西アフリカのガンビア共和国のヤヤ・ジャメ大統領が大統領選挙に負けたにもかかわらず、退陣を拒み続けているというニュースが昨年12月、世界中を駆け巡った。セネガルやナイジェリアなど西アフリカ諸国が加盟する西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の軍事介入を受け、ジャメ氏は今年1月にようやく辞任を受け入れ、赤道ギニアへ亡命することになった。
ガンビアは人口約200万。大西洋とセネガルに囲まれたアフリカで最も小さな国の一つだ。ジャメ氏は20代だった1994年、軍事クーデターで政権に就いてから22年間、独裁政治を続けてきた。
金や石油といった資源も、カカオなどの高価な農作物も採れず、主にピーナツ生産に頼る小国のガンビアが国際的な注目を浴びたり、まして日本のニュースに取り上げられたりすることは滅多になかった。ここ数年で注目をされたのは、ジャメ大統領が08年にLGBTの人々に「国外へ出て行かなければ喉を切り裂く」と宣言して国際人権団体から非難された時、09年にガンビア政府が魔女狩りにかかわっている疑惑が報道された時、15年に 女性器切除がガンビアの法律で禁止されることが小さなニュースになった時くらいだ。
命がけで取材する記者たち
06~07年、大学生だった私はガンビアを訪れ、「The Point」紙に所属する約20人のガンビア人記者たちと一緒に取材活動をした。紙面に掲載する写真を撮らせてもらうこともあった。ガンビアで当時発行されていた新聞は政府系「Daily Observer」紙と独立系「The Point」紙の2紙だけだった。
ガンビアは憲法で言論、思想、報道の自由が保障されている。しかし、ジャメ大統領が政権に就いて以降、政府を批判する記事を書いた記者たちが直後に行方不明になったり、逮捕されたり、国外追放されたりした。私の同僚であり友人でもある記者たちにとって、ガンビアで新聞記者を続けるのは命がけだった。
「The Point」紙はとてもこぢんまりとした平屋の建物で作られていた。建物の中にある15畳ほどのクーラーのない部屋で、記者たちは汗を垂らしながら紙に記事を手書きし、パソコンを扱うスキルのある技術者が打ち込んでいた。私も時々、打ち込み作業を手伝った。社員である記者の月給は新人で1000円ほど、ベテラン記者でも5000円ほどで、ガンビアの物価から考えても決して高い金額ではなかった。命の危険をおかしてまで記者活動を続けていたのは、ただでさえ情報が伝わりにくいガンビアで「伝えること」の意義を見いだし、やりがいを感じていたからだった。
あれから10年。当時お世話になった記者たちの多くは今、アメリカやヨーロッパで暮らしている。 命を狙われてガンビアにいられなくなったケースがほとんどだ。アメリカへ渡り、生活していくために米軍兵士になった者もいる。政府の汚職を徹底的に取材し、新しい独立系新聞社を創設した友人の記者ハビブはその直後の08年、自宅で遺体となって発見された。
ドイツの難民収容所で
ヨーロッパへ逃れた友人の記者で編集者でもあったジャスティスを訪ねるため、私は昨年、ドイツ南部の街ウルムへ向かった。中央駅のベンチに座って私の到着を待っていたジャスティスと9年ぶりに再会した。スラッとした姿やキリッとした目元は以前と全く同じだ。
彼が暮らしているという場所へ案内されると、そこは難民収容施設だった。さまざまな国や地域からの難民たちが暮らす団地のような建物が、広い敷地に点在している。ジャスティスが暮らす建物にはアフリカ各地からやってきた何百人もの難民たちが一部屋に5~6人ずつ共同生活をしていた。
大学生だった私に取材の仕方を教え、上司でもあったジャスティス。彼が置かれている現状を目の当たりにし、私は複雑な気持ちになった。彼の所持品はベッドに置いてある小さなリュック一つ。1年近くこの施設で暮らしているという。
9年前、ジャスティスはジャメ大統領に批判的な記事をアメリカのメディアに密かに送っていたことを政府に知られた。その直後の08年7月1日の夜中、ナイフを持った政府関係者に襲撃され、けがを負いながら国外へ脱出した。その後、リビアに渡って建設関係の仕事をしたが、内戦が悪化し、難民船のゴムボートでイタリアへ渡り、2年前にドイツにたどり着いたという。
2年前といえば、ヨーロッパの難民問題が繰り返し報道されていた時だ。中東・アフリカ地域からヨーロッパをめざす難民船の事故で、1年間で3500人以上が命を落としているという報道もあった。 私がイラクで取材をしていた人々も命をかけてヨーロッパを目指していた。言葉や文化、生活様式が全く違う遠い国に命をかけてでも移りたいと思わざるを得ない人々の苦境は想像を絶する。
かつての同僚であるジャスティスもその中の一人だった。彼らの状況を他人事とは思えず、何とも言えない感情がこみ上げてきた。 木組みの色鮮やかな家々が連なる中世の街並みが遺されたウルムの市街地を一緒に歩きながら立ち寄ったカフェで、ジャスティスが店員とドイツ語で立ち話をしている様子を見た時、ドイツでジャスティスと再会していることの不思議さを実感した。
いつか、ガンビアへ
ジャスティスは政府から支給される月250ユーロ(約3万円)ほどを食費や衣料費にあて、語学学校でドイツ語を学んでいるという。
「僕が難民になるなんて、ガンビアにいる時には想像もしなかったよ。ここでは僕が『ブラック』というだけで、ドラッグの密売人みたいな目で見られるんだ。いつかドイツの大学に入り、ジャーナリズムを学び、独立したいと思っている。それでもガンビアの情勢が変わり、記者にとって安全な国になれば、いつだって戻りたい。記者以外の仕事をしている自分は考えられない」
そう話すジャスティスの表情が忘れられない。
ジャメ大統領が退陣した今年1月、世界各地に散った「The Point」紙の元同僚たちのFacebookには喜びのコメントが溢れた。私はジャスティスに再び連絡してみた。しばらく動向を見守り、アダマ・バロウ新大統領の元で安全が確保されそうな状況になれば帰国したいと話していた。お世話になった「The Point」紙の記者たちと再びガンビアで一緒に取材活動が出来る日が来ることを願っている。