家の外に、見慣れぬ物体が落ちていた。それを見つけたミルザ・グル一族の11人が集まった。子供10人のうちの2人が手に取ったのを見て、ジャリル(16)は危険を察知した。
2018年4月29日、朝6時。アフガニスタン東部ナンガルハル州の州都ジャララバードに近い村ファテ・アバドでのできごとだった。近くでは前夜、反政府武装勢力タリバーンと政府軍との間で戦闘があった。落ちていたのは、不発の小型ロケット弾だった。
ジャリルが奪い取ろうとすると、もみ合いになった。不発弾は地面に落ち、爆発した。
戦争が長引くこの国でも、めったにない悲惨な日となった。
日が暮れるまでに、4人が病院で亡くなった。ブレクナとサフワ(4)の母娘、ブレクナのめい(6)、それにジャリルだった。ただ一人の大人ブレクナは、家畜のふんを燃料にする作業をしていてその場にいあわせた。
生き残った7人のうち3人はジャリルの弟で、あとの4人はそのいとこたちだった。いずれも、近親者を亡くした悲しみに加えて、過酷な運命を背負うことになった。5人が片足を、2人が両足を奪われたのだった。みんなが担ぎ込まれたナンガルハル地域病院の医師たちは2日間、寝る間を惜しんで治療にあたった。足の負傷がひどかった。そして、次々と切断せざるをえなかった。
「手術室で泣けてきた」と整形外科長のサイード・ビラル・ミアケルは振り返る。「手足の切断手術は数多くこなしているが、このときはみな同じ一族の子ばかりだった」
「立ち上がろうとしたら、足がなかったんだ」。ジャリルの弟のアブドゥル・ラシド(12)は、爆発の後で意識を回復したときのことをこう話す。弟のマンガル(11)は爆発後、はって家に帰ろうとしたが、気を失った。目が覚めると、病院にいた。
生存者は誰も、腕や手、頭にはけがをしなかった。ひざから下の部位を失った子は、義足があれば助かるだろう。ただし、切断面の傷を治すには、何カ月もかかる。
その前に、合併症との闘いがあった。手術の繰り返し。一つの病室で、四つのベッドを7人で分け合ってのことだった。
早く退院できるようになった子もいる。しかし、3人には長期の入院が必要となった。 「命を助けることはできる。でも、今後の治療やリハビリを考えると、もっと設備の整ったところに移した方がよい」とナンガルハル州公衆衛生局長のナジブラー・カマワルは言う。「どの子にも、マンツーマンのケアをすべきだが、ここでは難しいので、外国で受け入れてもらった方がよい。でも、そんな経済的なゆとりは、この一族にはない」
ジャリルのいとこのシャフィクラー(13)は、両足をひざから上の部位で失った。まだ、少なくとも二つの手術が待っている。
それでも、早く家に帰りたいと医師に訴えるのは、学校の勉強に遅れるのを気にしているからだ。もうすぐ、自分の6年生のクラスの大事な試験が始まる。だから、教科書とノートを持ってくるよう家族にせがんだ。「試験は絶対に受けたい」と、持ってきてもらった教科書などをポリ袋に入れ、寝るときも枕の下で大切に保管している。
ジャリルの父親ハミシャ・グル(65)は、亡くなったブレクナの兄でもある。
その父親にとって、ジャリルは自慢の子だった。「1年生から8年生まで、いつもクラスで一番の成績で、英語も覚えようとしていた。弟たちの勉強の面倒もよく見ていた」
弟は、双子のアブドゥル・ラシドとバシール(12)、それに1歳下のマンガルの3人だ。父親のハミシャは読み書きができないが、息子はみな勉強が好きだ。
左足のひざから下を切断したバシールは、病院のベッドで大好きなパシュトゥー語(訳注=アフガニスタンの公用語の一つ)の練習帳を見せてくれた。書き方を学ぶ帳面の文章の一つには「神のご慈悲があり、健康でいられますように」とあった。
両足のひざから下を失ったアブドゥル・ラシドは、医師になりたいと話した。右足のひざから下をなくしたマンガルは、技師になるのが夢だ。
それを聞いていた父親の目からは、涙があふれそうになった。「まだ、歩けなくなったことを分かっていないんだ」
その将来が、いかに大変なことか。この国の戦争の犠牲者の大多数は民間人だ。それも、子供が多い。政府や援助機関はなんとかしようと必死だが、思うような成果をあげられないでいる。
ジャララバードは、赤十字国際委員会が義肢を製造できる整形外科を設けるほどの拠点都市だが、援助機関の多くは活動を大幅に縮小している。18年1月に子供の教育などを支援する国際NGO「セーブ・ザ・チルドレン」の事務所が武装集団に襲われ、多くの死傷者が出たからだ(訳注=過激派組織「イスラム国」が犯行声明を出したとされる)。
今回の7人のうち、ひざから上を切断した子供が動けるようになるには、車イスが必要だ。村の未舗装の道路は、車イスのさまざまな妨げになるだろう。それでも、動くには欠かせないものだけに、外部の援助でなんとか入手するしかないが、めどはまったく立っていないのが実情だ。
生き残った7人のうち、女の子は2人。マルワ(4)とそのいとこのラビア(7)だ。マルワは、母親のブレクナと双子の姉妹サフワを失った。
2人とも痛みがひどく、病室のベッドで身をよじらせるようにして泣いていた。2人の叔母で、先のシャフィクラーの母親ロル・ポラは、脇に座って慰めてあげるのがやっとだった。
他の子供たちも泣き始めた。家に帰りたい。痛いよう。おなかがすいた……。
自宅のある村は、依然として反政府勢力と政府軍と戦闘の最前線にある。
地元の警察幹部は、今回の不発弾はタリバーンのものだと主張する。
タリバーンの報道官は、政府軍のものだと反論する。「戦闘現場に残すような余分な弾薬なんて、こちらにはない。われわれとはまったく関係ない」
そのはざまで暮らす一族は、どちらの責任かについては語ろうとはしない。
「こんな状況が、ずっと続いているんだ」とハミシャは言った。「どちらのせいかなんて、こちらには分かりっこない」(抄訳)
(Richard Martyn Hemphill) © 2018 The New York Times
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