「覧古考新」の名文集
台湾文学の翻訳家・天野健太郎さんが昨年11月、亡くなった。遺作となった訳書『自転車泥棒』(文芸春秋)の著者・呉明益氏を台湾から迎え、イベントに登壇する予定を数日後に控えての、突然の訃報だった。
天野さんと初めて会ったのは2012年、彼の最初の翻訳刊行直後のこと。以来、同い年で、相談もできれば愚痴も言えるかけがえのない貴重な同志だった。早すぎる死を悼む読者の「もっと天野さんの翻訳で読みたかった」という声がいたるところにあふれている。愚直な情熱で突き進む翻訳は、決して報われない仕事ではない、と天野さんの仕事が教えてくれる。
天野さんの翻訳デビュー作は、龍應台によるノンフィクション文学の傑作、『台湾海峡一九四九』(白水社)。現在に至る複雑な中台関係の根源ともいえる、1949年を跨ぐ歴史に翻弄された人々の思いに迫る作品だ。中国大陸では発禁だが、海賊版や電子版などで広く読まれている。中国大陸で出版を認められた著書もほぼすべてベストセラー、ロングセラーという龍應台は海峡を跨いで影響力を持つ。
その龍應台ら26人の台湾の作家らによる『山川歳月長』は、この100年の「中国語」のエッセイ名文集。たとえば1950年に3歳で大陸から台湾に移り住んだ蒋勲の「無関歳月」は、両親が守り続けた故郷と新天地双方の節句、伝統に満ちた家庭風景に思いを馳せ、無常の歳月の中で命を尊び、感謝し、次世代への希望を託す。龍應台「百年思索」は、梁啓超ら100年以上前の中国の知識人たちが西洋から学ぶことにいかに思索を重ねてきたかを振り返り、再評価することで、21世紀の自分たちが抱える歴史のパラドックスを見つめ直す。
昨年10月に発売され、11月には4刷目と売れている。自然と歳月を静かに愛おしげに綴る作家それぞれの個性、作風が体現された編集、丁寧な作家の紹介文が光る。名文がまとめて読めるアンソロジーで、未知の台湾作家に出会う入門書としても悪くない。
既刊書籍からの抜粋、収録だが、初出年月が記されていない。不親切とも感じたが、あえて入れなかったのだろう。「覧古考新」の一環として静かに読まれる文章は、歳月を経ても色褪せないから。
中国人に愛される芥川
『地獄変』『羅生門』の2冊がランクインする芥川龍之介。「蜘蛛の糸」「鼻」「藪の中」など代表作がこの2冊で一通り読める。太宰治『人間失格』が2017年の年間ベストセラーになったのと同様、これも文豪たちがキャラクターとして活躍する、朝霧カフカ原作の人気アニメ『文豪ストレイドッグス』の影響か。芥川や太宰ら近代文学作家を、中国の若者たちは「鬼才」と呼び、「老若男女に理解できる不変の真理がある」「読み易いのに読後に考えさせられる」と敬意を示す。古典文学からキリシタンまで多彩なモチーフから人間の本質に迫る作品に感銘を受け、自死を選んだその人生にも関心を示す。著作権フリーとはいえ、十数種もの翻訳が流通するのはもはや単純なブームを超えている。
「羅生門」「藪の中」を改編した黒澤明の映画「羅生門」は中国でも早くから知られている。日本では「藪の中」という「関係者の言い分が食い違い、真相がわからないこと」を、中国では「羅生門」といい、もはや中国語となった。特にニュースの見出しに頻出する。最近では「ゲノム編集ベビー羅生門:あらゆる関係先が賀建奎との関係を否定」と、倫理的問題を問われる研究との関わりを否定する声明が次々に出されたとの記事にも使われた。気づけば「羅生門」的事件だらけの中国。かつて「上海游記」「江南游記」を記し、「僕東京に住む能わざるも北京に住まば本望なり」とまで北京に惚れ込んだ芥川。今の中国に何を思うか。
うざい中年男にならないために
『無所畏』は「何物をも畏れず」の意。医学博士、米国でMBA取得、かつてマッキンゼー・アンド・カンパニーのパートナーも務めた輝かしいキャリアの作家・馮唐らしいタイトルだ。「うざい、見苦しい中年男にならないために」「軽々しくカフェを開くべからず」「“極上品”のふり指南」等……皮肉とユーモアを交えて軽妙洒脱に綴る「中年男の心得」。曰く、眠れない夜にするなら、書道だそうだ。2015年、初めての日本でふらりと立ち寄った銀座・鳩居堂で買った筆が手になじみ、毛筆の文字に惚れ込み、40代に入ってから書道に目覚めたとか。ちょっとカッコよすぎる中年男性である。
中国のベストセラー(文学部門)
11月19日『京東網』月間ベストセラーリストより 『 』内の書名は邦題(出版社)
1 山川歳月長
蒋勳、龍應台、林清玄ほか著、向陽・編
台湾の著名作家たちによる珠玉の名文集
2 無所畏
馮唐
医学博士、米国MBA取得の著者による「うざい、見苦しい中年男にならないために」等
3 九州飄零書 商博良
江南
作家7人が創作した架空の世界「九州」で展開される幻想シリーズ最新作
4 地獄変
芥川龍之介
漫画『文豪ストレイドッグス』の影響で、太宰と共に中国で人気の日本の文豪
5 羅生門
芥川龍之介
黒澤映画効果もあり、「羅生門」は「真相は藪の中」の意で今や中国語に
6 人間失格
太宰治
中国の若者に広く読まれている近代日本の文豪による不朽のロングセラー
7 老人与海 『老人と海』(新潮文庫ほか)
海明威(米)アーネスト・ヘミングウェイ
中国でも長年愛されてきた超ロングセラー。教師が生徒に推奨する作品
8 了不起的盖茨比 『グレート・ギャツビー』(新潮文庫ほか)
F.S.菲茨杰拉德 (米) F・スコット・フィッツジェラルド
中国では、数えきれないほど多くの翻訳が存在。本書は今年11月刊行の最新完全本
9 学生街的日子 『学生街の殺人』
東野圭吾
30年ほど前の作品だが、最近中国語訳が刊行されたばかり
10 倉央嘉措的誌与情:只為途中与你相見
趙明華
自由奔放なダライラマ6世ツァンヤン・ギャツォ(倉央嘉措)の詩集の漢訳