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「戦場で育った子どもたち」の経験を伝える

World Now 更新日: 公開日:
ハリロビッチさん(左端)と会議に参加したゲストスピーカー

ボスニア包囲戦の体験から考える「平和」 広島市で開かれた世界経済フォーラム地域会議で GLOBE2月7日発行号の「笑いの力」特集で紹介したボスニア・ヘルツェゴビナの作家・編集者、ヤスミンコ・ハリロビッチさん(27)が3月、広島市を訪れた。同市で開催された世界経済フォーラム(ダボス会議)公認の地域ブロック会議「SHAPE」に参加するためで、会議初日のスピーチでハリロビッチさんは、ボスニア包囲戦での自身の体験を踏まえて「平和を実現するには戦争を体験した人の生の声に耳を傾けることが大切」と訴えた。(中村裕)

地域ブロック会議「SHAPE」とは、世界経済フォーラムが認めた33歳以下のメンバーによる年に一度の集い。メンバーはシェイパーと呼ばれ、世界中で4000人以上が任命されており、北米、ヨーロッパなど世界9地域に分かれて各地域の課題解決に向けた取り組みが期待されている。日本はアジア太平洋地域に属し、原爆投下から70年を経た広島市での開催にちなみ「世界平和」をテーマに議論した。広島会議には世界36カ国から約100人のシェイパーが集まった。

ヨーロッパのシェイパーとして活動するハリロビッチさんは、アジア太平洋地域での集いに参加するのは初めて。初訪問となった広島の印象について「原爆ドームや平和記念資料館の展示は衝撃的だった。いっぽうで破壊の痕跡を見つけるのが難しいほど見事な復興を遂げていることに驚いた」と語った。

ハリロビッチさんのスピーチの要旨はつぎの通り。

私は、戦場となった街で子ども時代を過ごしました。より安全な場所へと転々と避難を重ねた日々、休戦状態が訪れるたびに近所の子どもたちと遊んだ記憶、大好きだった一つ年上の女の子が銃撃で落命したことを知ったときの悲しみ、妹が誕生して新しい時代の訪れを予感したこと……。それから20年を経て、平和についてこんな思いを抱いています。平和とは何か。それは一度失ってみないと本当の意味で理解できないのではないか。では、戦争とは何か。逆にこれは、戦時下で過ごした経験があるからといって、わかったことにはならない。

2010年に、「戦場で育った子どもたち」プロジェクトを立ち上げました。戦時下で子ども時代を過ごした経験を今に伝えるプロジェクトです。その第1弾が、本の出版でした。編集作業にあたって、同じような境遇にいた何百人ものひとたちとやりとりをしたのですが、その経験を通じて、ようやく気がついたのです。戦争とは、年齢によっても置かれた状況によっても異なるものだと。戦争とは、ひとつひとつの声に耳を傾けなければ、わからないものだということを。

会場となった広島国際会議場

私は、とりわけ戦場で子ども時代を過ごした人たちの声に耳を傾けたいと思っています。子どもは戦争責任のない唯一の世代であり、大人よりも戦争によるダメージが大きいからです。

本の出版に続き、戦場で育ったときの思い出の品々を集めた博物館をつくる準備も進めています。本と博物館という二つのプラットフォームが、戦場で育った子どもたちがつながる場になればいいと考えました。実際、嫌な記憶しかないサラエボには二度と戻るつもりはなかったという女性がサラエボに来て、自身の体験を語ってくれました。本がきっかけとなったのです。

平和を実現するにはどうすればいいでしょうか。私たちは少なくとも、戦争を経験した人々の声に耳を傾け、戦争とはいかなるものなのかと考え、平和について語り合うことができる。インターネットはその助けになるでしょう。そのようにして戦争と平和への理解を深めることが、平和を実現する可能性を高めることになるのだと私は思います。

                 ◇   ◇

会議からしばらく経った3月24日、オランダ・ハーグの国連旧ユーゴスラビア国際法廷は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で集団殺害(ジェノサイド)の罪などに問われた元セルビア人勢力指導者ラドバン・カラジッチ被告(70)に禁錮40年を言い渡した。この判決をサラエボで知ったハリロビッチさんからGLOBE編集部に次のようなメッセージが届いた。

判決を言い渡した旧ユーゴスラビア国際法廷に出廷したカラジッチ被告=Reuters

旧ユーゴスラビア国際法廷がラドバン・カラジッチに判決を下したその日、僕はサラエボのカフェで仲間と「戦場で育った子ども博物館」設立準備の相談をしていた。いまは人類学者、歴史学者、社会学者として活躍しているその仲間たちも、元「戦時下の子ども」だ。

カフェのウェートレスがBGMのボリュームを下げ、代わりにテレビの音量を上げた。カラジッチへの判決がまさに読み上げられようとしたときだった。僕はミーティングに気持ちを集中しようとしたが、無理だった。裁判官がカラジッチの罪状を厳かに読み上げていた。判決が僕たちにとってどんな意味を持つのか、話し合った。読み上げられる訴因が、それぞれの記憶をよみがえらせた。判決が宣告されたとき、僕は全身が麻痺したように無感覚だった。泣いている仲間がいた。ただ黙って座っている仲間もいた。サラエボのカフェのざわめきの中で、みんなそれぞれのやり方でカラジッチ時代の記憶に区切りをつけているように見えた。

その日、ボスニア・ヘルツェゴビナの街角で市民にインタビューしている模様をテレビで見た。スルプスカ共和国の老婦人は「カラジッチは神だ」と言っていた。30代とおぼしき壮健な男性は「判決は、ヨーロッパと全世界の恥だ」と吐き捨てた。無実のカラジッチが、政治によって意図的に断罪されたのだという。サラエボの若い女性も「判決はヨーロッパと全世界の恥だ」と同じ表現を使った。だが、その理由は、判決が軽すぎるというものだった。率直にいって、ボスニアにおいて、旧ユーゴスラビア国際法廷の評判は悪い。だれにとっても納得のいく判決が下されることはないからだ。

それぞれの理由で判決に納得がいかない人々が、明日にはいつも通りの日常を送る。みんなが納得できる日の訪れを待てるほど、人生は長くない。みんなの関心事は、再び日々の生活のやりくりになる。若い世代は、欧州で最悪の若年層の失業率を記録するこの国で、職を見つけることに懸命にならざるをえない。サラエボ包囲戦から20年がたち、その過去に向き合うことがとても難しい状況になった。市民の名のもとで犯した罪と向き合うことが、とても困難な時代になった。この国の政治家も、過去に向き合うことに慎重だ。

戦争が起きていない状態という意味での平和が、いつかは本当の意味での平和となるだろう。だが、僕たちの親の世代には間に合わない。僕たちの世代は少し希望がありそうだ。カラジッチへの判決は、これから生まれてくる世代にとって、とても重要だ。国際法廷は、カラジッチの人道上の罪と虐殺の責任を認めた。未来の世代は、僕たちや僕たちの親の世代のように、埋められない溝を巡る議論で時間を費やすことなく、この事実にもとづいて会話を始めることができるからだ。


Jasminko Halilović
作家、編集者。NPO法人URBANアソシエーション代表。編著書に『ぼくたちは戦場で育った』(集英社インターナショナル)