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ブレグジット前に知っておきたい 「怒れる白人労働者」とは限らない英国の実像

ヨーロッパから見る今どきの世界 更新日: 公開日:
ヘブデンブリッジを流れる運河=英ウェスト・ヨークシャー地方

■産業革命のふるさと

ウェスト・ヨークシャーは、エミリー・ブロンテの小説「嵐が丘」の舞台です。荒涼とした原野や牧草地が続き、その間の斜面や谷底に小さな街や村が点在する。天気が変わりやすく、晴れ間が見えていた空が急に曇ると嵐が来る。19世紀の小説が描くこの地方の寒々とした風景は、現代にそのまま引き継がれています。

運河に沿ったヘブデンブリッジの村=英ウェスト・ヨークシャー地方

ここはまた、炭田が広がり、毛織物工業や鉄鋼業も栄えた産業革命のふるさとです。イングランドでは比較的珍しく山がちな地域ですが、その斜面や谷底に、ひしめくように工場の煙突や作業所が今でも林立しています。ただ、車窓から見える工場のいくつかはすでに操業を停止し、倉庫などに転用されているようでした。

ブロンテ姉妹が暮らした村ハワースから南に山を一つ隔てたところにあるヘブデンブリッジも、そのような場所の一つです。マンチェスターから、トンネルを越えて電車で1時間弱。降り立った駅は森に囲まれ、人の気配があまりうかがえません。坂道を下ると川が流れ、その周囲に石造りの村が姿を現します。日本で言うと、山峡の温泉町のような風情です。

高台から見たヘブデンブリッジの村=英ウェスト・ヨークシャー地方

19世紀から20世紀にかけて、産業革命の牽引役だった繊維産業がここで栄えました。二つの渓谷が合流する地点にあって水が豊富なため、水力を利用して羊毛を加工する工場が次々と建てられ、その製品は川に並行して開削された運河を通じてマンチェスターに運ばれました。ただ、それは昔の話です。現在、この町の周囲の工場もほとんど稼働していません。繊維産業のみならず、ものづくり自体がイギリスでは衰退してしまいました。

■単純な話ではない投票行動

EU離脱是非を問うて2016年に実施された国民投票では、この町を含む自治体「カルダーデール・ディストリクト」で離脱票が55・7%を占め、残留票を上回りました。そう聞くと、この結果は地域の経済状態を反映しているように感じられます。町の住民たちは仕事を失って貧困の中にいるのでないか。トランプ氏を支えたアメリカのラストベルト、右翼ルペン氏の支持が強い北フランスの炭田地域と同様に、労働者の不満が既存の政治勢力への批判に向かい、EU離脱を求めたのではないか。

しかし、そう単純なストーリーではないと、この町の近くに暮らすリーズ大学教授のエイドリアン・ファヴェルさん(50)はいいます。欧州社会論の第一人者で、カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授やパリ政治学院教授も務めた社会学者です。

「確かにこの街も荒廃した時期がありました。ただ、それは随分以前の話です。今は、都会から多くの人々が移り住んで、文化的な地域の拠点となっていますよ」

ヘブデンブリッジが最も衰退した時期は、1979年に始まったサッチャー政権下で進められた大胆な自由化や民営化政策「サッチャリズム」と重なるといいます。この前後には、町を流れる運河も干上がり、ごみだめのようになりました。しかし、もともと風光明媚な町はその後、多くの芸術家や文化人を引き付けることに成功しました。今や行楽地となり、週末には多くの訪問者でにぎわいます。運河も観光資源として復活し、現在はここに浮かべた船で生活する人もいるほどです。

この町では、繊維産業が栄えたころにつくられた映画館「ピクチャー・ハウス」が、今も稼働しています。ちょうど夕刻、開館しかけていたので、中をのぞいてみました。

ヘブデンブリッジ村の映画館「ピクチャー・ハウス」=英ウェスト・ヨークシャー地方

スクリーンにはちょうど、是枝裕和監督『万引き家族』の予告編が映っていましたが、コンサートホールのような小ぎれいな内装で、何と500席もあります。地元の家族やお年寄りたちが連れ添って訪れ、地域の社交場として機能しているようでした。人口5000足らずの町で映画館が生き残るのは異例だけに、住民たちの文化への関心の高さがうかがえました。

つまり、「イギリスのラストベルト」と一言で片付けられるほど状況は単純ではない、ということでしょう。イギリスでは、製造業や炭鉱の衰退が始まってからすでに半世紀が経っており、労働者がそのこと自体に今さら不満を募らせているわけではありません。いくつかの町はとっくに復活を果たし、別の分野で栄えているともいいます。

■ニカブ姿の女性も

「一方で、工場の閉鎖や人口減に悩む町も、もちろんいくつかあります。要は、それぞれ多様なのです」

そう語るファヴェルさんの案内で、ヘブデンブリッジとは少し異なる性格の地区も訪ねてみました。

一つは、ウェスト・ヨークシャー地方の中心都市リーズから電車で南西に15分ほどのデューズバリーです。緩やかな丘の斜面に広がる人口6万あまりの街で、ヘブデンブリッジに比べると随分開けた感じがします。この地方の羊毛関連産業の中心地で、やはり産業革命で重要な役割を果たしました。

