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大江千里、47歳のライフシフト ジャズ転向で身につけた「発想の転換力」

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:

秋晴れの10月上旬、兵庫県西宮市にある関西学院大学のチャペル。窓から差し込む木漏れ日を見ながら、大江千里(58)は、母校の学生たち約60人に語りかけた。「デビューする前、大学の芝生の上でワクワクしながら未来を夢見ていた。僕は、その時に見た光と影のように生きてきたと思います」

ステージの電子ピアノで弾き始めたのは、在学中の1983年にシンガー・ソングライターとしてデビューした曲「ワラビーぬぎすてて」。だが、鍵盤から紡ぎ出されるのは、ポップスではない。ジャズの軽やかな音色だ。

その後、同窓生らの支援で開いた大学コンサートには、昔からのファンたちも多く駆けつけた。約400人を前にジャズを披露してみせた大江は、満足そうに語った。「新たなドアが開いた」

■ラブソングが歌えない

「格好悪いふられ方」「十人十色」などヒットを連発した人気ポップ歌手。そんな大江がすべてを捨てて渡米したのは2008年、47歳の時だった。

当時、日本での仕事がうまくいっていなかったわけではない。自主レーベルをつくり、映画も主演して、むしろ「自分史上バブルの頂点」。なのに、予定していたライブを中止にし、「もう歌わない」と心に決め、ポップ歌手としての活動に区切りを付けた。

ポップ歌手時代の1985年に発表された4作目のオリジナルアルバム「乳房」のジャケット=提供:Sony Music Direct Inc.

音楽関係者やファンの目にはとっぴな行動に映ったかもしれない。しかし大江本人の中では、ゆっくりと決意は固まっていた。気合を入れて「大江千里」になろうとしている……。そんな違和感が40代に入る頃から胸の内にわき起こり、抑えられなくなっていた。「僕のラブソングは、恋する2人に初めて起こる胸キュンの出来事がほとんど。それは18歳のころに集約されている。そこから距離が遠くなると、焼き直しになってしまうのです」

自分を抑えて同世代に現実味のあるラブソングも考えてはみたけれど、心は満たされなかった。「例えば、『ハローワークに通っても仕事がない』って、歌ってもね……」

折しも、最愛の母親、親友、愛犬と心の支えを相次いで亡くし、命に限りがあることも痛感した。

40代半ばを過ぎたある夏の日、六本木ヒルズのショーウィンドーに映った自分の顔を見てはっとした。笑ってみても、目の奥が冷淡だった。「あと3年で50歳、その時、豪快に笑えている人生にしたい」。大江は心の奥底にくすぶっているものに気づいた。ジャズだった。

中学・高校時代、中古レコード店でクリス・コナーやアントニオ・カルロス・ジョビンら有名ミュージシャンのアルバムを買いあさった。表紙だけで選ぶ、まさに「ジャケ買い」。触れたことのない世界観にのめり込んだ。だが、ちょうどそのころ、ポップ歌手としてデビューの光が見えていた。若い大江は、ジャズへの思いを封印した。「そうだ、自分にはやり残したことがあるじゃないか」。迷いはなかった。

■悔しくて、自分の腕にかみついた

大江が「人生の第2楽章」の出発点に選んだのは、ニューヨークにあるジャズの名門大学「ニュースクール」。だが、日本のポップスターも本場では無名の中年男でしかない。入学初日のオリエンテーションで即席でグループを組んで演奏することになったが、いざピアノを弾き始めて、がくぜんとした。「みんなができていることが、僕にはできない」。舞台から降りてくると、一緒にいた同級生たちが「セッションしようぜ」と言いながら、さーっとスタジオに消えていく。大江はひとりポツンと取り残された。

ジャズの家庭教師には初回のレッスンで、こう言われた。「あなたの音楽はとても魅力的だけど、ジャズじゃない。血を全部入れ替えないといけない」。

大阪生まれで河内音頭を聞いて育った大江には、ジャズと全く逆のリズムでカウントする癖があった。プライドはずたずただった。それでも、親子ほど年の離れた同級生たちに追いつこうと練習に明け暮れた。数カ月後、体が悲鳴を上げ始める。左腕の神経が指から手首、ひじ、肩と全部まひしてしまった。悔しくて、夜中に「チクショー」と言いながら思いっきり左腕にかみついた。窓枠に取り付けたゴムを痛めた腕に巻き付けて何度も引っ張る。そんなトレーニングを繰り返した。

今夏、東京でプロモーションビデオを撮影。インタビュー中は軽妙な語り口だったが、演奏が始まると丁寧な指運びで弦から音を響かせた

ニューヨークでの住まいは、大学近くのアパートの屋根裏部屋。急な渡米でゆっくり探している時間がなかった。窓がきちんと閉まらず、雪の降る夜はすきま風が吹き込む。ピアノの練習をすると、壁が薄くて隣人に怒鳴られもした。それでも、つらいとは思わなかった。新たなスタートを切れたことがうれしかった。

「イアー・トレーニング(聴音)」のレッスンをしてくれた有田純子(51)は、当時の大江を支えたひとり。「初めは大変そうだったけど、大江さんはとても真面目な人。ジャズを学んで、面白い方向に進める。そう信じていました」

