ネロは紀元54年、伯父であり養父でもあった第4代皇帝クラウディウスの死去を受けて、16歳で即位した。その背後には、強い政治的野心を抱く母アグリッピナの策謀があったという。哲学者セネカの指導を受けて当初は政治にいそしんだものの、何かと政治に口を出す母を殺害。セネカや妻も死に追いやった。64年に起きたローマ大火の際には、キリスト教徒に責任を負わせて弾圧した。
この間、次第に芸術にのめり込み、ギリシャ文化を熱愛。自らコンサートを開いたり、劇場で舞台に立ったり、さらには古代オリンピックに出場して優勝したりした。こうした姿のネロを、元老院は「国家の敵」と名指しする。追い詰められたネロは、30歳で自害した。
「暴君」としての人物像は、「年代記」「ゲルマニア」などの著作で知られるタキトゥスや、スエトニウス、カッシウス・ディオといった著名な歴史家の記述に多くを負っている。その後、ポーランドのノーベル文学賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチの小説「クォ・ヴァディス」がネロの悪行やキリスト教徒迫害の様子を描き、さらにこれが映画化され、悪役イメージが定着した。
このような先入観に挑戦し、ネロの業績の再評価を試みたのが、ロンドンの大英博物館で10月24日まで開かれている特別展「ネロ 虚像に覆われた男」だ。
英国は、ネロとの深い関係がある。紀元60年ごろ、この地方の王族の女性ブーディカがローマ帝国に対して反乱を起こし、ネロによって最終的に鎮圧されたからだ。その後、ブーディカは英国で英雄と見なされ、英国の歴史教科書にも登場するという。
「そのような関係があったにもかかわらず、英国内ではこれまで、ネロをテーマにした展示が開かれた形跡はありません。今回が初めてです」と、特別展を企画した同館のトルステン・オッパー上席学芸員(52)は説明する。特別展は2年あまり前から企画されていたが、新型コロナウイルスの感染拡大で準備が中断し、今年5月に開幕にこぎ着けた。
■ 落書きが語る人物像
ネロの治世下、ローマ市内をはじめ帝国内にあふれていたその胸像は、死後削られ、後の皇帝の胸像につくりかえられた。現代まで残るネロの姿のものは少ないが、特別展ではこれらを丹念に収集。家族や歴代皇帝の胸像や、関係者の遺物、その時代の社会を物語る工芸品や資料なども、広範囲に集めた。イタリアの各博物館所蔵品や遺跡からの出土品が、その多くを占める。
展示コーナーの中ほど、母アグリッピナや3人の妻ら家族の胸像が並ぶ華やかな場所の隅に、あまり目立たない形で立てかけられた一つの展示品が、ネロの復権を象徴している。イタリア南部の遺跡ポンペイで出土した漆喰(しっくい)の壁だ。有力者宅の台所の一部だという。そこに、無造作に落書きが刻まれている。
〽皇帝が女神の神殿に足を運び
果てしなき黄金の輝きを発した
64年にポンペイを訪れたネロをたたえる詩編だという。ネロの2人目の妻ポッパイア・アビナはポンペイの出身で、ネロもしばしばこの街を訪れた。ネロの死から11年後の79年、後方にそびえる火山ヴェスヴィオ山の噴火によってポンペイは火山灰の下に埋もれたが、そのお陰で普段なら消えてしまうはずの落書きが現在に伝えられた。
ポンペイの他の落書きにも、ネロの名は多いという。また、ローマでは、いたずらで描かれたネロの似顔絵も残されている。
実は、こうした落書きこそが、ネロに対する庶民の意識を示す。タキトゥスら歴史家が記した公式の記録とは大きく異なる人物像だ。
「エリートによってつづられた公式記録がネロを悪者扱いしているのに対し、落書きは彼の大衆人気の高さを物語っています」と、オッパー上席学芸員は語る。
■ ネロが汚名を着せられたわけ
オッパー氏によると、皇帝としてのネロの業績は、税制・通貨改革や古代コンクリートによる街づくり、東方への領土拡大など、実際には多岐にわたっている。ネロの死から28年後、ローマではネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウスと続く「五賢帝」の黄金時代が始まるが、その際に称賛された政策の多くは、ネロの治世に基盤が用意されたという。
「もし事情が少し異なっていたら、ネロは偉大な改革者として語り継がれたかもしれません」
なのに、どうしてネロは「暴君」の汚名を着せられたのか。
一つは、タキトゥスらローマ帝国の歴史をつづった人物が、元老院と対立したネロに厳しい目を向けていたこと。タキトゥスは、自身も元老院議員を務め、元老院寄りの視点を持つといわれる。加えて、中世になってキリスト教が広がる中で、ネロはその弾圧者と位置づけられた。実際には、キリスト教徒は当時ローマにごく少人数しかおらず、ユダヤ教徒の一部だと見なされていたなど、状況がその後とは大きく異なっていたというが。
「同じように暴君として知られた第3代皇帝カリグラは、在任中に殺害されました。しかし、彼はキリスト教との接点がなかったため、ネロのようには憎まれなかったのです」
