事実上の分断国家キプロスでは、ギリシャ系住民主体の「キプロス共和国」(キプロス)が南側を統治するのに対し、トルコ系住民主体の「北キプロス・トルコ共和国」(北キプロス)は北側を実効支配する。北と南が近年交流を深め、住民レベルで対立がほとんど見られないのは、前編に紹介した通りである。
「キプロスは、世界で最も安全な民族紛争です。昔の暴力によるトラウマを抱えた住民たちは、極めて慎重に行動しています。北の人が南に行っても、南の人が北に行っても、何の危険もありません」
キプロスの首都にあるニコシア大学のフーベルト・ファウストマン教授(56)はこう語る。
「問題は政治にあります。日々の生活の中だと何の問題もないのに、国家を運営する段階になると政治家がかかわり、戦いが始まるのです」
政治と言っても、非承認国家である北キプロスの実権は限られている。南北関係の鍵を握るのは、北キプロスを支えるトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領にほかならない。
■トルコの国内事情がキプロスにも影響
キプロスは小国ながら、ヨーロッパや中東の各国にとって無視できない存在だ。トルコ、エジプト、レバノン、イスラエル、ギリシャといった地域大国や紛争を抱える国の真ん中に位置する戦略的な重要性に加え、治安が良く、生活水準が高く、欧米やロシアにとっては中東進出の前線拠点として期待できるからである。特に、地域大国として近年急速に発言権を増しているトルコにとっては、自国の影響力を拡大するうえで欠かせない存在と受け止められている。
筆者がキプロスに滞在中の7月19日、エルドアン大統領が北キプロスを訪問した。ちょうどこの日は、トルコのキプロス侵攻から47年目にあたる。
大統領は、訪問した北キプロス議会で演説した。
「この島には、二つの異なる国家と二つの異なる民族が存在する。その事実を、国際社会も早晩受け入れるだろう」
これは、キプロス分断の固定化を意味している。発言に対し、欧米からは一斉に非難の声が上がったが、大統領が意に介する様子はない。
南北間ではこれまで、国連を仲介役として再統合の交渉が繰り返されてきた。2004年には当時のアナン事務総長による大規模な仲介が試みられた。連邦制の導入に関する住民投票が実施され、北側では承認されたが、南側で否決され失敗した。2017年以降の中断を経て、今年2021年に交渉が再開されたものの、合意の見通しは全く立っていない。
エルドアン氏は2003年にトルコの首相に就任した当初、周辺諸国との関係改善に極めて積極的で、キプロス問題の解決にも前向きだった。しかし、2014年に新制度の大統領に転じる以前から急速に強権性を強め、外交政策もナショナリズム的な方向にかじを切った。キプロスに対しても、容赦ない対応を取るに至っている。
この強硬姿勢の背後に、ファウストマン教授は強さよりも弱さを見る。経済政策の失敗により、エルドアン政権は近年、国内で支持を大幅に落としている。国内の支持をつなぎとめるために、大統領は外に向けて強硬な姿勢を取らざるを得ない、というのである。
「エルドアン大統領がキプロス問題の解決に積極的だったのは、彼が強い権力基盤を持っていたころのことです。でも、今の彼は、ナショナリスト側からの批判を浴びかねないキプロス問題には取り組めません。政治的に生き延びるのが精いっぱいの彼は、国民のナショナリズムに訴えかけることなくして、選挙に勝てないのです。もし権力を失うと、彼はその後の人生を刑務所か亡命先で過ごさなければならないのですから」
キプロス問題は、トルコの国益よりもむしろ、エルドアン氏個人の地位や権力と結びついている、というのである。
■首都の真ん中に境界線
キプロスは南北に分断されているが、キプロスの首都ニコシア(レフコシア)も街の真ん中が南北に分かれている。街の真ん中を境界が走っているのである。
境界の南側は、城壁に囲まれた旧市街を中心に、近代的な街が広がっている。その北の端に検問所が設けられ、北キプロスとの行き来が可能である。英国在住の筆者はコロナ対策のため越境できなかったが、境界の北側にも同様にニコシアの街が広がり、北キプロスの首都となっている。