しかし、1973年の石油危機でほとんどの繊維工場は閉鎖され、以後この街は治安の悪さでメディアにしばしば取り上げられるようになりました。実際、駅から中心街に向かうと、その荒れようは否定できません。いくつか小さなアーケードがあるのですが、1ポンドショップや食料品店が辛うじて開いている程度のシャッター街と化し、一部は閉鎖されてごみが積もっています。

デューズバリーの閉鎖された商店街=英ウェスト・ヨークシャー地方

ここの住民の多数を占めるのは、パキスタン系やインド系のイスラム教徒です。街を歩いてもその多さは明らかで、女性の大半はスカーフをまとっています。体をすっぽり黒い布で覆って目だけ出したニカブ姿の女性も何人か見かけました。19世紀に建てられた駅前の元産業協会本部には今、パキスタン・イスラム協会が入居しています。

デューズバリー中心部のマーケット。女性はスカーフ姿が多い=英ウェスト・ヨークシャー地方

これは、イギリスの別の姿を示しています。ここの住民の多くは低所得の労働者ですが、アメリカのラストベルトに典型的な「怒れる貧しい白人たち」ではありません。労働者層の主流はいま、パキスタン移民出身者などいわゆる「アジア系」だというのです。

ファヴェルさんはこう解説します。

「イギリスで、労働者階級の多くは、実は白人ではありません。多様な民族で構成されているのです。彼らはパキスタンに親戚がいたりと、すでに十分国際化されていて、必ずしもグローバル化には反対しません。『ロンドンなど大都市のリベラルなエリートに対して、グローバル化や欧州統合の恩恵から取り残された産業地帯の白人貧困労働者が反発している』という一般的なイメージは、正しくないのです」

デューズバリーを含むカークレス・ディストリクトの国民投票結果は、離脱が54・7%でした。過半数を占めますが、さほど高くないのは、移民系人口の投票行動が影響しているのかもしれません。

■左派だが離脱支持

小雨の中、デューズバリーからバスに乗り、東に1時間ほどの街ウェークフィールドを目指します。間もなく、正面に見事な虹がかかりました。水滴がしたたる車窓ごしにこれを見たファヴェルさんは「D・H・ロレンスの小説『虹』を思い出した」といいます。

デューズバリーからウェークフィールドに向かうバスの車窓から見た虹=英ウェスト・ヨークシャー地方

『虹』は、『チャタレイ夫人の恋人』と並ぶロレンスの代表作で、1915年に発表されました。恋人に去られ、おなかの中の子どもも失った主人公の女性アーシュラが、空に架かった巨大な虹の中に新たな世界の萌芽を見いだす。そのラストシーンが特に有名です。

『虹』は3代にわたる女性の物語ですが、初代のリディアはポーランドからの亡命者であり、その孫アーシュラの恋人もポーランド出身の軍人です。この国とイギリスは、当時から密接な関係にあったようです。しかし、今回の国民投票を巡る論議で、離脱派はポーランド系移民をやり玉に挙げて「イギリスの利益を横取りしている」と非難しました。根拠のない言いがかりですが、ポーランド系の人々も『虹』発表から1世紀あまりを経てこのような批判を浴びるとは思いもしなかったでしょう。

バスの終点ウェークフィールドは、そのポーランド系労働者が少なくありません。街ではポーランドやバルト三国をはじめとする旧東欧旧ソ連各国の食材を扱うスーパーをあちこちに見かけます。10万近い人口の9割以上は白人で、教育水準が低く、「ラストベルト」のイメージに最も合ったところかもしれません。ただ、この「白人」には、ポーランド系も含むと考えられます。

ウェークフィールドのポーランド食材店=英ウェスト・ヨークシャー地方

ここは、産業革命ではやはり重要な役割を果たし、繊維産業で栄えましたが、戦後衰退しました。イギリスでも有名な労働党の街で、地方議員の多くも労働党に所属しています。一方、国民投票で離脱に入れた人の割合は66・4%に達しました。これは、ウェスト・ヨークシャー地方でもかなり高い方になります。彼らは「左派だが離脱」という人々です。

ウェークフィールド中心部。労働党支持の高い街として知られる=英ウェスト・ヨークシャー地方

国民投票では、イングランド・ナショナリズムの傾向が強い保守党支持層の投票だけだと、離脱が多数にはならなかっただろう、といわれています。つまり、離脱支持に回った一部の労働党支持層が、結果的に決定的な意味を持ちました。

■置き去りにされない人が投票?

EU離脱がイギリスにとって経済的な利益にならないのは、専門家のほぼ一致した見解です。なのに、多くの人々があえて離脱を選びました。

ファヴェルさんはこう推測します。

「ナショナリズムにとらわれて離脱に走ったのはむしろ、事務職などのホワイトカラーやちょっとした富裕層といった、見捨てられてもいない人々ではないでしょうか」

この傾向を裏付ける別の調査もあります。オックスフォード大学のベンジャミン・ヘニング名誉研究員とダニー・ドーリング教授の研究によると、離脱に投票した人の59%は中間層に属していたといいます。つまり、労働者以上にホワイトカラーらが離脱を支持する面もあったのです。彼らは、必ずしも社会から置き去りにされた「Left Behind」というわけではありません。

「置き去りにされた人々が反発して離脱に走った」というストーリーは成立しないのでしょうか。ただ、これらの主張を、労働者層の責任逃れと受け止める人々もいます。実態を解明するために、ファヴェルさんたちの研究チームは近く、大規模な調査に取りかかるそうです。