「大開脚」でかっこ悪さをさらけ出す ミランダ・ジュライが最新刊で描く「中年の危機」
――最新作は、いわゆる中年の危機(ミッドライフ・クライシス)ものです。中年の危機の物語は男性を主人公にしたものが多い中、珍しい女性目線でもあるし、これだけ正直な内容も初めて読みました。
ミランダ・ジュライ自身、「危機は変化を連れてくるものだから、ポジティブなことでもあるはずだ」というようなことを考えながら書いたらしいんです。そういう意味では、いま加齢や身体の変化などによって「瀬戸際」にいる気持ちになっている人にも、何らかの光明になり得る作品ですね。
主人公が女性の産婦人科医に「閉経していいことって、何かあります?」と聞くと、「出産可能な年齢であるあいだは女性の体は本当には女性自身のものではありませんからね」と答えます。つまり、産む性としての社会的な役割が終わった時、初めて女性の体は女性自身のものになる、と。このセリフはある意味この本の核心だと思います。
読書会でも女性読者たちのディスカッションが盛り上がったらしいですが、ミランダ・ジュライの小説は常に「今わたしの人生こんなだけど、みんなどうよ?」と語りかけているところがあるんですよね。
――著者自身が、勇気を持ってさらけ出してくれるので、会話の突破口になりますね。
かっこ悪いところを、大開脚で見せてくれますね。しかもこの人がすごいのは、そのかっこ悪さを俯瞰(ふかん)しているので、随所にユーモアが生じるところです。だから訳していて本当に楽しかったです。
――岸本さんは、デビュー作『いちばんここに似合う人』以来、ミランダ・ジュライの小説3冊すべての翻訳を手がけてきました。
一度ある作家のものを訳すと、だいたい次も同じ人が訳すという不文律がなんとなくあるので、放っておけば私が訳す感じではあったんですけど、でも「新作です」と渡されて読んだらやっぱりめちゃくちゃ面白くて、もう絶対これは訳したいって思いました。
――訳で苦労した点はありましたか?
主人公の子どものサムは、原文では人称代名詞がheでもsheでもなくtheyで、性別がわからないように書かれています。ノンバイナリーの人に使われる代名詞で、私は前から「これに当たった翻訳者、どうするんだろうな」と高みの見物を決め込んでいたのですが、ばっちり当たってしまいました。
――男の子だと思って読んでいましたが、よく考えたらサムはサマンサの愛称の可能性もありますね。
そうそう。日本語では人称代名詞を省くなどして性別をわからなくする方法はあるんですが、「自分の子どもをtheyと呼ぶ親である」ということは情報としてわかった方がいいので、何カ所かで「子」の横に「ゼイ」とルビを振りました……って、まあ苦肉の策ですけど、すでにthey問題に直面している翻訳家たちで集まって会議を開きたい。
――訳しているときは、登場人物にハリウッドの俳優の顔を当てはめて視覚化するそうですね。
はい、ただ今回の主人公は、どうしてもミランダ・ジュライ自身が思い浮かびました。今回の小説は主人公がミランダ自身にプロフィル的にも近いですし、彼女も「ある程度自伝的と思われても構わない」って宣言してるんですね。
ダサいモーテルに大金をつぎ込んでゴージャスに改装しちゃうというのも、いかにも彼女がインスタレーション作品でやりそうなことだし。
――七転八倒の限りを尽くして、最後の数ページでまたモーテルの彼の話を回収するのもいい結末でした。
年下の彼はダンサーという設定ですが、ダンスは本作にとってすごく大事な要素ですね。旅に出る前の主人公は頭と体がバラバラでしたが、自分自身の体と出会い直し、再発見する。そこにいたる装置がダンスなのだと思います。
モーテルの部屋で2人がストロボをたいて踊るシーンはとても美しくて、泣きながら訳しました。全編、「自分とつながり直す」ということが一つのテーマなので、最後ダンスで終わるというのは必然のような気がしました。
私が好きだったのは、主人公が買ってきたものの、夫の美意識に合わなくて玄関に押し込められていたライオンの置物のエピソードです。あるとき家に遊びに来た夫の彼女が、その置物を見て「あら、これ素敵」と褒めてくれる。主人公はその瞬間、夫の恋人であるにもかかわらず彼女を「守る」と決意する。そんな女性同士の絆が随所で描かれています。ミランダ・ジュライの小説には、これまでも女性がたくさん出てきたし、女性同士の恋愛も描かれてきましたが、こういう絆は初めてだと思います。
著者あとがきにもありますが、この本を書くにあたって、更年期や加齢にまつわる『ロード・オブ・ザ・リング』的な話を書く、というコンセプトのもと、女友達に山ほどインタビューして、それをどんどんパソコンのフォルダーに放り込んでいって、もう何千というファイルの中から生まれたのがこの本、という背景があるそうです。女性同士の連帯は、この本の成り立ちからしてすごく影響しているようです。
――ミランダ・ジュライに限らず、訳す作品の基準はありますか?
自分と響き合うものがあるかどうかを選ぶ基準にしていますね。読んでて声が聞こえてくるような。それって完全に「相性」なんですよね。
――書かれている内容との相性?
内容もだけれども、作者の持ってる固有の周波数というか、息遣いだったり、体温や匂いだったり。そういう言葉にならない、オーラ的な部分の相性。そういう相性って本と人の間にもあると思うんですよ。やっぱりどんなに面白くても、なんか相性が違うなっていう本は訳せないし、訳さない方が本にとっても訳者にとってもいいです。
――ルシア・ベルリンも相性が合ったんですか?
ルシア・ベルリンは読んだ瞬間打ちのめされて、もう相性とかじゃなく、「訳さずには死ねない」みたいな感じだったんですよね。リディア・デイヴィスもそうです。私は仕事が遅いので、「ちょっと好き」くらいの作品まで訳してたら命がいくつあっても足りないので、そこは選んでいます。
――今、急速にAIの精度が上がってきていますが、文芸翻訳の未来はどうなると思いますか?
AIが普及することによって危機にさらされる職業第1位は翻訳家なんですよ。「そうは言っても文芸は人間の手でなければね」とよく言われるけど、私はそれも怪しいと思っています。
誤訳をしないのはもちろん、「岸本佐知子風の翻訳にしろ」とオーダーしたらそれっぽいものができちゃうと思うんですよね。ただ、読者が「岸本が選んだ本だったら読んでみるかな」という、翻訳者としての私への信頼を持ってくださるのなら幸いですけども。
……ちょっと暗い話になってしまいましたが、でもやっぱり最終的には、人間の翻訳の勝ちだと私は思っています。
――なぜですか?
やっぱりAIって膨大な量のデータの集積にすぎません。でも人間の翻訳は、たとえば私なら私が生まれてからこれまでの、偏った人生の軌跡を通して翻訳してるわけですよね。それは「偏り」だけれど、その偏りがやっぱり私なのであって、私の偏りと原作の偏りのハーモニーが、手作業の翻訳の強みにならないかなって思ってるんですけどね。読み手のみなさんも、そういう人間の力への信頼みたいなものを持ちつづけてほしいな、と思います。