世界中から才能が集い、しのぎを削る名門校。志半ばで去る同級生も少なくない中、大江は2年ほどかかって「ジャズの血」を入れ替えていった。練習して覚えたことを発表会の演奏の中で試すと成功する回数が増え、同級生たちが大きな声援をくれるようになった。「少しずつ、心地いいと感じるようになった」

■20人を前に歌った、ジャズの初ライブ

記念すべき初ライブは在学中、マンハッタンにあるオープンカフェのような韓国料理店で開いた。観客は友達ばかり20人。3人の同級生と演奏を始めると、通りがかりの人が拍手してくれた。ボウルに集まったチップは約100ドル(約1万1300円)。演奏後、メンバーとその金で韓国料理を食べながら、大江はしみじみ思った。「ジャズの技術はまだ発展途上だけど、それをくよくよと悩んでも仕方ない。これからも必死に練習していけばいい。何より、お客さんに喜んでもらえばいいじゃないか」。気づけば、それは音楽を志した原点でもあった。

4年半かけて大学を卒業した時には、52歳になっていた。

ニューヨークに自らレコード会社を立ち上げてジャズデビュー。作曲やアレンジ、演奏、プロデュースなど一人で何役もこなす。歌手時代には経験したことがなかった実務にストレスがたまり、眠れない夜もあった。それでも、徐々に結果がついてくる。ニューヨークで月1回のペースで開いているライブは評判を呼び、いまでは数百人の聴衆から喝采を浴びる。自社サイトから注文を受けたアルバムは、自筆メッセージを入れていまも自ら郵送する。

ニューヨークでのコンサートで歌手のシーラ・ジョーダン(右)と=2016年7月、Mami Yamada撮影

昨秋のライブで、自分のポップス時代の曲「Rain」をピアノで弾いた時のこと。演奏後、日本の歌手時代を知らない地元の観客からかけられた一言に、目からうろこが落ちた。「素晴らしい! 歌詞をつけて誰かに歌ってもらったらいいんじゃない!?」

■「一粒で二度おいしい人生」

米国で入れ替えた「ジャズの血」が、捨てたはずのポップスに新たな命を吹き込むかもしれない─。今秋発売した、ジャズ転向から5枚目のアルバム「Boys & Girls」は、ポップ歌手時代の曲をジャズ風にアレンジしたものばかりを収めている。「ノスタルジーではなくて、すべて生まれたての曲。今はポップスをモチーフにジャズスタンダードを作る挑戦もできる。自分でも、ずいぶん成長したと思う」

ジャズの魅力とはなにか。「明るい曲なのにどこかキュンとくる切なさがあり、相反する感情が同時に表せるところ」。そして、還暦を前に、大江は目を輝かせる。「一粒で二度おいしい人生、楽しまないとね」(文中敬称略)

■Profile

  • 1960 大阪府藤井寺市で生まれる
  • 1963 クラシックピアノを習い始める
  • 1970 ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」をきっかけにポップスに開眼
  • 1975 ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)の関西四国沖縄決勝大会に出場
  • 1983 関西学院大学在学中にシングル「ワラビーぬぎすてて」、アルバム「WAKU WAKU」でデビュー。以来、作詞・作曲・編曲家として松田聖子や光GENJI、渡辺美里ら多くのアーティストに楽曲を提供
  • 1990 通算10枚目のアルバム「APOLLO」をリリースし、自身初となるオリコンチャート1位を記録。その後も音楽活動以外に俳優、テレビ番組の司会、ラジオ番組のパーソナリティーのほか、エッセー執筆など幅広い分野で活躍
  • 2007 デビューからこの年までに45枚のシングルと18枚のオリジナルアルバムを発表
  • 2008 ジャズピアニストをめざしてニューヨークの音楽大学「ニュースクール」に入学
  • 2012 大学卒業。ニューヨークで自身が設立したレーベルからアルバム「Boys Mature Slow」でジャズピアニストとしてデビュー
  • 2018 ポップス時代の代表曲をピアノでセルフカバーしたアルバム「Boys & Girls」を発表

■Self-rating sheet 自己評価シート

大江千里さんは自分のどんな「力」に自信があるのか。編集部が用意した8種類の「力」を5段階で評価してもらうと、「発想の転換力」を自ら加えて5をつけた。

その理由について、本人は「米国はなにが起こるか分からないので、悪いことにもあまり引っ張られず、一晩寝て次に切り替える」。「協調性」は最低の1。「日本ではもっとあったけれど、米国では嫉妬や人の目を気にしないでやっている」。「体力」は5。「若いころは痩せすぎて、しょっちゅうめまいがして吐くことも。口内炎もよくできたけれど、ニューヨークに行ったらすっかりなくなった。ストレスでしょうね。いま体は絶好調」

■Memo

英語…ポップ歌手のころから将来、必要になるだろうと思い、ラジオ講座などで学んでいた。今は誤解のないように誠実にしゃべることを心がけているが、「君の英語にはなまりがある」と言われたら、「僕がSenglish(千里の英語)を話しているから」と答える。時折、スマートフォンに英語で話しかけて、聞き取ってくれるか試している。

お気に入りの帽子とメガネ=本人提供

メガネ…ポップ歌手時代はべっこう縁のメガネがトレードマークだったが、いまは様々なタイプを40個ほど持つ。ぶかぶかのスニーカーを履いて、ニューヨークの街を歩き回る。ライブでは帽子にちょうネクタイのスタイルが多い。下町ブルックリンのアパートでは、愛するメスのダックスフント「ぴーす」と暮らす。