交響曲第2番を生み出したウクライナのカメンカ
先週に引き続き、ロシアの大作曲家ピョートル・チャイコフスキーの生涯をたどる旅を続けましょう。
チャイコフスキー自身の家ではありませんが、彼が長い時間を過ごし、その影響が作品にも反映した場所が、現在のウクライナ中部チェルカスィ州にあります。それがカメンカ(ウクライナ語読みではカミヤンカ)という街です。
チャイコフスキーには2歳年下の妹アレクサンドラがおり、彼女は1861年にダビドフ家に嫁いでカメンカに移り住みました。妹と深い絆で結ばれていたチャイコフスキーは、しばしばカメンカの地を訪れ、特に1870年代にはダビドフ家の屋敷に頻繁に出入りしていたようです。
カメンカは、チャイコフスキーにとり、とても居心地の良い場所だったらしく、この地でいくつかの作品を作っています。とりわけ重要なのは、交響曲第2番「小ロシア」がここで生まれたことでしょう。「小ロシア」というのは当時のウクライナ地方の呼称であり(侮蔑的なニュアンスを帯びてしまうので、今日ではこの呼び名はタブーですが)、チャイコフスキーはこの地で触れたウクライナ民謡の旋律を取り入れて交響曲第2番を創作したのでした。
もっと早い時代には、ロシアの国民的詩人アレクサンドル・プーシキンもカメンカのダビドフ邸に立ち寄っていたということで、当時の邸宅を利用し、プーシキン・チャイコフスキー博物館が開設されています。残念ながら私はまだ行ったことがないのですが、ネットで調べてみると、なかなか充実した博物館のようです。
プーシキン・チャイコフスキー博物館(カメンカ)
ウェブサイト(ウクライナ語のみ):http://kammuz.ucoz.ua
アクセス:★☆☆
見ごたえ:★★☆
メック夫人との交流を偲ばせるブライロフの地
ウクライナには、重要なチャイコフスキー所縁の地がもう一つあります。ウクライナ南西部のビーンニツヤ州にあるブライロフ(ウクライナ語読みではブライリフ)です。
音楽ファンには有名な話ですが、チャイコフスキーはナジェージダ・フォン・メックという裕福な女性から長年にわたり手厚い資金的な援助を受けました。にもかかわらず、二人は直接会ったことはなく、文通だけのやり取りでした。
こうした不思議な関係性を実感できる場所が、ブライロフにあるメック家の邸宅です。チャイコフスキーは何度かこの屋敷に滞在して創作に当たったものの、それは常にメック夫人の留守中であり、やはり二人が顔を合わすことは決してなかったのです。
その邸宅は、現在は学校として使用されているのですが、建物の一部の作曲家が仕事をした部屋が、「チャイコフスキー・メック夫人博物館」として公開されています。とにかくウクライナはお金のない国ですので、上の写真に見るように、建物は傷みが激しく、博物館としてきちんと整備されているとは言いがたいです。ただ、時代から取り残されたようなこの地を訪れると、かえって巨匠の心の奥底を垣間見たような、そんな気分になります。
チャイコフスキー・メック夫人博物館(ブライロフ)
ウェブサイト:なし
アクセス:★☆☆
見ごたえ:★★☆
海軍に勤務した弟との繋がり
チャイコフスキーには、3歳年下のイポリトという弟もいました。弟は、芸術家の兄とはまったく異なる進路を選び、ロシア帝国の海軍将校となりました。イポリトは1883年から1894年にかけて、タガンログという街に赴任しています。ロシア南部の現ロストフ州にある街で、アゾフ海(黒海の内海)に面した港町です。作曲家チャイコフスキーは、1886年、1888年、1890年と3度にわたり、それぞれ短期間ではありましたが、タガンログの弟の家に滞在しました。
その弟の家が今日も保存され、「チャイコフスキーの家博物館」として公開されています。チャイコフスキーがタガンログの地で名曲を書いたといったエピソードはないので、当時のロシアの歴史背景や、弟との絆について学ぶ博物館ということになるでしょう。ただ、チャイコフスキー聖地としてのレア度は高く、ここを訪れたら自慢できることは間違いありません。
チャイコフスキーの家博物館(タガンログ)
