翻訳家・頼明珠が語る台湾での村上作品の受容
台湾での村上春樹の受容、浸透について語る時、翻訳家・頼明珠(69)の名前は欠かせない。頼は1985年、村上春樹の三つの短編を台湾で初めて訳し、雑誌に発表した。海外で村上作品が紹介された最も初期の例で、台湾における村上作品ブームの素地を作った。現在台湾で刊行されている村上作品の大半が、頼の翻訳によるものだ。
中華人民共和国で村上作品の翻訳を手がけた林少華が、四字熟語などを多用して中国語としての自然さ、流麗さを追求しているのに対し、頼の翻訳は原文のニュァンスを尊重しているのが特徴だ。台湾では中国版も入手できるが、頼の翻訳の人気は圧倒的で、読者からは「頼さんの翻訳じゃなかったら村上作品を好きにはならなかった」「まるで翻訳ではなく、村上が中国語で書いているみたいだ」などの声も上がる。自らも村上ファンである頼に、村上作品との長い付き合いを話してもらった。(聞き手・太田啓之)
私は1975年から78年まで日本の大学に留学して農業経済を学んだ後、台湾に戻って広告のコピーライターをしていました。職業柄、新しい情報に常に接する必要があり、日本の「アンアン」や「ノンノ」などの女性雑誌に目を通していて、村上春樹の名前を知ったのです。
1982年、「羊を巡る冒険」が新刊で出たのをきっかけに、「風の歌を聴け」に始まる初期の三部作を読みました。
村上作品はユニークで、クリエーティブで、これまでに読んだ他の文学とは全然違っていた。自分と同年代の作家として共感しやすかったですし、国際的であると同時に日本的なものも強く持っている点に魅了されたんです。文章と文章との間にいきなり、村上さんが自分で描いたイラストが出てくるのも良かったですね。いたずらっぽさと同時に、伝統的な文学を打ち破ろうとする勇気を感じたんです。
友人たちに村上作品のすばらしさを宣伝して回っている内に「じゃあ、あなたが訳してよ」という話になりました。1985年に三つの短編を訳して雑誌に発表しました。そこに、想像で書かれた村上さんの肖像イラストも掲載されたのですが、今見るととてもおもしろいですね。
翌年には長編「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」を訳しました。そして、コピーライターの仕事をやめて翻訳一本でやっていくことを決意したのです。
区切りとしてニューヨークに旅した時、現地の紀伊国屋書店で当時の最新作「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を手にしました。箱に入ったピンク色のハードカバー本で、トレーシングペーパーのカバーもつけられた豪華な装丁でした。ペーパーを汚さないように注意しながら、毎日少しずつ大切に読みました。「いつかこの本も訳せたら」と、強く思いました。今でもこの小説が、村上作品の中では一番のお気に入りです。
私はコピーライターでしたから、文学研究者の方が翻訳する場合に比べて、「一般の読者が読んでどう感じるか」ということを強く意識する傾向があると思います。村上作品は特に文体がユニークで、読む上での楽しさにもつながっているので、できるだけそのまま中国語に移し替えようとしています。
谷崎潤一郎の「春琴抄」も翻訳しましたが、一世代前の大阪弁である上に、句読点や改行を用いない独特の文体で、大変な苦労をしました。
その点、村上作品はご本人が翻訳のことも考慮しているのか、文体が非常にロジカルで、「英語っぽい日本語」です。そうした「和魂洋装」の雰囲気も伝えたい。
「風の歌を聴け」の中で、ビーチボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」という歌が引用されているのですが、歌詞をを中国語に訳してしまうと、村上さんが意図した雰囲気が出ない、と思い、自分で調べて英語の歌詞をそのまま訳文中に引用しました。
「1973年のピンボール」では、タイトルや文中の数字を漢数字ではなく、アラビア数字のままとしました。編集者は漢数字にしたがったのですが、「これは作者固有の文体の一つなのだから」と押し切りました。
台湾では、何人かの若い作家たちが村上さんの作風を真似しようとしましたが、活躍できた期間は短かったです。だけど、村上さんの創作に向き合う精神や意欲には、台湾の多くの若い読者が励まされたと思います。自分で詩を書いたり、絵を描いたり、作曲したり、ドラマを作ったりと、アートの面で幅広く自己表現をするきっかけになったのではないでしょうか。