平成最後の日に
本連載は基本的に毎週火曜日に配信しており、偶然にも平成最後の日がその火曜日に当たってしまいました。こんな歴史的な日に、何の変哲もない話題ではなんですので、今回は長期的な視点で、平成の30年間の日露関係を大掴みに振り返ってみることにします(正確に言えば1991年までは日ソ関係ですが、以下では便宜的に日露関係として統一します)。
さて、平成の日露関係は、4つほどの時期に整理すると、理解しやすくなると思います。第1期は、1989~1991年のソ連邦末期。第2期は、1992~1999年のエリツィン・ロシア大統領の治世。第3期は、2000年から2012年頃までのプーチン体制前期。第4期は、日本側で第2次安倍内閣が発足した2012年12月以降です。
平成第1期:ソ連邦の崩壊
ロシア側にはむろん年号はありませんので、平成元年に当たる1989年から日露(日ソ)関係を説き起こすことは、やや無理があるかもしれません。しかし、社会主義の超大国、ソ連邦においても、ゴルバチョフの進める改革「ペレストロイカ」が急進化し、革命の様相を呈するようになったのは、ちょうど1989年頃からでした。ソ連の衛星国だった東欧諸国で次々と自由化が実現し、ベルリンの壁が崩壊したのも、やはり1989年のことです。
というわけで、1989年から、ソ連邦が崩壊する1991年暮れまでが、平成日露関係の第1期ということになります。平成の日露関係はまず、1989年2月の大喪の礼に、ソ連最高会議幹部会第一副議長のルキヤノフ氏が出席するところから始まりました。1990年11月の即位の礼に出席したのもルキヤノフ氏であり、この時はソ連最高会議議長という肩書でした。この時点で名実ともにソ連のトップに立っていたゴルバチョフは来ませんでしたが、当時の二国間関係を考えれば、まあ普通の対応だったろうという気がします。ちなみに、ゴルバチョフの腹心と見られていたルキヤノフでしたが、その後1991年8月の保守派クーデターの影の首謀者となり、逮捕・収監されることになりました。
ところで、手前味噌になりますが、現在筆者が勤務しているロシアNIS経済研究所も、平成元年、1989年4月1日に誕生した組織です(当時の名称はソ連東欧経済研究所)。かく言う筆者は、平成元年入社で、研究所採用一期生であり、平成という時代の終焉に人並み以上の感慨を覚えています。
残念ながら、当時の幹部らはすでに鬼籍に入っており、30年前に我々の研究所が設立されることになった詳しい経緯などは不明です。断片的に聞いた限りの情報では、前年のG7サミットが、研究所設立の一つのきっかけとなったようです。当時、主要先進国はゴルバチョフのペレストロイカに熱視線を送っており、東西関係は大きく変わろうとしていました。1988年6月のG7トロント・サミットに出席した竹下登首相は、ソ連・東欧問題の重要性を痛感し、それに関する情報収集・分析体制の強化の課題が日本政府内で浮上しました。その結果として、我々の研究所が設立されるに至ったということです。
1989年は日本のバブルの絶頂期で、当時は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言説も盛んでした。対するソ連の経済は後進的で、改革に苦戦していました。したがって、ソ連側は日本に支援を求めたり、あるいは日本の経済モデルに学ぼうとしました。この時代のエピソードとして、ミリューコフというソ連の政権幹部が1989年、1990年に来日して日本経済を調査し、報告書を作成したことがあげられます。その報告書は1991年に日本でも朝日新聞社から翻訳出版されましたが(下の画像参照)、筆者は恩師とともにその翻訳を担当したので、懐かしい思い出として残っています。
平成第2期:エリツィン時代の混乱
社会主義の超大国、ソ連邦は1991年末に崩壊し、ロシアは1992年から新生国家として歩み始めました。ロシアがエリツィン大統領の下、民主主義と市場経済に移行し、東西冷戦構造も崩れたことから、日本としても領土問題の解決と平和条約締結に向けた交渉がやりやすくなるという期待がありました。日本側の基本姿勢は「政経不可分」のままでしたが、ロシアの安定は国際社会にとっても利益になるという観点から、対ロシア経済支援策も打ち出すようになります。
そうした日本側の期待に冷や水を浴びせたのが、1992年9月に起きたエリツィン大統領による訪日延期の決定でした。ロシアで開かれた政権幹部会合で、日本への安易な譲歩に反対する声が相次ぎ、訪日を見合わせたものと伝えられます。その後、領土および平和条約の問題は、1998年4月の川奈での橋本・エリツィン首脳会談で「歴史上最も解決に近付いた」とされるものの、合意には至らず、21世紀に持ち越しとなりました。
エリツィン大統領の治世は、ビジネスの面では最悪の時代でした。まず、ソ連末期に対外債務の問題が表面化し、それを解決すのに多大な時間と労力を要しました。ロシア企業に信用力がないため、代金を前払いでもしてくれなければ、モノを売れないという時代でした。日本政府が、当時の輸銀の融資枠を設定しても、ロシア側の対応能力が低くて消化できないような状況が続きました。1990年代に日本の対ロシア輸出が超低空飛行を続けていたことは、下に見るグラフからお分かりいただけると思います。
