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アフガニスタンとタリバンを解説 グレートゲーム、ソ連侵攻、9.11テロ、米国の空爆…

World Now 更新日: 公開日:
アフガニスタンの歴史を振り返ると、外部勢力からの侵入と内戦の連続だった=GLOBE+編集部作成
アフガニスタンの歴史を振り返ると、外部勢力からの侵入と内戦の連続だった=GLOBE+編集部作成

イスラム主義勢力タリバンが20年ぶりに権力の座に復帰したアフガニスタン。古くより内部での部族間抗争や他国との戦争が相次いだこの国の歴史を振り返る。

古代はイラン王朝などに従属

古代よりアフガニスタンの地は、メディア王国やアケメネス朝ペルシャなどイラン系王朝の勢力圏だった。

その後もアラビア半島からのイスラム諸王朝やモンゴル帝国、ティムール帝国に占領されるなど外部の支配が続いた。

本格的に国が形成されたのは1747年になってからだ。イラン(アフシャール朝)に属していた遊牧民パシュトゥン人らが独立し、王国(ドゥラニー朝)が成立。ただ、国内の権力闘争が続いて支配者が交代するなど安定はしなかった。

「グレート・ゲーム」で犠牲、そして再独立

一方、対外的にはイギリス、ロシア両帝国の「グレート・ゲーム」に巻き込まれていった。インドを征服して北上するイギリスと、南下政策を採るロシアがアフガニスタンで「鉢合わせ」し、この地が争奪の対象となった。

ロシア帝国とイギリスの「グレート・ゲーム」の状況=Google mapsをもとにGLOBE+編集部が作成
ロシア帝国とイギリスの「グレート・ゲーム」の状況=Google mapsをもとにGLOBE+編集部が作成

イギリスはロシアに対抗するため、1838~1919年の間に計3回、アフガニスタンと戦争。第2次の戦争の後、アフガニスタンはイギリスの保護領となったが、第3次の後、再び独立を達成した(1919年)。

アフガニスタンとパキスタンの国境になったデュアランド・ライン。これにより、パシュトゥン人の居住地がアフガニスタンとパキスタンに分断されることになった=GLOBE+編集部作成
アフガニスタンとパキスタンの国境になったデュアランド・ライン。これにより、パシュトゥン人の居住地がアフガニスタンとパキスタンに分断されることになった=GLOBE+編集部作成

独立後、アフガニスタン王国は憲法を制定するなど立憲君主制に移った。だが、急激な改革は保守的なイスラム法学者たちの反感を買い、反乱が起きるなど不安定化した。

軍人でパシュトゥン人のナディル・シャーが混乱を収めて王に即位したが暗殺され、息子のザヒル・シャー氏が19歳で王位を継いだ。

憲法を改正し、女性の参政権を実現させるなどしたが、親類のダウド元首相が1973年にクデーターを起こし、王政が廃止された。クーデター当時、ザヒル氏はイタリアに滞在しており、そのまま亡命生活を送ることになる。

ソ連の介入

ダウド氏はアフガニスタン共和国を樹立し、自ら大統領になったが、イスラム主義勢力のほか、元々同じ親ソ連派として関係が良好だったアフガニスタン人民民主党の一派も弾圧するようになった。そのため、1978年に同党を支持する将校らが起こしたクーデターによって殺害された。

アフガニスタン人民民主党は社会主義政権(アフガニスタン民主共和国)を樹立したが、2代目の指導者アミン議長がイスラム法学者を弾圧し始めた。混乱が収まらない中、1979年、政権から「要請」があったとしてソ連が侵攻。アミン氏を殺害し、親ソ連派のカルマル政権を擁立した。

アフガニスタンに侵攻した際、ソ連軍が使い、遺棄された戦車=2007年5月、アフガニスタン東部のパルワン州
アフガニスタンに侵攻した際、ソ連軍が使い、遺棄された戦車=2007年5月、アフガニスタン東部のパルワン州

ソ連の侵攻に抵抗したのはムジャヒディン(ジハードに参加する戦士)たちだった。国外からも義勇兵として集結し、その中には、のちにアメリカ同時多発テロの首謀者となるオサマ・ビンラディンもいた。

また、東西冷戦の当時、ソ連と対立していたアメリカがパキスタンを通じてひそかにムジャヒディンらを支援していた。

オサマ・ビンラディン。1997~1998年に撮影されたという=©Hamid Mir/Wikimedia Commons
オサマ・ビンラディン。1997~1998年に撮影されたという=©Hamid Mir/Wikimedia Commons

タリバンの登場

ソ連は1989年に撤退し、その3年後にはソ連が擁立したナジブラ政権も崩壊した。ムジャヒディンによる暫定政権が樹立するが、各派間による争いは続いた。そうした中、厳格なイスラム主義を掲げるタリバンが南部から勢力を拡大。1996年にカブールを制圧し、新政権を樹立した。

