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ボスニアの融和はまだ遠い 一つの校舎、教室は民族ごと

ニューヨークタイムズ 世界の話題
トラブニクの分離学校の校庭。サッカーボールをフェンス越しに投げ返そうとするボシュニャク人生徒=2018年10月8日、Laura Boushnak/©2018 The New York Times

中世の都市トラブニクはボスニア・ヘルツェゴビナのほぼ中央に位置する。ボスニア内戦が終わって20年以上になるが、この街にある学校は内戦の遺産を引きずったまま、真ん中が金網フェンスで仕切られている。

生徒は毎日、同じ学校に通いながら民族別に分かれて勉強している。別々の教科書を使い、別の言語で学習する。郊外からやってくるクロアチア人は校舎の右側半分で授業を受ける。その大半はカトリック教徒だ。ほとんどが市内に住むボシュニャクと呼ばれるイスラム系住民たちは左側半分の教室で受ける。

多くの生徒にとって、この分離授業は1990年代にセルビア人、クロアチア人、そしてイスラム系住民間で起きた民族紛争の、望まぬ遺産である。「彼ら(ボスニアの政治家たち)は、私たちが学校でみんなと交流するのを望んでいないのだ」とボシュニャク人の生徒イマン・マスリッチ(18)は言った。

「だから、私たちは放課後にカフェに行って、そこで一緒に過ごしている」と。

だが、生徒が望もうが望むまいが、ボスニアでは民族間の分断が深まっている。民族主義者の政治家たちが、再び対立をあおっているからだ。

トラブニクは、オスマン帝国時代はボスニア州の州都(訳注=1697~1850年)だった。19世紀の後半、ボスニアがオーストリア・ハンガリー帝国に占領されると、「一つの屋根の下に二つの学校」として知られる教育制度が導入された。トラブニクの学校は、その教育制度の一部を象徴している。
かつてボスニアがユーゴスラビアの一共和国だった社会主義時代、校舎は共和国が管理していた。しかし、今日ではカトリック教会が建物を所有し、右側半分にある教室と神学校の運営を担っている。左側半分はボスニアが管理運営する国立高校になっている。

カトリック側は、左側の国立高校を立ち退かせたいと思っている。だが、そのクロアチア人側と人口が圧倒的に多いボシュニャク人側の思惑は、内戦を終結させた米国主導のデイトン合意(訳注=1995年、正式名称はボスニア・ヘルツェゴビナ和平協定)の遺産を引きずって、もつれあったままだ。

ボスニア和平協定は確かに平和をもたらした。しかし、和平合意は事実上セルビア人とクロアチア人、ボシュニャク人たちが住む地域を区分けすることで成り立っており、民族的かつ宗教的に深い亀裂を刻み込んでしまった。その最たる例が、分離学校に象徴的に表れている。

一つの学校が民族的、宗教的に分離されていては、相互の敵対心を社会全体に永続させるだけだ、と警告する評論家もいる。ボスニアの教育分野を監視する欧州安保協力機構(OSCE)は最近、「民族的指向に根差したカリキュラム」は和解を妨げ、民族間の分離を永続させて「経済開発を抑えて長期的な安定と安全を危険にする」と警告、分離教育システムを放棄するよう促した。

一方、トラブニクの北西の町ヤイツェのある学校では、カトリック教会の代表がクロアチア人生徒をボシュニャク人生徒から分離させたがったが、生徒たちが反発し、一緒に勉強できるようになった。
それでも、分離教育システムはなくならない。

同じ校舎でも、授業は別々の階の教室で、あるいはトラブニクのように校舎を左右に区切って民族的に分離する。そういう学校が、ボスニア各地に少なくとも50校ある。民族集団のための法にもとづく指定教科書を使って、歴史、文学、音楽、数学、科学を学ぶ。全ての世代がそうして育って行く。
ボスニアの政治家や民族主義者たちは、こうした分離教育制度を黙認している。何人かの若い政治家は、制度を放棄するよう呼びかけている。その多くは分離教育を受けてきた政治家だ。
「私たちの子どもたちを『一つの屋根の下に二つの学校』に通学させたくはない」。ボスニア社会民主党のラナ・プルリッチ(25)は最近行われた選挙キャンペーン中、そうツイートした。「だからこそ、私たちは『すべての人びとのための国』を実現するために闘っています」と。彼女は内戦中、クロアチア人の父とボシュニャク人の母の間に生まれ、モスタルにある分離高校を卒業した。

ボスニアは内戦終結以降、セルビア人主体の自治地域(訳注=「スルプスカ共和国」)とボシュニャク人とクロアチア人主体の連邦(訳注=「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」)に分けられた。ボスニア政府の構成も非常に複雑で、セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人がそれぞれの大統領職を選ぶ(訳注=民族別に3人の大統領職が「大統領評議会」を構成して8カ月ずつ議長となって国家元首の役割を務める)。2018年10月の総選挙では、民族色を露骨に出した論戦が繰り広げられた。

