埼玉県東松山市の実家には帰国中、たびたび帰る。弟の賢太郎の家族も市内に在住。めいにあたる高校生の姉妹を幼い頃からかわいがり、一緒に遊んできた。賢太郎の妻、淳子(40)は白川を「ゆっこねえ」と慕い、子育てをしながら看護学校に通っている。「看護師が幼い頃からの夢だったと知って、後押ししてくれた」