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イビチャ・オシム元サッカー日本代表監督、旧ユーゴ監督の辞任劇を語る「抗議だった」

People 更新日: 公開日:
オシムさんは通訳を途中で遮るほど熱く語ってくれた。2016年7月、オーストリアのグラーツで (神谷毅撮影)

――まず、オシムさんが育った旧ユーゴスラビアについて、特に多民族、多文化の姿について聞かせてください。

当時のユーゴスラビアでは、子供たちは普段から、誰が誰なのか、なぜ彼らはこうで我々がこうなのかということを意識していません。あのころ一緒に学校に通った友だちは、今も友だちです。

もちろん、当時は第2次世界大戦がありました。でも私たちは今も昔も同じですし、それほど変わったことはありません。これがとても重要なのです。

ボスニア人とセルビア人、クロアチア人が結婚したケースもあります。これによってお互いの結束力が高まるのです。私は子供の頃からそうした生活をしていたので、それが普通でした。貧困層も多く、お金を稼ぐのも一苦労だった頃です。

彼らは一緒に住みたいかどうかではなく、そうしなくてはならなかったのです。しかし、これは私にとって利点でした。この土地で生まれ、友達ができた。

みな私と同じような人たちでした。サッカーをするのも一緒、食事へ行くのも一緒。学校でもいつも一緒。何の問題もありませんでした。友だちが毎朝、学校へ行く前にうちに迎えに来ました。彼らは今でもうちに来ることがあります。

妻には7人のきょうだいがいます。みんな様々な民族の人たちと結婚しています。私の子供たちもそれに慣れていますので、あれはどこの民族だとか、どこから来たのかなどという疑問は持ちません。

ただ、戦争はとても不運でした。戦争によって多くが破壊されました。ユーゴスラビアは生きていく国として、とても興味深かったです。

その中でもボスニアは特別でした。今はもう当時のようにはいきません。大勢の人が亡くなったり、難民となったりしました。オーストリアやドイツへ移り住んだ人もいます。養子縁組をして海外に渡った子供たちもいます。

日本からも多くの支援がありました。これを忘れてはいけません。こうしたことは人生において大事なことです。

多文化は、お互いの関係が良好なことと、きちんとした距離感を保つことで成り立っています。お互いを罵り、戦争を引き起こすものではありません。いま世界を見渡すと、このような状態が理想であり、一番の解決策です。

互いを受け入れることです。私たちは一人では生きていけません。周りがなぜそうなのか、なぜ自分たちと違う生き方をしているのか、なぜほかの宗教を信じ、祝日が異なるのか理解しなければいけません。そこには意見の相違が生じますが、問題はそれをどう受け入れるかです。

私が理解できないのは、なぜ人は自分たちと生活を共にしている人を受け入れることができないのかです。それができれば、お互いに穏やかで良い人生を送ることができるはずです。

――六つの共和国に分かれていたユーゴスラビアでは、代表チームの選手を選ぶのに、とても苦労されたと聞いています。どのようなことを心がけましたか?

まずは監督として、しっかりとした目標を掲げること。それはベストなチームを編成することです。選手がセルビア出身なのかクロアチア出身なのか、イスラム教かそうでないのかは重要ではありません。素晴らしい選手であることが最も大切です。

監督に与えられる課題は自分の仕事をすること――良い練習をし、強いチームを作ることです。選手の名前やどこのクラブに所属しているかは関係ありません。時には危険にさらされることもあります。例えば観客やファンが特定の民族や宗教を支持する時です。大切なのは公正でいることです。

例えば、ある民族の選手がお粗末なプレーをすると、ほかの民族を支持するメディアはその選手をものすごく叩きます。その逆もあります。

ここで最も難しい立場に置かれるのが監督です。チーム内の雰囲気にもかかわります。選手もこうした記事を目にするからです。その選手たちが時には同じ部屋で一緒に寝ることもあります。「敵」と同じ部屋で寝泊まりするわけです。それは無理ですよね。残念ながら、これではメディアに操作されたようなものです。

メディアを通して、選手は「自分が誰か」を知ることになります。選手はみな有名になりたいと願っていますし、コンプレックスを抱くこともあります。有名になるのがお金持ちになる最短の道だと考える人もいるでしょう。現実はそんなに甘くありません。

サッカー選手として成功するために、自分を犠牲にすることもあります。プライベート、家族、たくさんの時間を犠牲にすることを受け入れるメンタルも必要です。時には侮辱さえ受け入れなければならない。これは簡単なことではありません。

「私がFIFA会長だったら、大会の延期を提案したでしょう」

――ユーゴスラビア情勢が不安定になっていたころに開かれた1990年イタリア・ワールドカップには、どのように臨みましたか?

あの時、もし私がFIFA(国際サッカー連盟)会長だったら、大会の延期を提案したでしょう。開催したのは適切な判断だったと思えません。

アドリア海を挟み、一方ではユーゴスラビアの紛争があり、もう一方ではサッカーの大会で喜び、歌い、楽しんでいる人たちがいる。海の向こうでは人が死に、難民が増え、国が滅びているのです。

サッカーは今も昔も変わらない部分もあります。6月に開かれたサッカー欧州選手権ではイタリア代表に大きな期待が集まり、全ての試合に勝つと願う人もいました。そうはいきません。

アイスランドは無名のチームでしたが、躍進しました。このようなチームが勝つことは、決して奇跡でもなく、不思議なことでもありません。

自分と違う民族や宗教だからといって、色眼鏡で見てはいけません。一つのグループだけを見てもいけません。私はユーゴスラビア代表チームの監督でしたが、国内には6つの共和国がありました。異なる共和国の選手同士で対戦相手になることもあれば、代表として同じチームで戦うこともありました。