特にクロアチア人の民族主義者たちは、民族分離制の変革に抵抗した。多民族あるいは国立の学校はクロアチア人の自治地域を得る上で障害になる、というのが大きな理由だ。
「内戦が終わって以降、強硬派の民族主義者たち――彼らはクロアチアの民族アイデンティティーとボスニア内におけるクロアチアのミニ国家構築のために闘っている――は、学校を戦場に変えてきた」。モスタルの政治評論家で作家のアディサ・ブスラジッチはそう説明した。

トラブニクの学校に話を戻す。首都サラエボから西方に90キロの同校は、分断国家をまさに象徴している。校舎の右側半分、クロアチア人生徒用の部分は、カトリック教会の手で新しく改装され青いペンキが塗られた。ボシュニャク人などが通う左側半分は、欠けたレンガ造りのままで黄色いペンキも剥げかけている。授業時間も、休憩時間に双方の生徒が交流するのを避けるために30分ずらしている。

広々とした室内運動場があるが、これはクロアチア人生徒専用。左側半分の生徒は体育の時間になると、猛暑の夏でも酷暑の冬も近くの公園での授業となる。

先述の同校生マスリッチはボスニア高校生連合の会長を務めている。制度化された分断の現状を退学する以外に克服するにはどうしたらいいか、会長として全国の学生と定期的に話し合っている。
「私たちは実生活ではなく、書面上で分断されているだけだ」と彼女は断言した。

言語も一つの壁となっている。「セルボ・クロアチア語」として知られるスラブ系の共通言語は、デイトン合意後に三つの公用語(訳注=ボスニア語、セルビア語、クロアチア語)に分けられた。セルビア語だけはキリル文字を使っているが、明らかな方言の違いを除けば、話し言葉はいずれも似たようなものだ。

同校に通う女子学生、ガブリエラ・ズラトゥニッチ(18)は民族的にはクロアチア人と明かしたうえで「正直、話し言葉には大きな違いはない。私たちはお互い、よく理解している。学校の外に出れば、違いなんてない」と言った。

ボスニアにおける分離学校の第1号は、1995年の停戦後にモスタルに現れた。町はネレトバ川を挟んで民族的に事実上分断されている。町の西側に住むクロアチア人はモスタルを自民族地域の首府にしたがっている。内戦中に、西側に住んでいたイスラム系住民を追い払い、その後川にかかる橋を破壊した経緯がある。

モスタルを流れるネレトバ川にかかる橋スタリ・モストは、クロアチア人が支配的な西側とボシュニャク人が支配的な東側を結ぶ。有名な観光地でもある=2018年10月9日、Laura Boushnak/©2018 The New York Times)

今日、モスタルのエリート高校は内戦時代の最前線だったところにあり、西側に住むクロアチア人と東側のボシュニャク人の生徒たちが1階と2階にある教室で勉強している。教室や化学および生物の実験室は双方とも使用するが、他民族の生徒と一緒に授業を受けることはない。授業は常に一つの民族の生徒だけで行われる。

だが3階は、ボスニア各地から民族に関係なく学生が通うユナイテッド・ワールド・カレッジ(United World Collage=UWC、訳注=ロンドンに本部を置く非営利の国際学校)になっている。

モスタルのユナイテッド・ワールド・カレッジ。民族を問わず学生が一緒に勉強している=2018年10月10日、Laura Boushnak/©2018 The New York Times

「私たちの下の階は分離学校」。UWC教頭のMark Felthamはモスタルでのインタビューで言った。「理想的でないことは明らかだ」。そう言いながら、Felthamは分離学校禁止の法制化自体には慎重だった。モスタルはボスニア第4の都市であり、今も内戦の影響を引きずっているからだ。

トラブニクの学校の生徒たちは、当然のことだが内戦の戦闘経験もなければ生まれてもいなかった。それなのに、内戦の重圧にくたびれていた。

みんな「僕らの頭越しにある、あの金属フェンスと障害物を取り払って」前向きに生きたいのだ、と言ったのはアルサム・ガシだった。彼は民族的にはアルバニア人の学生で左側の国立高校に通っているが、クロアチア人とサッカーに興じ、イスラム系住民とはラマダン(イスラムの断食の月)を、カトリックとキリスト教正教の人たちとは2度のクリスマスを共に祝う。

「内戦中、君の家族はどちらの味方をしていた、なんて誰も聞いたりしない。僕たちはこの町で共生できるのに、どうして同じ学校で一緒になれないの?」。ガシはそう問いかけるのだった。

同校を訪ねた時、クロアチア人側の校庭で、生徒たちがサッカーをしていた。一人が蹴ったボールがフェンスを越えて国立高校側に入った。居合わせた生徒がボールを拾い上げてクロアチア側に投げ返した。両方とも笑顔を見せたが、無言だった。(抄訳)

(Barbara Surk)©2018 The New York Times

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