タリバンは厳格なイスラム主義に基づく政治を実行。服装を厳しく規制したり、音楽や写真、娯楽を禁じたりした。女子教育も禁止した。タリバンはアフガニスタンの最大民族パシュトゥン人が中心で、少数民族のハザラ人らを弾圧するなどもした。

2001年には、タリバンは偶像崇拝を禁止していることからバーミヤンの石仏を爆破した。

バーミヤンにあった高さ38メートルの石仏。左は1977年、右はタリバンが完全に破壊したあとの2001年にそれぞれ撮影=アフガニスタン北東部のバーミヤン渓谷
バーミヤンにあった高さ38メートルの石仏。左は1977年、右はタリバンが完全に破壊したあとの2001年にそれぞれ撮影=アフガニスタン北東部のバーミヤン渓谷

タリバンはほかのムジャヒディンの一部が結成した北部同盟と争った。その一方で、当時アメリカにテロ攻撃を仕掛けていたビンラディンと彼が率いる国際テロ組織アルカイダを自国にかくまい、アメリカから彼らの引き渡し要求を受けても拒否し続けた。

テロとの戦いで再び戦場に

2001年9月11日、アルカイダがアメリカで同時多発テロを起こすと、アメリカは再びビンラディンらの引き渡しをタリバンに要求した。タリバンが拒否をすると、アメリカは他国と有志連合を結成。アフガニスタンへの攻撃に踏み切った。

アメリカ同時多発テロ事件で、旅客機が墜落し、炎上するワールドトレードセンタービル=2001年9月11日、ニューヨーク、©Robert J. Fisch/Wikimedia Commons
アメリカ同時多発テロ事件で、旅客機が墜落し、炎上するワールドトレードセンタービル=2001年9月11日、ニューヨーク、©Robert J. Fisch/Wikimedia Commons

これによりタリバン政権は崩壊、代わってザヒル元国王派のハミド・カルザイ氏が大統領に就いた。だが、2006年ごろから再びタリバンが勢力を盛り返し、テロ攻撃を交えて政府軍や国際治安支援部隊(ISAF)と戦った。

2011年、パキスタンに潜伏していたオサマ・ビンラディンをアメリカの特殊部隊が殺害。これを機に、アメリカのオバマ大統領(当時)は一時、アフガニスタンから駐留軍を撤退させようと計画したが、政情不安のため見直した。

ビン・ラディンを急襲する作戦現場からの同時中継を見守るオバマ大統領(左から2人目)ら米政府首脳=2011年11月、ホワイトハウスの危機管理室、ホワイトハウス提供。機密書類の一部にぼかし処理
ビン・ラディンを急襲する作戦現場からの同時中継を見守るオバマ大統領(左から2人目)ら米政府首脳=2011年11月、ホワイトハウスの危機管理室、ホワイトハウス提供。機密書類の一部にぼかし処理

アメリカ軍撤退、タリバン復権

様々な部族が勢力圏をつくり、腐敗が絶えない政権を横目にタリバンは地方を中心に事実上の支配を固めていった。

アメリカ第一主義を掲げるトランプ大統領(当時)は2020年2月、駐留軍を段階的に撤退させることでタリバンと合意した。次のバイデン大統領も撤退方針を変更することはなく、2021年8月30日、アメリカ軍は完全撤退した。

タリバンは9月7日、暫定政権を発足させた。反対勢力や女性を排除する一方、国連の制裁対象になっていたり、アメリカの捜査当局が行方を追っていたりする強硬派を閣僚にするなどしている。

アフガニスタン駐留米軍の撤退に向け、米国と合意したタリバーン幹部ら=2020年2月、ドーハ
アフガニスタン駐留米軍の撤退に向け、米国と合意したタリバーン幹部ら=2020年2月、ドーハ

国内にはアルカイダの残存勢力が活動を続けており、良好な関係を維持しているとみられる。一方で、過激派組織「イスラム国」(IS)の支部組織「ISホラサン州」が東部で台頭、タリバンとは敵対関係にある。

ISホラサン州は8月26日にカブールの国際空港付近で起きた連続爆破テロについて犯行声明を出しており、今後双方の対立が激しくなることが予想され、予断を許さない情勢になっている。

アフガニスタンの勢力図=GLOBE+編集部作成
アフガニスタンの勢力図=GLOBE+編集部作成
アフガニスタンの歴史まとめ(古代~ソ連侵攻、タリバン登場)=GLOBE+編集部が作成
アフガニスタンの歴史まとめ(古代~ソ連侵攻、タリバン登場)=GLOBE+編集部が作成
アフガニスタンの歴史まとめ(アメリカによる空爆~アメリカ軍の完全撤退、タリバン復権)=GLOBE+編集部が作成
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