「監視ではなく安心を」フランス発ORIKIOが挑む「AIの耳」は、日本の介護をどう変えるか
1. カメラを一切使わず「音」だけで部屋全体の異変に気づくシステム。誰にも見られたくないプライベートな空間で、お年寄りの安心と尊厳を守る
2. 介護現場のリアルな物音を集めた莫大なデータと、元スタッフの「現場の目線」をAIに学習させることで、見間違いや見落としがほとんどない高い精度を実現した
3. 「事故が起きた原因を突き止め、次につなげたい」という日本独自のニーズに合わせ、異変が起きたときの録音時間を(フランスでの設定より長い)前後の3分間に変更した
4.「テクノロジーは人を孤独にさせるものではなく、自分らしく生きる自信をくれるもの」。メニューCEOが目指すのは、人の温もりを大切にする介護の現場を、最先端の技術で支えること
――ORIKIOの設立は2016年とのことですが、そもそもなぜ「音声分析」という分野で起業しようと考えたのでしょうか。
私と共同創業者たちは、もともとフランスやアメリカの大手テック企業で働いていたエンジニアでした。私はIBM、パートナーたちはGoogleといった環境でキャリアを積んできましたが、自分たちの技術で社会に直接的なインパクトを与えたいと考え、スタートアップの世界に飛び込みました。
当初、私たちは漠然と「音声分析に基づいた新しいAIアプリケーション」の可能性を探っていました。しかし、具体的な方向性を示してくれたのは、私たち自身ではなく現場の人々でした。AI分野のコンサルタントとして活動していた際、病院や介護施設の運営者から「施設内での音声支援がのどから手が出るほど欲しい」という切実な連絡をいただいたのです。
――現場の人々は、具体的にどのような課題を抱えていたのですか?
看護・介護の本質は、実は「耳」にあります。熟練のスタッフは、廊下を歩きながらでも、部屋から聞こえるかすかな物音や呼吸の乱れを感じ取り、高齢者の異変を察知します。しかし、深刻な人手不足の中では、1人のスタッフがすべての部屋に耳を澄ませ続けるのは物理的に不可能です。
そこで私たちは、2018年に資金調達を行い、2019年から1年間をまるごと「現場を知るための期間」に充てました。エンジニアである私たちが、看護師や介護スタッフの方々と昼夜を問わず行動を共にし、彼らがどのように動き、どのような瞬間にストレスを感じ、どのような情報を必要としているのかを、徹底的に観察したのです。この「現場への没入」こそが、現在の製品のDNAとなっています。
――見守りシステムには、すでに「カメラ」を用いたものも多く存在します。あえて「音」だけに焦点を絞ったのはなぜですか?
カメラではなく音を選ぶことには、機能面と倫理面の両方で決定的な優位性があるからです。
まず機能面ですが、カメラには物理的な「死角」が避けられません。特定の角度に設置しなければならず、家具の影やバスルームの中までは見通せません。
一方で音は、部屋のどこにいても、壁の向こう側であっても、電源プラグ一つあれば空間全体をカバーできます。マイク一つで、ベッドの後ろからバスルームの中まで、30~40平方メートルの範囲を人間の耳と同じか、それ以上の精度で把握できるのです。
――倫理的な側面、つまりプライバシーについてはどうお考えですか?
特にヨーロッパでは、プライバシーへの意識が極めて高いのが現実です。誰だって、自分が裸になる場所や、最も無防備な睡眠時をカメラで記録されたいとは思いません。
率直に言って、カメラによる監視は高齢者の尊厳を傷つけるリスクをはらんでいます。
音であれば、誰が何をしているかという映像情報を排しつつ、異常事態だけを的確に抽出できます。プライバシーを保護しながら安全を確保する――このトレードオフを解消する唯一の答えが「音」だったのです。
――AIが150種類以上の音を識別できるとのことですが、その精度はどのように実現したのでしょうか。
私たちは2018年から、実際の施設から抽出した膨大な音声データを基に、世界でも珍しい巨大なデータベースを構築してきました。転倒した時の衝撃音、歩行の乱れ、嘔吐(おうと)の音、すすり泣き、さらには睡眠中の呼吸パターンまで、あらゆる音を網羅しています。
特筆すべきは、私たちのチームに多くの「元介護スタッフ」が在籍している点です。彼らは、現場において「どの音が緊急性を要し、どの音が生活の一部として聞き流してよいか」を熟知しています。AIの学習過程において、この介護のプロフェッショナルたちが「音の重み付け」を直接指導しました。
――その結果、現在ではどの程度の精度に達しているのですか?