南側にあるニコシア大学は同国最大規模の私立大学で、南北境界の周囲に設けられた緩衝地帯沿いの住宅街に首都キャンパスがある。境界を毎日越えて北キプロスから通ってくる学生も少なくないという。ドイツ出身のファウストマン教授は、1995年からキプロスに暮らし、キプロス史とキプロス政治を研究している。
教授自身、南北再統合に希望を抱いたころもあったという。
キプロス周辺をはじめとする東地中海一帯では2000年代からガス田が次々と見つかり、天然ガス開発への期待がかかった。ファイストマン教授は、この資源を共同開発することによって、地域の信頼醸成が進むのでは、と期待した。2015年に英米で出版された論集『キプロス解決に向けて』(ジェームス・カーリンゼイ編、未邦訳)に、教授は「炭化水素が合意を導きうる」と題する論文を寄せ、「国内環境、地域環境を見ると、過度の期待を抱くには懸念が残る」と留保しながらも、「キプロス問題の解決に向けて、用心深くも楽観的な見方を示してくれる」とつづった。
今、教授は振り返る。
「結果は、そうはなりませんでした。ガス田は逆に対立の火だねとなり、状況を悪化させたのです」
ガス田に関して、キプロスはエジプト、ギリシャ、イタリア、パレスチナ、イスラエルなどとともに「東地中海ガスフォーラム」(EMGF)を結成し、共同開発に乗り出した。この枠組みは、イスラエルとアラブ諸国との和解を導くのではと政治的にも期待されたが、一方でトルコは招かれなかった。
「ゲームから排除される仕打ちを、地域大国としてのトルコは容認できませんでした。それが、ヴァローシャ問題での強硬姿勢につながったのです」
もっとも、トルコの態度の背景には、ガス田開発問題のこじれ以外の要素もある。領土問題に対する地域大国の攻撃的な姿勢は、トルコに限らず世界的なトレンドとなっているからである。
■攻撃的な大国の隣で
大小強弱の異なる国家がひしめく世界で、曲がりなりにも秩序が保たれてきたのは、主権の尊重や国際法順守など、物事の解決を力だけに頼らないシステムが機能していたからである。そうした歯止めが、近年明らかに利かなくなっている。ルールでなく、力に頼ろうとする意識が、特に中国やロシアなどの地域大国に目立つ。
典型的な例は、2014年にロシアがウクライナのクリミア半島を占領し、併合を宣言した例だろう。中国も、南シナ海などでの支配を既成事実化するとともに、小国に対して高飛車な態度を取る「戦狼外交」で力を誇示しようとする。背景には、自国の影響力を拡大しようとする野心とともに、強硬姿勢を取ることで国内の支持を引き留めようとする権力者の思惑がうかがえる。
これに対する国際社会の対応は、煮え切らない。
「中国やロシアが受けた罰は、せいぜい経済制裁か口頭による非難程度です。彼らは全然こたえていないし、領土を諦めようともしない。そのような様子を、エルドアンはじっと見ていますよ。自らが多少攻撃的に振る舞っても、大した罰は受けないと、気付いているのです。こうしてトルコは、各地でゲームを仕掛けている。キプロスでも、シリアやリビアでも、アルメニアとアゼルバイジャンとの紛争でも」
教授の目には、現在のキプロスが日本の姿と重なるという。
「あなたの国の隣には、中国という攻撃的な大国がありますから。その存在が大きすぎるために、日本は中国との関係を維持せざるを得ない。強すぎて力が有り余るトルコの間近に位置するキプロスも同じです」
国際社会のルールが堅固だと、その枠組みの中で大国と小国は平等に付き合える。ルールが崩れ、力がむき出しになると、それを振り回す新興大国の前で小国の立場は弱い。
米国や欧州が築いてきたルールにほころびが見え、その間隙(かんげき)を突いて中ロやトルコが勝手に振る舞う時代である。軍事的に劣勢な国々は、秩序の回復を目指して連携するしかない。ただ、今後再びルールに基づいた国際秩序が回復できるだろうか、世界はむしろ、群雄割拠の混沌(こんとん)とした時代に入りつつあるのではないか。
それを判断するには、もう少し世界のトレンドを見極める必要があるだろう。
■三つのシナリオ
分断国家キプロスは今後どこに向かうだろか。
キプロスが島内の国家統合を目指しているのに対し、北キプロスは南北が対等な形で結びつく国家連合を求めている。国際社会の多くが南北再統合を願うのに対し、トルコは北キプロスに独立国家としての地位を与えるよう主張する。議論は平行線で、妥協が成立しそうにない。