オッパー上席学芸員は、ネロを歴史の「被害者」だと考える。
「彼は皇帝として若すぎました。家族の中にも支援者を持ち得なかった。当時起きた様々な問題は、ローマの社会が内部に抱えた緊張に起因し、ネロ個人の態度や政策とは関係ありません。もし彼が実際より50年遅く皇帝になっていたら、全く違う評価を受けたでしょう」
ネロには、大火のローマを見下ろしながら竪琴を奏でつつ歌を歌っていたなど、皇帝にあるまじき逸話が残る。しかし、その多くは創作の可能性が高いという。出火の際にネロはローマにいなかったにもかかわらず、「火を付けたのはネロ自身」との話も信じられた。
「現代のフェイクニュースと同じです。極めて一方的で、しかも政治的な目的に基づいていた」とオッパー氏はいう。ネロのイメージは、このようなつくり話が積み重なり、事実に取って代わったのだった。
これは、歴史を学ぶ者に多くを考えさせる。ネロ悪人像の端緒をつくったタキトゥスは、世界中の生徒学生がその名を学ぶ歴史家中の歴史家。筆者も高校生時代に世界史の授業で習い、著書「ゲルマニア」を手にしてわかったような気分になったものだ。そのような高名な人物でさえ、歴史をゆがめる作業に、結果的に加担した。物事を客観的に評価し、記述することの難しさを、改めて思う。
■ 「黄金宮殿」の再公開
もう一つ訪ねたのは、ローマ中心部の巨大遺跡コロッセオに隣接する丘の上にネロが建設した「黄金宮殿」(ドムス・アウレア)だ。これまでも一部が公開されていたが、長期間にわたって閉鎖して発掘と修復を重ね、範囲を大幅に拡大して今年6月、再公開。同時に、特別展「ラファエロと黄金宮殿 グロテスク様式の創案」が内部で開幕した。筆者は、再公開直前の内覧会に参加し、内部を見学した。
「黄金宮殿」は、64年のローマ大火を受けてつくられた巨大施設。ネロの死後は地中に埋もれ、後世その上に「トラヤヌス帝の浴場」などがつくられたこともあり、いったん忘れ去られた。ルネサンス期に一部が発掘され、その壁に描かれた唐草模様風の曲線装飾「グロテスク様式」は、当時の画家ラファエロに大きな影響を与えたという。
入ってみた内部は、高い天井の部屋が連なり、複雑に入り組んでいた。誘導案内がまだ十分整備されていないせいか、途中で迷いそうになる。壁の一部には曲線の文様が残る。地中だけに薄暗いが、かつては「グロテスク様式」を際立たせるよう採光が工夫され、光に満ちた空間だったという。
「当時の画期的な技術に基づいた建物です。ネロは、宮殿を築いた建築家や都市計画家に、大火後のローマ再建も担わせ、防災対策を施した街を築きました」
宮殿の修復を指揮したコロッセオ考古学公園のアルフォンシーナ・ルッソ所長(61)は、こう語った。
ルッソ所長もオッパー氏と同様に、ネロの業績を高く評価していた。
――ネロはどんな皇帝だったのですか。
「考古学的視点から探る限り、極めて有能な君主だったと考えられます。彼は、セヴェルスやケレルといった有能な建築家を登用して宮殿を建設するとともに、大火後のローマの街の復興にも努めました。災害に備えて道路を広く取り、柱付きの回廊を設けて家同士の間隔を保つという、合理的な都市計画でした」
――なのに、なぜ「暴君」と呼ばれるようになったのでしょうか。
「彼は、庶民すなわち下層中産階級を優遇する政策を展開し、改革を実施して、民衆に広く愛されました。彼らからの支持に依拠した政治を進めたのですが、一方で貴族階級や元老院とは対立したのです。だから、死後否定的に扱われたのです」
――ただ、母を殺害したり妻を死なせたりと、粗暴な印象は拭えません。
「この時代は、殺人も、近親相姦(そうかん)も、権力闘争の一環でした。同じようなことは中世にもその後の世界でも起きたのです」
同展は2022年1月7日まで開かれる。
■ グローバル帝国としてのローマ
「黄金宮殿」は、その隣の円形闘技場コロッセオやフォロ・ロマーノ、パラティーノの丘の遺跡群とともに、ルッソ所長が率いるコロッセオ考古学公園の管理下にある。この中で最も有名なのがコロッセオだ。もとは「黄金宮殿」の庭の池だった場所に建てられたが、今や母屋の宮殿をしのいで、世界的な観光地となった。
コロッセオの内部では、6月まで「ポンペイ紀元79年 ローマの歴史」が開かれており、閉幕間際に訪れることができた。「黄金宮殿」の公開と同様にルッソ所長が統括した企画。ネロと直接関係する展示物は少ないが、ネロと同時代を生きたポンペイの文化を紹介している。
これを見て驚いたのは、当時の帝国の活動範囲の広さだ。地中海世界はもとより、欧州大陸各地から中東にも及ぶ。展示品には、インドからもたらされた胸像もある。当時のローマ帝国がいかに多様な地域とつながりを持っていたかがうかがえる。
ローマは、グローバル世界の様々な文化と技術を吸収したからこそ、今日にまで伝わる伝統を残しえたのだろう。その帝国を若くして率いたネロとはいかなる人物だったのか。しばし想像した。