「100%の恋愛小説」
村上春樹は1987年に発表した長編「ノルウェイの森」に、自らの発案で「100%の恋愛小説」というキャッチコピーをつけました。一体なぜ、「100%」なのでしょうか。僕の考えでは、その理由は臆面もなく「女の子が死ぬ恋愛小説」だからです。
恋愛小説では、実によく女の子が死にます。21世紀に入ってからも「世界の中心で愛を叫ぶ」という女の子が死ぬベストセラーがありましたが、日本文学では、徳富蘆花「不如帰」(1899)、伊藤左千夫「野菊の墓」(1906)、室生犀星「或る少女の死まで」(1919)、堀辰雄「風立ちぬ」(1937)、武者小路実篤「愛と死」(1939)など、枚挙に暇がありません。
ちなみに、夏目漱石は「野菊の墓」に感激して、作者に「あんな小説なら何百篇よんでもよろしい」というファンレターを送ったぐらいです。
戦後も、女の子が死んだり死にかけたり、という小説は、石原慎太郎の「太陽の季節」(1955)、柴田翔の「されどわれらが日々」(1964)のように、を芥川賞を受賞するなど「文学」のメインストリームに登場し続けます。
ほどよいタイミングで女の子を死なせるのが正しい恋愛小説の作法、と言っても過言ではないほどです。「ノルウェイの森」ももちろん、そうした恋愛小説の流れの中にある。だからこそアイロニカルに「100%の恋愛小説」を自称するのではないでしょうか。
女の子の「下降」と宮崎アニメ
ではなぜ、女の子を死なせる必要があるのか。単純に「読者を泣かすため」なのでしょうか。
実は、「女の子が死ぬ」ということの背景には、「読者の心に響く物語を作るには、作中で女の子を下降させる必要がある」という、物語を作る上での「隠れた法則」が存在しています。注意深く観察すれば、女の子が登場する古今東西の様々な物語や映画には、必ずと言っていいほど「女の子が落ちる」重要な場面があることに気づかされます。
例えば、「不思議の国のアリス」は、アリスが深い井戸に落ちる所から物語が始まる。川端康成の「雪国」の終章では、主人公の眼前で、燃える家から女が落ちてくる。「されどわれらが日々」では、ヒロインが主人公と初めてセックスした直後、駅のホームから落ちて重傷を負い、姿を消します。
映画「レオン」では、殺し屋役のジャン・レノが、ビルの部屋の壁に穴をあけ、女の子を排気ダクトから下に落として逃がし、その後に自分は爆死します。「タイタニック」では、海面に船尾を立てて屹立し垂直に沈む巨艦とともに、ヒロインが海の中に吸い込まれていくのを、主人公の男の子の手が何とか引き上げる。
現在、大ヒット中の「君の名は。」の最終局面でも、女の子の下降が効果的に使われています。肉体的に痛々しいが、しかし同時にとてもエモーショナルなシーンです。主人公の三葉が、絶望的な状況でつまづき、坂道を、バウンドしながら、頭を何度もうちつけ、激しく転がり落ち続ける。彼女の意識が戻った時に、抜け出せない未来の物語が大きく展開する。
極めつきは宮崎アニメでしょう。「天空の城ラピュタ」のキャッチコピーは、「ある日、少女が空から降ってきた…」でした。「千と千尋の神隠し」では、主人公千尋は幼い頃に川に落ちておぼれかかった経験があり、それが物語の核心となります。
「風の谷のナウシカ」でも、ナウシカは舞台となる腐海の底へ数百メートルも落ちるのですが、そこからどうやって上の世界に戻ったかは、映画版では見事に省略されている。ナウシカが「メーヴェ」という凧で飛ぶシーンも、上昇よりも下降のシーンの方がずっと多く、しかも丁寧に描かれます。
「女の子が落ちる」ということは、人々を物語に引きつけるために半ば必然的に求められるが、女の子が上昇するシーンはさほど重要ではない。自覚的なのか本能的なのかは分かりませんが、宮崎駿は明らかにそのことを見抜いているのです。
「井戸に落ちる」意味
話を村上春樹に戻せば、「ノルウェイの森」の冒頭にも、「女の子が落ちる」というモチーフが明示されています。それは、ヒロインの直子が主人公の男の子と共に草原を歩きながら、謎めいた「野井戸」の話をするシーンです。「それは本当に――本当に深いのよ」「でもそれが何処にあるかは誰にもわからないの」「(落っこっちゃったら)どうしようもないでしょうね。ひゅうううう、ポン、それでおしまいだもの」。
直子は後に、自殺します。女の子の下降は、しばしば死へとつながる。村上は「女の子の下降」という物語の法則について極めて自覚的な作家です。だからこそ、物語の冒頭で、死を運命づけられたヒロインにいきなり「野井戸」の話をさせているのです。