彼らは一緒に生活すること、プレーすること、対戦することに慣れていました。問題はすべての民族から公正に選手を集め、コンパクトなチームをつくること。私は意図的にそうしました。それぞれの民族から何人かの選手を選びました。もちろん選ぶのはいつもベストな選手たちです。ベストな選手であれば、お互いにバリケードを張り、外部の批判から自分たちを守ることができます。

私のことを共産主義者と呼ぶ人がいたかもしれません。逆に、私が一つの民族から選手を集めた時は、人種差別主義者と呼ばれたかもしれません。

でも、それは違います。チームはこの国の一部なのです。こうしたチームをつくることができたのは奇跡だったと思います。たとえば、セルビアとクロアチアだけのチーム編成は適切ではありません。

ベストな選手とは、実際にベストな選手です。誰がベストかを選ぶのに言語は関係ありません。サッカーとは、ベストな選手が集まった強いチームが勝ち進んでいくものです。問題は、当時、私たちが正直な考えを持っていることを、周りにプレーを通じて証明しなくてはならなかったことです。

こうした状況もいまは変わりました。どこの国の代表チームでも、外国人選手がプレーしているからです。これはサッカー界にとって大きな進歩ではないでしょうか。

スイスやドイツ、イングランドでも帰化した選手がプレーしています。彼らはチームの中で、選手として、人として、様々な問題について話をします。

サッカーはスポーツの中でも、人との距離が近いスポーツだと思います。良い友達もできます。例えばスイス代表チームの監督はボスニア人で、チームの半数はアルバニア人、イタリア人、トルコ人などです。

良いチームをつくるのに失敗すると、メディアは「チーム内でいがみ合っているのに、うまくいくわけがない」と騒ぎます。肌の色で分ける必要はなく、ベストな選手がプレーする、それだけです。重要なのは、人柄もベストであることです。

「サッカーは人を結びつけ、団結させることができる」

これからも進歩と発展を続けていかなければなりません。サッカーは人を結びつけ、団結させることができるスポーツです。ワールドカップや欧州選手権、アジア選手権などが、それを表現する重要な場になります。

見てください。ちょっと前までボスニア・ヘルツェゴビナやアイスランドがどこにあるかも知らなかった人が、サッカーが強くなったおかげで、今ではそれらの国々をよく知っているでしょう?

――1992年5月、ユーゴスラビア代表の監督を辞任した時の記者会見では、「個人的な意思表明であり、それを解釈するのは皆さんの自由。あえて説明しない」と話しました。辞任の判断に至った心の軌跡について聞かせてください。

私の発言は一種の挑発とも解釈できると思います。メディアも多数、来ていました。それによって多くの人たちが、サラエボで紛争と爆撃があることを知りました。街が爆撃され、大勢の死者が出ていました。

私は抗議を示したのです。代表監督かどうかは重要ではなかったのです。あの瞬間、私はこれが道徳的な行為なのだと思いました。

注目すべきは、そのような状況にあったユーゴスラビア代表チームの中で、民族を問わず多くの選手がいい友達を作っていたことです。当時の代表チームはメンタルの強さを兼ね備えていました。ナショナリズムの問題も抱えていませんでした。彼らは今でも連絡を取り合う仲です。監督だった私にも、「元気にしていますか?」と電話をかけてきてくれます。

強い絆は今でも健在です。試合の結果よりも大切なのは、彼らが真の友達であること、今でもその関係が続いていることです。何かトラブルがあれば、お互い助け合います。私が選手や監督としてサッカーを通じて築いた関係は、今でも固く結ばれています。これが私の人生の中で最も素晴らしいものです。

ピクシーことストイコビッチはセルビアで、カタネッツはスロベニアで、バジダレヴィッチはボスニアで、パンチェフはマケドニアで、サビチェビッチはモンテネグロで、シュケルはクロアチアで、それぞれサッカー界を引っ張っています。ハリルホジッチは日本代表の監督ですね。

「郷愁をそそるものに進歩はない」

私はサッカーに、自分が純粋な人間としていられるよう助けられました。貧しい人たちに手をさしのべることです。スター選手は、いつまでもスター選手ではありません。彼らも今では普通の人になったのです。

当時の23人の選手は、今でも一つのグループとして、あの時代から一緒に生きています。彼らが私と同じような考えを持っているかは分かりませんが、彼らは相手にとって「堅いクルミ」、つまりとても手強い相手だったことは確かです。

若い人たちにとっては、とても素晴らしく良い例になるでしょう。違うチームで対戦しながら、代表チームでは一緒に暮らし、友情の関係を築いた。これがサッカーにおいて最も素晴らしい側面です。

――オシムさんの言葉通り、サッカーとは人生を表すものなのだと思います。国を背負ってピッチに立ちながら、ピッチ上では国を背負わず自由に動く。一見矛盾しているようにみえますが、その中で戦っています。

当然ながら、監督はそれを選手に期待しています。私たちにとってサッカーは仕事です。一緒に働いている以上、仲間に不利になるような仕事をしてはいけません。私が話し、あなたが記事を書くのが今日の仕事ですので、私はあなたたちに迷惑をかけるようなことはしません。

お互い助け合うことによってチームは強くなります。いま昔の教え子たちの多くが監督になっています。教え子たちのことを話すのは、ユーゴスラビアへの郷愁といえるのかもしれません。

ですが、ノスタルジアは危険なものです。郷愁をそそるものに進歩はありません。サッカーは、つねに前進していくものです。今日のサッカーよりは明日のサッカーの方が向上しています。人生も同じです。あなたの仕事も同じですよね?