ウェブサイト:なし
アクセス:★☆☆
見ごたえ:★☆☆
最後にたどり着いた安住の地クリン
これまで見てきたとおり、チャイコフスキーという人は、かなり多くの土地、住処を、転々としながら生きた人です。旅行もたくさんしました。しかし、人生の最後に、安住の地を見出したのです。それが、モスクワ市の中心部から北西に90キロほどのところにあるクリンというところです。チャイコフスキーがこの集落に移り住んだのが1884年、そして終の棲家となる屋敷に居を構えたのが1892年5月のことでした。
クリンでの日々につき、チャイコフスキー本人は、「ここほど働いていて心地良い場所は他にはなかった。スイスの湖のきらめきも、フィレンツェの花の開花も、ここで味わうほどのときめきは感じさせてくれない」と書き残しています。晩年になってこの地で達した精神的な境地が、バレエ作品「眠れる森の美女」、「くるみ割り人形」、そして交響曲第5番、第6番「悲愴」といった傑作を生み出しました。
結局、チャイコフスキーがくだんの終の棲家で暮らすことができたのは、1年半ほどにすぎませんでした。1893年11月6日(旧暦10月25日)、チャイコフスキーは公演旅行先のペテルブルグで亡くなります。享年53歳。そのままペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬され、愛するクリンに戻ることはありませんでした。
チャイコフスキーが亡くなった直後から、10歳年下の弟モデストが中心となり、クリンの家を博物館にするための作業が始まります。その尽力が実って、博物館は1894年に開館しました。今日でも、「国立チャイコフスキーの家博物館」として、多くの見学者を集めています。
何しろ、巨匠が最後に暮らした家ですので、収蔵品が質・量ともにきわめて充実しています。チャイコフスキーが最後にたどり着いた安住の地がどんなところだったのか、ファンならぜひ見ておきたいところでしょう。クリンはモスクワから少し離れていますが、チャイコフスキーの家博物館を含んだ観光ツアーなどもありますので、訪れるのは難しくないはずです。
国立チャイコフスキーの家博物館(クリン)
ウェブサイト:https://tchaikovsky.house
アクセス:★★☆
見ごたえ:★★★
もはや意地:チャイコフスキーという街を訪ねる
最後に一つ番外編を。ロシアのペルミ地方に、作曲家の名を冠したその名もチャイコフスキー市というところがあります。しかし、作曲家本人がこの地に立ち寄ったりしたわけではありません。そもそも、この街はダム建設に伴ってソ連時代の1955年に誕生したところなので、19世紀を生きた巨匠が足跡を残すはずもないのです。水力発電所を建設するために川を堰き止めてダム湖が出来た → ダム湖をボトキンスク貯水池と名付けることにした → ボトキンスクと言えば作曲家のチャイコフスキー(前編で述べたとおりボトキンスクは彼の生誕地) → ならばダム湖のほとりにできた水力発電の拠点の街をチャイコフスキーと名付けてしまおうと、連想ゲームのような形で命名されたにすぎないのです。
ただ、偉大なる作曲家の名を冠している以上、この水力発電の企業城下町も、一種のチャイコフスキー聖地であることに変わりはないでしょう。私は、ここに行ったところで何もないことは百も承知で、ロシア地理オタクかつチャイコフスキー・ファンという意地だけで、チャイコフスキー市を訪問してみました。
実際に行ってみると、チャイコフスキー記念音楽学校が開校されていてそこに銅像が立っていたり、「チャイコフスキー・ホテル」があったりと、思ったよりはチャイコフスキー要素が見て取れました。名前からの後付けながら、市では音楽教育に力を入れたり、音楽フェスティバルを定期開催したりしているそうです。まあ、いずれにしても、わざわざこんなところに出向くというのは、物好きというか、自己満足以外の何物でもありません。
チャイコフスキー市
ウェブサイト:http://www.chaikovskiy.ru
アクセス:★☆☆
見ごたえ:☆☆☆