それではなぜ、物語は女の子に「下降」を要請するのか。僕の答えは、「ママの包囲網を抜け出し、本当の外部に到達するため」というものです。何のことだか分かりませんよね。ここはなかなか説明が難しいのですが、何とかやってみましょう。
「坂の上の雲」vs村上作品
実を言えば、世の中には「女の子が必要ない物語」というものも存在します。それは、「男の子が成長しながら強くなっていき、父親的な強大な敵と戦って倒す物語」です。「ドラゴンクエスト」など、主人公がレベルアップしてゆくロールプレイイングゲームや、明治期の日本を描いた司馬遼太郎の「坂の上の雲」はその典型です。
「坂の上の雲」というタイトルが象徴するように、男の子の物語は基本的に「上昇」志向です。そして、「坂の上の雲」の主人公の一人、秋山好古は「男子が大事を成し遂げるには妻など邪魔」という晩婚主義者であり、弟の真之も、女の子との恋はおろか、ほのかな胸のときめきさえ経験しない。まさに「男の子だけの物語」です。
村上作品をはじめ「女の子が必要な恋愛小説」は、言うまでもなく「坂の上の雲」の対極にあります。村上の初期作品に登場する「僕」は、文芸評論家の渡部直己が指摘するように、少しも変化したり成長したりしない。物語の基調は「勝利」ではなく、「喪失感」です。
「上昇の物語」が「父との対決」につながる一方で、村上春樹などの「下降の物語」が目指すのは、「自分の周囲と足元を取り囲み、窒息させようとする母親的なるもの=ママの包囲網から抜けだし、本当の外部にたどり着くこと」なのです。
「ママの包囲網」の息苦しさ
「ママの包囲網と、そこからの離脱」というテーマを自覚的に取り上げたのが、庄司薫の小説「赤頭巾ちゃん気をつけて」です。この作品は、次のような文章で始まります。
「ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。特に女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、必ず『ママ』が出てくるのだ」「出てくる母親たちに悪気があるわけではない。それどころか彼女たちは(キャラメルはくれないまでも)まるで巨大なシャンパンのびんみたいに好意に溢れていて、まごまごしているとぼくを頭から泡だらけにしちゃうほどだ」。
「キャラメルはくれないまでも」という括弧書きは、70年安保闘争で東大の安田講堂に立てこもった学生たちに、「ママ」たちがキャラメルを配りに来たという伝説に基づいています。
母親がもたらす「包み込むような優しさ、温かさ」と、自分を取り囲みどこまで行っても逃れられない「息苦しさ」が表裏一体であることを、庄司は見事に表現しています。
心理学者の河合隼雄も「母性の原理は『包含する機能』によって示される」と指摘しています。ユング心理学では「ママの包囲網」は「グレートマザー」と称され、大地や地下と関わりが深いとされます。
たとえ父親との対決は拒否できても、自分の周囲と足元を包み込む「母親の包囲網」からは逃れられない。そこから逃れるには下降するしかありません。
ここで再び「ナウシカ」を例に挙げれば、人間の住む土地を取り囲む「腐海」は、「母親の包囲網」の象徴でしょう。腐海は有毒ガスを吐き出す一方で、実は汚染された地球を浄化し、人々の生活を支えているという両義性からも、それは明らかです。
映画の中盤、ナウシカは腐海の奥底へと落下することで、その底にある清浄な砂の空間に至る。つまり、下降によって「腐海=母親的なもの」の包囲から抜け出して、「本当の外部」へと到達するのです。
村上の「ねじまき鳥クロニクル」では、主人公が深い井戸の中で瞑想していると、謎の女に導かれ、日常空間から外部の異世界へと「壁抜け」をする。「ナウシカ」でも、腐海の底を流れる清浄な水が、井戸の水源となっていることが明らかになる。二つの物語では、「下降」「井戸」「外部」という三つのモチーフが重なりあっています。
さて、いよいよ核心です。なぜ、「下降して母親の包囲網から抜け出す」には、「女の子の力」が必要となるのでしょうか。
女の子だけが持つ「下降してママを解体する力」
私の考えでは、それは「女の子」が、「ママになりつつあるもの」「小さき母」だからであり、女の子だけが下降できる存在だからです。男の子は「父親」に向かって上昇することしかできません。