ファウストマン教授は悲観的だった。
「いずれにせよ、状況はこれから、今より良くはならないでしょう。現実的な希望が存在しない中で、3者(キプロス、北キプロス、トルコ)はやって行かざるを得ないのです」
今後、この情勢はどう展開するか。教授は三つのシナリオを挙げた。
① 南北再統合が実現
そのきっかけとして期待したのは、先に紹介したガス田開発を巡るキプロスとトルコとの協力だった。しかし、それは逆効果となり、かえって溝を広げる形になった。
「実現したら最も明るく平和な将来を築けるのですが、希望はほとんどついえたと考えていいでしょう」
② キプロスと北キプロスの2国家が並立
再統合が難しくなった今、南北双方はこの解決法を真剣に検討し始めており、これが最もあり得るシナリオになったと、教授は説明する。
③ このまま事態が変わらず、「世界で最も安全な紛争」の状態のままに時が過ぎる現状維持シナリオ
一見、この可能性が高そうに思える。何せ、キプロスはトルコ軍の侵攻後、47年間にわたってその状態が続いてきたのである。もう47年続いてもおかしくないではないか。
しかし、教授はこのシナリオが最悪だと断言する。
「今の状態を続けると、問題解決につながらないばかりか、北キプロスがいつかトルコの1地方に成り下がりかねません」
■北キプロスがトルコにのみ込まれる日
北キプロスに人口の統計はなく、30万人程度という数字が独り歩きしているが、実際にはせいぜい22万人前後だろうと、教授は推測する。
一方、北キプロスには多数のトルコ人移民が大陸から島へと渡ってきている。2021年春から夏にかけての2カ月間で、その数は2500人に達した。つまり、この期間だけで人口が1%以上増えたことになる。現在では人口の3分の1前後をトルコ移民が占めると見込まれる。
北キプロスのトルコに対する目は、複雑だという。必ずしも「同じトルコ系の同胞だ」と歓迎するばかりではない。北キプロス人は現在、事実上の独立国家を持ちながら、欧州連合(EU)加盟国キプロスの市民権も持ち、EU市民としての権利を享受している。立場もアイデンティティーも、トルコ人とは微妙に異なる。
一方で、北キプロスが移民を規制するのも難しい。北キプロスはトルコ本土より賃金や生活水準が高く、トルコ人にとっては仕事を持つのに魅力的な場所であり、また北キプロス側も安い労働力としてトルコ人を必要としているからだ。しかも、北キプロスは非承認国家であるがゆえに、労働者の人権に関する国際基準を守る必要もない。北キプロスで、肉体労働は主にトルコ人移民が担い、住民の多くはホワイトカラーの職を持つに至っている。
このペースで移民が進むと、20年後には北キプロスで移民が過半数を占め、北キプロス人は少数派に転落する見通しだという。
「その結果、北キプロスはトルコ人が支配するようになります。『北キプロスのトルコ化』です。経済的、社会的、人口動態的に、そしてある程度政治的に、北キプロスはすでにトルコに掌握されていますが、北キプロス政府は自らの領土に対する主権をますます失い、脇に追いやられるでしょう」
その次に何が起きるか。トルコによる北キプロスの併合ではないか。
トルコ人が多数を占めた北キプロスで、トルコとの併合の是非を問う住民投票が実施される恐れは否定できないと、ファウストマン教授は考える。傀儡(かいらい)政権を樹立し、投票を実施させ、その結果を操作する。ウクライナのクリミア半島を標的にロシアが仕掛けた策謀と同じである。強引な併合は国際社会やEUの反発を招くだろうが、それがどこまで抑止力となるか。エルドアン大統領がロシアや中国の動向をじっと見ているというのは、そういう意味であろう。
「トルコの北キプロス併合」が起きたとしても、軍事的に劣勢なキプロス側は武力で解決する選択肢を取り得ない。口頭で非難するしかないだろう。それは、ロシアのクリミア半島占領と同様に、戦闘のない、死者もけが人も出ない、ある意味で平和的な領土変更となりかねない。
それは、国際秩序にも致命的なダメージを与えるだろう。その先に待っているのは、力ばかりがモノを言うルールなき世界なのである。
日本も、キプロスを含む欧州各国も、国際ルールの中で自らの繁栄を築いてきた。キプロスで懸念されるのは、その前提の揺らぎなのである。私たちも、無関心ではあり得ない。