三つの宗教
ユーゴスラビアは「南スラブ人の国」という意味。南スラブ人はセルビア人、モンテネグロ人、スロベニア人、マケドニア人、ボシュニャク人、ブルガリア人などを総称しており、中世ヨーロッパ時代にバルカン半島一帯に広がっていった。
当時、この地を支配していたのはビザンツ帝国(東ローマ帝国)だった。その影響で、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人、ブルガリア人の間ではギリシャ正教が広まった。
一方、スロベニア人とクロアチア人は西ヨーロッパから拡大してきたフランク王国の支配下に入り、カトリックを受け入れた。
14世紀になると、バルカン半島にはオスマン=トルコが進出、その支配を受けたボシュニャク人はイスラム教に改宗した。
19世紀には、バルカン半島はオスマン=トルコ、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の大国が牽制し合う場所になった。
トルコに支配されていたスラブ系民族らが団結して独立を目指す「パン=スラブ主義」の動きが出てくると、同じスラブ系のロシア帝国がこれを利用し、オスマン帝国と開戦。勝利した結果、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアを独立させた。
一方、オーストリア=ハンガリー帝国はこのとき、トルコ支配下のスラブ系住民が住むボスニア・ヘルェゴビナの施政権をトルコ側から譲渡され、最終的には併合した。
だが、この地域にはセルビア人が多数暮らしており、セルビアは併合に反発。バルカン半島は緊張感が高まり、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。
そして1914年、オーストリア皇太子夫妻がボスニアのサラエボを訪問した際、セルビア人の民族主義者が2人を暗殺したのをきっかけに両国だけでなく、それぞれを支援する国々も入り乱れて第1次世界大戦が勃発した。
大戦で敗れたオーストリア=ハンガリー帝国は1918年に解体し、その結果、セルビアが主体となって、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人からなるセルブ=クロアート=スロベーヌ王国が成立。約10年後にはユーゴスラビア王国と改名された。
ティトーのもと団結
第2次世界大戦が始まると、ユーゴスラビア王国はドイツなどによって占領されたが、ユーゴスラビア共産党員のティトーがパルチザン(人民解放軍)を率いて抵抗。東欧諸国で唯一、ソ連の力を借りずにドイツ軍を退けた。
戦後は六つの共和国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)と、コソボなど二つの自治州からなる社会主義国家ユーゴスラビア連邦が誕生した。
多民族、多宗教からなるモザイク国家だったが、ティトーのカリスマ性と指導力によって国はまとまり、民族主義を主張する者は監視や摘発の対象とするなど、少数民族にも配慮した。
同じ社会主義国でもソ連とは一線を画し、東西冷戦にあって中立を守り、多くの国と良好な関係を築いた。国は発展し、1978年にはサラエボでの冬季オリンピック開催(1984年)が決まった。
冷戦終結、解体始まる
ティトー死去(1980年)後、後継者たちは指導力を発揮できず、経済も低迷。民族や宗教間の対立が次第に強まり、各勢力の体制変更に向けた動きが始まった。
まず最初に動いたのが、ユーゴスラビアで最大勢力を誇っていたセルビアだった。指導者ミロシェビッチ氏が冷戦終結の翌1990年、セルビア内のコソボ自治州の自治権を縮小し、影響力を強めた。
コソボ側は住民投票に基づく独立宣言で応じるが、セルビアは拒否した。
一方この年、スロベニア、クロアチア、マケドニアが相次いでユーゴスラビアからの独立を宣言。翌1992年にはボスニア・ヘルツェゴビナも独立を決めた。ところが、最大人口を占めるイスラム教徒のボシュニャク人が国を仕切ることを嫌ったセルビア人、クロアチア人はそれぞれ独自の共和国樹立を宣言した。
それ以降、三つどもえの内戦に発展し、自らの支配地域からほかの民族を虐殺や暴力によって排除する「民族浄化」を繰り広げた。
ボスニアでは独立めぐり、内戦に
内戦が終わる約5カ月前、東部の都市スレブレニツァでボシュニャク人がセルビア人武装勢力に虐殺される事件が起きた。
セルビア人勢力はセルビア共和国に近い東部において支配地域の拡大を図り、ボシュニャク人を次々と殺害したり、強制的に追い出したりした。
スレブレニツァが孤立する形で残り、国連はここをいかなる武力行為からも守られるべき「安全地域」に指定、平和維持活動のためにオランダ軍が派遣された。
ところがセルビア人勢力の侵攻は止まらず、食料などの輸送を妨害した。北大西洋条約機構(NATO)が空爆などの軍事介入をすることでようやく終結した。
ボスニア・ヘルツェゴビナは国連の調停で和平協定が結ばれ、ボスニア・ヘルツェゴビナは存続することになった。しかし、その中でボシュニャク人とクロアチア人主体が「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を、セルビア人は「スルプスカ共和国(セルビア人共和国)」をそれぞれ構成し、独自の行政、議会運営をすることになった。
民族浄化によってふるさとを追われた人たちの帰還や民族同士の和解が国際的な支援を受けながら進められているが、スルプスカ共和国の政治家やセルビア系住民の中には今なお、事件をジェノサイドとは認めない人も多く、ボシュニャク人との緊張関係が続く。
コソボ問題
四つの共和国が独立し、残されたセルビアとモンテネグロは国名を変えながら同じ国家を形成していたが、1996年にはモンテネグロが独立し、ユーゴスラビアの枠組みは消滅した。
だが、セルビア内のコソボ自治州をめぐっては問題は沈静化していなかった。コソボはイスラム教徒のアルバニア人が多数を占め、セルビア人は少数派だった。アルバニア人たちは独立を目指し、武装組織「コソボ解放軍」を設立し、1998年からセルビアへの攻撃を激化させた。
和平交渉が決裂し、犠牲者が増える展開にNATOが軍事介入を決定。1999年、セルビア側の軍事施設やインフラに対して空爆を開始した。
戦闘は終結したが、コソボの地位をめぐる国際的な協議が不調に終わる中、コソボは2008年、一方的に独立を宣言し、110カ国超の承認を得たが、ロシアや中国などは認めず、国連にも加盟できていない。
戦犯法廷
ユーゴスラビア解体の過程で生じた紛争などで起きた民族浄化や集団レイプなどに関わった関係者について裁く「旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷」が1993年、国連決議によって設置された。
150人を超す関係者が国際人道法違反の罪などで起訴された。コソボ紛争でアルバニア系住民の殺害や迫害などを主導したとして人道に対する罪に問われたミロシェビッチ元ユーゴスラビア大統領=公判途中の2006年に病死=や、スレブレニツァ虐殺事件を主導したとされるセルビア人勢力の元司令官ムラジッチ氏=ジェノサイドなどの罪で終身刑=らも含まれた。