誤解しないで欲しいのですが、私は決して、実社会における性的分業を肯定しているわけではありません。「物語」という構造に潜む不思議な役割の法則を解明し、それについて語ろうとしているのです。
女の子は成長によって必然的に足元・地下にある「母なるもの」へと下降し、接近していきます。もちろん、そのまま「ママの包囲網」と同化してしまう可能性もありますが、その移動のエネルギーを利用して、逆に母親の包囲網を解体し、突破することも可能なのです。
1951年に刊行され、ベストセラーとなった石井桃子の「ノンちゃん雲にのる」という童話があります。この作品の世界観は、主人公のノンちゃんが池に落ちることで、「水の中の空の上に行く」という奇妙なものです。
「坂の上の雲」ならぬ「池の下の雲」ですが、これも「女の子は落下することで異世界にたどり着く」という「物語の法則」に従ったものと理解できます。
物語の中で、ノンちゃんは「おかあさん」が「世界中、どこにいっても『うちのおかあさん』『あたしのおかあさん』」ではなく、ほんとうは「田代雪子」という名前を持っていることに気づきます。
「それはノンちゃんにとって大きな発見でした。そのことのあって以来、それまで一つだったおかあさんとノンちゃんのあいだに、すきまができました。そして、そのすきまはノンちゃんにさまざまなことを感じさせ、またそのすきまのために、ノンちゃんはいっそうおかあさんをたいせつに思うようになったといっていいでしょう」
包囲網を形成する「ママなるもの一般」に、ノンちゃんは「雪子」という固有名に気づくことによって「すきま」をつくります。女の子がママの包囲網にできることは反抗でも逃走でもなく、個々の「ママならざるもの」への解体なのです。
なぜ、女の子は死ぬのか
一方で、「ママの包囲網を解体・突破する下降」には危険が伴います。そもそも母親のおなかにいる胎児は、羊水の中で必要な栄養と温かさが与えられ、何不自由なく満足した状態にある。生まれた後でも「ママ」は、厳しい外の世界と自分の間にあって、自分を守ってくれる存在でもある。そこからの離脱は生命の危機と直結しています。下降する女の子が、物語でしばしば傷つき・死んでしまうのも当然でしょう。
現代の人々にとっての切実な課題は「父との対決」よりも「ママの包囲網からの離脱」です。「ママから抜け出る下降」が女の子にしかできない以上、世の中で女の子が主人公になる物語が増えていくのは自然な流れです。言うまでもなく、宮崎アニメでも主人公の大半は女性です。
村上作品の「死なない女の子」
村上の長編では、2002年の「海辺のカフカ」まで、すべて男性が主人公でしたが、09年の「1Q84」では、天吾という男性の主人公と共に、青豆という強い女性の主人公が初めて登場します。
青豆は小説のはじめで、高速道路の非常階段を「降りていく」ことを通じて、月が二つある異世界へと迷い込む。もちろん、「物語の法則」通りです。「BOOK2」の最後で、天吾を守るために死を選ぼうとすることも同様です。
ところが、「BOOK3」で、実は青豆は死んでいなかったことが明らかになり、最後は天吾と一緒に非常階段を「昇る」ことで、異世界から脱出します。
ここで注目するべきなのは、青豆自身が先頭に立ち、天吾を導くようにして昇っていくことです。従来の物語における男の子の役割は、「タイタニック」の主人公や、「千と千尋の神隠し」における川の神・ハクのように、男の子の持つ「上昇する力」を利用して、女の子を引っ張りあげることでした。
「1Q84」でも、天吾はセオリー通り、「僕が先に行った方がいいんじゃないか?」と青豆に声をかけます。しかし青豆は「いいえ。私が先に行く」と自らの意志をはっきりと示すのです。
「1Q84」は、下降してきた女の子が、帰りは男の子と一緒なのに、あえて自分で先頭にたって昇っていく。この物語法則のイレギュラーのために書かれたと言っても過言ではありません。もちろん、村上は「女の子の下降、死」という物語の法則に自覚的な作家ですから、この仕掛けも意識的に行っているはずです。
そもそも、「女の子の下降」と違って、上昇はさほど男の子固有の能力ではないのでしょう。「男の子が女の子を引き上げる」という枠組み自体も、物語にとって必然的な構造ではなく、なんとか男女の共同作業をひねり出すための詐術かもしれません。
村上が「1Q84」で本当に書きたかったのは、引き上げてもらう男の子を必要とせず、自らの力で下降と上昇の両方ができる、「死なない女の子」だったのではないでしょうか。