その一方で、エリツィン時代には自然発生的なグレービジネスが花盛りとなりました。漁獲規制や通関手続きを免れたロシア漁船が日本の漁港に寄港し、大量にカニを売りさばきました。また、日本製の家電や乗用車などが、日本メーカーのあずかり知らないところで関税支払いを免れ、ロシア市場に溢れかえるという現象もありました。ロシア人の若く美しい女性たちが「ダンサー」と称して日本の夜のお店で大量に働いていたのも、この時代のことです。
平成日本の大事件の一つに、オウム真理教をめぐる騒ぎがありました。オウムは、1990年代前半のロシアの混乱に乗じて、ロシアで大掛かりな布教や武器調達を行っていました。平成日露関係史の暗部の一つでしょう。
平成第3期:プーチン大統領の下での秩序回復
ロシアは1998年8月に通貨・金融危機に見舞われ、エリツィン大統領の健康も悪化するなど、ボロボロの状態でした。そうした中、1999年8月にプーチンが首相に抜擢され、その手腕を見極めたエリツィン大統領は1999年の大晦日に辞任を発表、最高指導者の地位はプーチンに引き継がれました。その体制が、メドベージェフによる中継ぎ大統領時代を含め、現在まで続いています。したがって、平成の残りの3分の2は、ロシアではプーチン時代ということになります。
プーチン大統領の下、ロシアは秩序を回復し、石油価格高騰の恩恵も受け、2000年代に目を見張るような成長を遂げました。2001年に発表されたBRICs論(ブラジル、ロシア、インド、中国の新興4ヵ国が今後の世界経済の成長をリードするという議論)もあり、日本の経済界でもちょっとしたロシアブームが起きます。特に、この時期のロシアでは日本車の販売が倍々ゲームで拡大し、トヨタや日産はロシアでの工場建設に踏み切りました。日本の輸入面では、1990年代から続けられていたサハリン沖石油ガス開発がいよいよ開花し、それに太平洋パイプラインの開通も加わって、ロシア産の石油および液化天然ガス(LNG)がコンスタントに日本にもたらされるようになりました。
日本にとってもはやロシアは経済支援を施す対象ではなくなり、対等なビジネスパートナーに脱皮したと言えるでしょう。その一方で、平成第3期にも両国首脳による往来や会談は続いたものの、領土および平和条約の交渉では、大きな進展は見られませんでした。
ところで、2011年3月に東日本大震災が発生した際に、ロシアからも多大な支援が寄せられたことは、平成の日露関係史の一こまとして、忘れてはならないでしょう。日本は、1990年にサハリンで大火傷を負ったコースチャ少年の命を救ったり、1995年にはサハリン北部地震の被害者に物的支援を提供したりしました。2011年の東日本大震災は、日露間のそうした人道的支援がもはや一方的なものではなく、相互の関係になっていることを示しました。
平成第4期:安倍政権の積極姿勢
これまでは、どちらかと言うとロシア側の政権交代によって日露関係が転機を迎えるということが続いてきました。それに対し、平成第4期は、2012年5月にプーチンが大統領に返り咲いたということもありますが、それよりはむしろ、同年12月に日本で第2次安倍内閣が成立したことに伴って始まったと言えるでしょう。
言うまでもなく、第2次安倍内閣は、ロシアとの間で北方領土問題を解決し、平和条約を締結することを、最優先課題の一つに掲げ取り組んできました。それに向けて、安倍総理は2013年から2019年1月まで、実に25回に上る首脳会談をプーチン大統領との間で積み重ねてきました。2016年には8項目の経済協力プランをロシア側に提示し、その後それにもとづいた経済協力を推進しています。
他方、日本がロシアとの経済協力を推進してきたここ数年は、ウクライナ危機に起因する国際緊張が高まった困難な時代でもありました。2014年以降、欧米はロシアに対する経済制裁を打ち出し、日本も共同歩調をとらざるをえませんでした。以前も指摘しましたが、日本はここ数年、ロシアとの経済関係で、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような状態でした。
結局、安倍政権の懸命な働きかけにもかかわらず、日露間の領土および平和条約をめぐる交渉は平成のうちには決着しませんでした。日本側は本年6月に大阪で開かれるG20首脳会議までの大枠合意を目指しているとされていたものの、原則的な姿勢を崩さないロシア側は長期戦の構えであり、楽観は許されない状況にあります。
このように、日露間で最大の懸案である領土および平和条約問題の解決は、令和の時代に引き継がれることになりました。こうした国家主権にかかわる問題が簡単に解決することはないと、覚悟しておいた方がいいかもしれません。他方で平成時代の日露関係では、企業間の取引はもちろんのこと、自治体や市民などによる国境を越えた交流や、ネットやSNSを使った相互コミュニケーションも盛んとなり、文化やスポーツなどでお互いを身近に感じる機会も増えました。今の日露関係は、未解決の問題は大きいとはいえ、冷戦時代の二国間関係とはまったくの別物です。令和の時代には、そうしたフラットな交流がより密になっていくことを期待したいと思います。