■村上と握手をし損ねた僕
09年のエルサレム賞審査で、他の審査委員たちは、とても年を取ったアメリカ人作家を推していたけれど、僕は大反対だった。その作家は30年前に受賞するべきだったんだよ。僕は「30年後、村上にエルサレム賞を与える」なんてことにならないために、今こそ彼に賞を与えるべき、と強く主張した。僕の主張が受け入れられた時、僕はイスラエルで最も幸福な男だったね。
彼が授賞式に出席するためエルサレムにやってきた時、事前に審査委員たちとディナーを共にする機会があった。だけど僕自身は、息子の病気のせいで出られなかったんだ。それで、本番の授賞式にだけ出席した。
授賞式にやってきた人々は、みんな村上に飛びつかんばかりだった。「村上だ!」「村上だ!」って叫んで、彼の写真を撮りたがったり、村上と一緒に自分を自撮りしようとしたり。だけど、村上は決してフレンドリーな性格じゃない。人々が興奮すればするほど、彼はストレスを感じ、どうすればいいのか分からない様子だった。
ようやく授賞式がすんだ時、審査委員会の実務スタッフが僕にこう言った。
「あなたは村上に会っていない唯一の審査委員だ。彼と会って握手をして、一緒に写真を撮ってきてください」とね。
村上は部屋の隅にいて、何とか呼吸を整えようとしていた。それで、僕はカメラマンと一緒に村上の方に歩いていったんだけど、村上は「また熱狂的なファンが来たぞ!」とでも、思ったんだろうな。いきなり走って逃げちゃった。さすが、マラソンランナーだけあって、いい走りっぷりだったね(笑)。いつか、東京で彼と握手したいものだよ。
■村上と、「ディアスポラ」のユダヤ人作家たち
僕が村上をエルサレム賞に強く推したのは、彼がフランツ・カフカや、ノーベル文学賞を受賞したアイザック・バシェヴィス・シンガーなど、「本当の故郷を追われ、離散して暮らす(ディアスポラの)ユダヤ人作家」たちと共通性があると思っているからだ。
世界中のたいていの作家は、例え有名であっても、自分の住む社会を自明のものとして扱い、その社会を体現する存在となる。例えば、イスラエルは世界の中で、最も暴力的な社会のひとつだ。僕は暴力的であること自体を批判しているわけではないが、暴力的であること自体は事実だ。でも、社会の中にいると、作家たちにさえ、それが見えにくくなってしまう。その土地の価値観や法律にしっかりと絡め取られてしまい、それがおかしいとは思えなくなってしまうんだ。
一方、カフカやシンガーは、自分を、社会と分かちがたく結びついた存在と見なしてはいない。彼らは社会的な存在としての人間ではなく、より普遍的な人間性を描こうとしているんだ。
カフカの「変身」がチェコスロバキアの社会に関して書かれた小説ではなく、人間性それ自体について書かれた作品であるのと同じように、村上も日本社会のことではなく、より根源的な人間についての問いかけを発している。村上が日本と米国、両方の社会に通じているからこそ、できることだと思う。
こうした資質は、極めて希なものだ。ごく少数の作家だけが、社会という枠を超え、個別性と普遍性の両方を兼ね備えたものについて、語ることができるんだよ。
■価値判断をしない登場人物たち
小説を書くにあたっての村上の戦略は、「作中で起こっている現実離れしたできごとについて、登場人物たちが疑問を抱いたり、何らかの関心を持ったりすることがほとんどない」ということだろう。
登場人物が小説の中で起こったことについて、「恐ろしい!」とか「暴力的だ!」とかコメントすれば、読者はある種の責任逃れができる。登場人物が、「その状況をどう判断するか」についての責任を引き受けてくれるわけだからね。
だけど、通常の小説とは事なり、村上作品の語り手や登場人物たちは、作中の状況について責任を負うことを拒否する。実際には何が起こっているか理解しないまま、ただ状況を受け入れるんだ。彼らは受動的で、節度のある人物であれば当然期待されるような行動をとらないことも多い。代わりに読者自身が、作中の出来事について自分がどう感じ、どう判断するのかを問われることになる。
たとえ話をすれば、両親に虐待されている子どもは、「自分の身に起きているのは、許されないことだ」と判断することはできない。でも、その家にたまたま客が訪れて、両親が子どもにやっていることを目にしたら、「そんなことしちゃだめだ!」と叫ぶだろう。
村上は読者に対して、自らそうした判断をすることを求めている。村上作品を読むことは、ガイドなしで奇妙な世界に迷い込むようなものだ。読者は常に、自らにこう問いかけざるを得なくなる。「今起きていることについて、自分はどう考えればよいのだろう。これは許されることなのか。それとも許されざることなのか」と。小説を、読者が座って座り心地を楽しむソファだとすれば、村上作品はイケアのソファみたいなものだ。読者が自分自身でソファを組み立てなくてはいけないんだ。
■世界をまるで、初めて見るかのように体験させる
作中で起こっていることについて、作者や登場人物が価値判断をしないこと。村上のそうした戦略は、実はユダヤ人のディアスポラ作家たちが用いてきた戦略でもある。彼らは作中で、決して声高に「お前は間違っている!」とは言わない。なぜなら彼らは自らの暮らす社会の中で半ばよそ者であり、弱い立場にいるからだ。
だけど、「当たり前」と思われるような価値判断を登場人物がしないことで、読者自身が何の疑問もなく受け入れてきた価値観や生活習慣にくさびを打ち込み、世界をまるで初めて見るものかのように経験させる。つまり「延々と繰り返される生活の慣性力、惰性力」とでもいうべきものに、歯止めをかけ、読者に「異なる視点から物事を見ること」を試みるように呼びかける。それこそが文学者の果たすべき道義的な使命なんだ。
例えば僕はイスラエル人として、ホメイニ師が指導していた当時のイランの人々を憎み、あるいは恐れながら成長した。イランの社会では盗みをすれば腕を切り落とされるし、イラン人は僕たちを殺そうとしている。彼らは宇宙から来たエイリアンみたいなものだ、とさえ思っていた。
だけど、僕がある女の子とデートした時、彼女にいいかっこうを見せようとして、ブルース・ウィリスのアクション映画の代わりに、「A Moment of Innocence(邦題:パンと植木鉢)」というイラン映画を見に行ったんだ。
それ以来、僕はイランの人々を、従来と同じように見ることができなくなってしまった。確かにイランの指導者はあんなのだけど、テヘランで暮らす普通の人々は、ただうまいものを食べたくて、彼女が欲しくて、職を失いたくない。僕らと同じだ、と知ってしまったんだ。これが、映画や文学の持つ力だと思う。
歴史上の数々の残虐行為は「自分自身を疑わず、慣性や惰性で同じことを繰り返す」ことから起こってきた。「ナチスは悪だった」とよく言われる。だけど、ナチスの作り出したシステムが邪悪だったこと以上に、虐殺に関わった人々が自らを疑うことなく、自動的に繰り返したことの方が大きな問題だ。僕にはそう思える。人々が毎日のように繰り返している行為を、「あたかも自分自身が生まれて初めてやるかのように見つめ直す」よう仕向けること。それこそが、カフカやシンガー、そして村上がずっとやってきたことなんだよ。