■閉ざされた「地中海の宝石」
島は、南約3分の2が「キプロス共和国」(キプロス)によって統治され、北約3分の1は「北キプロス・トルコ共和国」(北キプロス)に実効支配されている。島民約120万人のうち、約8割を占めるギリシャ系のほとんどは南側に、約2割のトルコ系のほとんどは北側に暮らす。
オスマン帝国領から英領を経たキプロスは、1960年に「キプロス共和国」として独立した。ギリシャ系とトルコ系は当時、国内全土の街や村で混在していた。しかし、ギリシャ本国との合併を求めるギリシャ系強硬派が74年にクーデターを起こし、混乱が拡大。逆に、圧倒的な装備と人員を誇るトルコ軍が「トルコ系住民保護」を掲げて侵攻し、島の北部を占領した。以後、住民間の衝突や虐殺が相次いだ結果、ギリシャ系は南部に、トルコ系は北部に集まる分断が急速に進んだ。
北部のトルコ系住民は83年、トルコ軍の支援を背景に「北キプロス」の独立を宣言した。以後、分断が定着したまま、現在に至っている。当初激しく対立した南北間は、その後融和が進み、死者を伴う衝突は1996年を最後に起きていない。2003年からは境界の行き来ができるようになり、現在では南北境界をまたいでの通勤や通学も珍しくない。
緊張が緩む中で、分断の象徴であり続けているのが、南仏ニースにも比されて「地中海の宝石」と呼ばれた東海岸の保養地ヴァローシャである。
キプロスは、多数のモザイク画が残る世界遺産のファポス考古学公園、ヴィーナス誕生の地と言い伝えられるペトラ・トゥ・ロミウ海岸など、多数の観光地で知られる。中でも、一時「島を訪れる観光客の半数以上がこの街を目指す」と言われた世界最高級のリゾート都市が、ヴァローシャだった。一直線の砂浜が広がるこの街には、1960年代から70年代初頭にかけて高層ホテルが次々と築かれ、多くの著名人を魅了した。ブリジット・バルドー、エリザベス・テーラー、リチャード・バートンといった映画スターが、こぞってここでバカンスを過ごした。
しかし、その繁栄は1974年、突如幕を閉じる。島に侵攻したトルコ軍がこの浜辺を占領し、北キプロス側に組み入れてしまったからだった。約4万人の住民の大部分を占めるギリシャ系住民は逃げだし、街は無人となった。
以後、半世紀近くにわたってヴァローシャはトルコ軍に封鎖されたままである。林立する高層ホテル群は、経営者と客を失ってゴーストタウンとなった。
■海から接近、でも「これ以上近づけない」
今年7月のキプロス入りにあたり、筆者は当初、キプロス側から境界を越えて北キプロスに入り、封鎖されたヴァローシャに迫ろうと考えていた。ところが、渡航直前になって、北キプロス政府が新型コロナ対策を理由に英国からの入国を事実上禁止。英国在住の筆者は北キプロス側に入れなくなった。とりあえず、できるだけ近づいてみようと考えた。
ヴァローシャは南北境界のすぐ北側に位置している。境界の南側にある街デリネイアの文化センターからヴァローシャが望めると聞いた。
文化センターは、デリネイアの街はずれにあった。その屋上に上がると、南北境界はすぐ目の前である。北キプロス側の検問所が、視野に入る。北キプロスの旗とともにトルコの国旗がはためいている。
検問所の背後に、海岸に沿って鉄筋コンクリートの高層ビルが並ぶ。ヴァローシャだった。500ミリの望遠レンズを通して、建物の内部をのぞいてみる。ゴーストタウンだから当然だが、どの建物にも人の気配はうかがえない。
海からのアプローチも、試みてみた。
74年にヴァローシャが閉鎖された後、キプロスを訪れるリゾート客の大半は、その南側にあたるキプロス共和国内の浜辺を目指すようになった。その中心がアヤナパの街。高級ホテルやレストランが並び、コロナ禍にもかかわらず大にぎわいである。地理的な近さもあって、ロシアをはじめとする旧ソ連圏や旧東欧諸国からの訪問者が多く、街ではスラブ系の言語を頻繁に耳にする。ここから遊覧船が出ており、ヴァローシャ沖合を航行して街を眺められる、との触れ込みだった。
その船に乗った。近くの岬で名所巡りをした後、船はヴァローシャ沖に向かう。やがて、水平線のかすみの向こうに高層ビル群が見えてきた。
ただ、南側の船なので、北側の海域には入れない。船長がマイクで説明する。
「トルコ軍の監視が厳しく、これ以上は近づけません」
船はUターンし、街は水平線の向こうに消えた。
■住民の思い、一つではない複雑な事情
ヴァローシャの北隣にはファマグスタという人口5万人ほどの街があり、北キプロス東部の経済の中心地となっている。ここで南北融和に取り組むトルコ系の市民運動「ファマグスタ・イニシアチブ」は、欧州議会が設けた欧州市民賞を2018年に受賞するなど、活発な活動が高い評価を受けている。その広報担当を務めるオカン・ダウルさん(56)に、筆者は当初、この街を訪ねてインタビューする手はずを整えていた。コロナ禍による規制強化で北キプロスに入れなくなり、インタビューも中止になると覚悟したが、ダウルさんは南側まで出てきてくれるという。英国在住者は境界を越えられないが、島の住人は自由に通過できるからである。デリネイアの検問所近くで待ち合わせをして、市内のカフェに入った。
「ファマグスタ・イニシアチブ」は、2010年の発足時から三つの活動目標を掲げている。
①ヴァローシャ開放
後述の通り、ゴーストタウンとなったヴァローシャを開放し、国際リゾート都市としての復活を目指す。
②ファマグスタ港の開港
ファマグスタは水深のある港を持ち、中世から近世にかけてジェノヴァ共和国やヴェネツィア共和国のもとで海上輸送の拠点として栄えた。北キプロスが非承認国家であることから、港も活用されていないが、これを再活性化させることで地域経済の発展を見込む。
③ファマグスタの世界遺産登録
城壁都市のファマグスタは観光資源に恵まれ、南北再統一後は多くの旅行者を集めると期待される。ゴシック大聖堂からモスクに転換されたラーラ・ムスタファ・パシャ・モスク、シェークスピアの戯曲『オセロ』の舞台といわれるオセロ城塞(じょうさい)などで知られる。郊外には、古代遺跡サラミスがある。
運動が最も力を入れるのは、ヴァローシャの開放である。
「ギリシャ系住民や国際社会と連携してトルコ軍を撤退させ、国連の監視下で元の住民を帰還させて、キプロス全体の和平の突破口にしたい」とダウルさんは言う。
問題は、単純ではない。元住民それぞれに事情があり、みんなが帰還を望んでいるわけではない。一つの声としてその主張を打ち出しにくいのだという。
「ヴァローシャに戻りたい人々はもちろん、私たちが支援する。ただ、年老いた元住民の中には、家を手放して補償金をもらう方に関心を抱く人もいる。かつてのホテル経営者の2世で、ヴァローシャでホテルを再開したい人の中には、その地がキプロス管理であろうがトルコ支配下であろうが構わないという人もいるし、トルコの管理下では絶対に嫌だという人もいる。一致した意見がないのです」
一方で、北キプロス側の人々の考えも一様ではないという。ダウルさんのようにヴァローシャの返還を当然と考える人もいれば、「ヴァローシャは我々が血を流して勝ち取った」として領有権を主張する人もいる。「もともとオスマン帝国の領土だからトルコのもの」との声もあるという。
にもかかわらず、ダウルさんは将来に希望を抱いているようだった。それは、南北の交流が年々拡大しているからである。
■仕事は南で、買い物は北で
取材当時はコロナのために往来が減っていたものの、コロナ前は南北を結ぶデリネイアの検問所を1日数千人が行き来していた。人の流れを後押ししているのが、実は南北格差。南側の方が物価も生活水準も高く、北側の人は南側で職を持ちたがる。運良く仕事が見つかると、境界を越えて毎日通勤する。事務職から建設作業員まで、北から南に働きに来る人はデリネイア周辺で2000人ほどだという。
逆に、南側の人は物価の安い北側に買い物に行く。車の給油のためにわざわざ北側を訪れる人も少なくないという。
「南では1リットル1・2ユーロのガソリンが、北では0・7ユーロ分。タイヤを交換するにも、散髪するにも、食事をするにも、北側の方がずっと安い。食費の格差は2~3倍。南のコーヒー代で北では昼食が食べられますよ」
ダウルさん自身、南北を毎日のように行き来する。本業は、ファマグスタにあるキプロス中央病院勤務の内科医。ファマグスタに生まれ、イスタンブール大学医学部を卒業した後、島に戻って医療活動に従事してきた。境界を越えるのは、南側に暮らすごく少数のトルコ系住民への診療のためである。
南北往来の拡大は、互いの住民が接触する機会を増やしてきた。近年では、双方で結婚に至るケースも見られるという。
「デリネイアの市長も交流には積極的で、様々な活動をともにしています。ここデリネイアに限らず、キプロス各地にある検問所でも同様の交流が広がっています。住民同士の間には、もはや何の対立もありません」
■3種の旅券を持つ人々
キプロスの分断について、筆者は現地を訪れる前、南と北が境界を挟んで対立し合う典型的な紛争イメージを抱いていた。実際には、少なくとも住民レベルでそのような対立は薄い。むしろ、北と南という区別自体が、実はあいまいなのだ。
ダウルさんはトルコ系で、北キプロスに暮らす北キプロス市民である。しかし、実際には南側のキプロスの身分証明書と旅券も持ち、EU市民としても行動できる。ダウルさんに限らない。北キプロスの市民の多くが、同時にキプロスの市民でもあるという。
それは、次のような事情からだという。EUは北キプロスを承認せず、北キプロス政府の存在も認めていない。従って、2004年にキプロスがEUに加盟した際も、キプロスの統治が及んでいるかいないかにかかわらず、島全体がキプロスと位置づけた。だから、北の住民もキプロス国民であり、EU市民権を与えられるのである。
南北境界は通行可能だから、北側の住民は南側に出て、キプロスの首都ニコシアにある当局に身分証明書や旅券を申請する。当局は、昔からの島の住民の子孫かどうか、リストをもとに確認する。北の住民はこうして、キプロスの旅券を手にし、EU内を自由に移動する。
紛争当事国の片方の国民が、敵であるもう片方の国民でもある。分断国家の奇妙な現実だ。
北の住民はまた、地元北キプロス政府発行の身分証明書や旅券も持つ。ただ、北キプロスはトルコにしか承認されていないから、旅券もトルコでしか通用しない。さらに、多くの人はトルコ本国の旅券も入手している。つまり、北キプロスでは、旅券を3種類持つ「三重国籍」状態の人が少なくない。
ただ、「北の住民」の中でキプロス国民としての地位を享受できるのは、1960年のキプロス独立当時、島に暮らしていた人々とその子孫に限られる。北キプロスには、特に1974年のトルコ占領後、多数のトルコ人が本土から移り住んだ。こうした人々に、キプロス国民としての地位は与えられないし、境界を越えて南側に来ることも認められない。移民であれ旅行者であれ、トルコから北キプロスに入る行為を、キプロス政府は違法入国と見なしている。
問題になるのは、元々の北キプロス住民とトルコ移民との間に生まれた人々である。彼らは、キプロス国民の地位を認められるのか。
「状況次第ですね。認められたり、認められなかったり」
その時の政権の判断次第で、近年は認められなくなっているという。
トルコから北キプロスへの移民は増え続けている。トルコに比べ北キプロスは給与が高く、出稼ぎ労働にちょうどいいからである。生活水準は、高い方から「キプロス」「北キプロス」「トルコ」の順であり、職を求める人の動きはその逆をたどる。
トルコからの移民は、実は北キプロスにとっても悩みの種なのだという。その実態は、後半で検証したい。
■記事中、キプロスの古代遺跡サラミスについて「紀元前5世紀にデロス同盟がアケメネス朝ペルシャを破った『サラミスの海戦』で知られる」と記載していましたが、サラミスの海戦で知られるサラミスはギリシャの地名でした。当該の記述を削除しました。今後、チェックをさらに強化していきます。(2月25日追記)