誤検知は1%以下、重大な事故の検知漏れはゼロという極めて高い水準を達成しています。
私たちのAIはクラウド上で動作しており、現場の介護者からのフィードバックを受けて継続的にアップデートされています。現在では、個々の高齢者のライフスタイルに合わせて、検知する内容をカスタマイズできるほどに進化しています。
――このシステムは、フランスなどを中心に欧州6カ国以上で5000室以上の介護施設などに導入されているそうですね。今回、アジア進出の第一歩として日本を選んだ理由は何でしょうか。
日本は世界で最も高齢化が進んでいる国の一つであり、同時にヨーロッパと同じく「介護者の圧倒的な不足」という深刻な課題を抱えています。
私たちは、単に製品を売るためではなく、この共通の社会課題を解決するパートナーとして日本を選びました。
――日本市場に合わせて、製品の仕様を変更した部分はあるのでしょうか。
はい。日本の介護現場のプロフェッショナルたちと対話する中で、非常に重要な文化の違いを発見しました。それは「予防」に対する意識の高さです。
ヨーロッパでは「事故が起きたらすぐに駆けつける」ことに主眼が置かれますが、日本の介護現場では「なぜその事故が起きたのか、予兆はなかったのか」を分析し、再発を徹底的に防ごうとする姿勢が顕著です。
そのため、これまで異常を検知した際の記録時間は事故の前後30秒に限定していましたが、日本向けモデルでは前後3分間程度へと大幅に延長しました。これにより、事故が起きる直前の様子をより詳しく音で振り返り、環境改善に役立てることが可能になりました。
――なぜ、ヨーロッパでは30秒に限定していたのですか?
親というものは、子どもから監視されることを嫌うものです。ですから私たちのシステムは、プライバシーの侵害を排除し、安全との完璧なバランスを追求しました。両親には自由に振る舞う権利がありますし、私自身、彼らの日常を逐一把握したいとは思いません。
確かに、無事を確認したいという思いはあります。しかし、私たちが知るべきなのは日々の行動ではなく、「異常の有無」だけです。両親の自由と尊厳を守りながら、万が一の事態には即座に対応できる最大限の安全を提供する。それこそが、テクノロジーが果たすべき真の責任ではないでしょうか。
ただ、世界展開していくうえで、その度合いは文化や慣習の違いも影響してくると考えています。今回日本のケースでは前後3分に拡大しました。プライバシーとのバランスにおいて繊細な調整を要しましたが、日本のニーズに合わせた柔軟なカスタマイズの一例といえるでしょう。
――従来のナースコールやボタン式の呼び出しシステムとは、何が決定的に違うのでしょうか。
従来のボタン式システムは、20年前の入居者層には機能していました。しかし今、ヨーロッパでも日本でも、施設に入居する方々の高齢化が進み、90代の方が中心となっています。
彼らの多くは、転倒した際、強いストレスやめまい、あるいは認知機能の低下によって「ボタンを押す」という動作ができなくなります。必要のない時に何度もボタンを押してしまったり、逆に本当に必要な時に手が届かなかったりするのです。
私たちのシステムは、入居者が自らアクションを起こさなくても、AIが沈黙の中にある異常を感じ取ってスタッフを呼び出します。
――テクノロジーが介護に入り込むことへの不安を感じる家族もいるかと思います。
私たちが提供しているのは「監視」ではありません。それは「安心」です。
「自分は一人ではない、困った時には必ず誰かが気づいてくれる」という確信があれば、高齢者は自信を取り戻します。不安だからと部屋に閉じこもるのではなく、外へ出たり、新しいことに挑戦したりする意欲が湧いてくるのです。
私たちは家族や友人の代わりにはなれませんが、高齢者が自分の人生を自由に、自信を持って生きるための「安全な土台」を提供することができると考えています。
――最後に、メニューさんご自身のご家族についても伺えますか。
実は、私の両親の自宅にもこのセンサーを設置しています。両親は「子供に管理されたくない」というプライドを持っていますが、リビングの壁に取り付けられた小さな箱を、彼らはただのWi-Fiルーターか何かのように思っており、全く気にしていません。
私は、両親が何を食べているか、誰と話しているかといった日常のすべてを知る必要はありません。それは彼らの自由です。しかし、もし彼らがキッチンで転倒したり、呼吸困難に陥ったりした時には、即座に知る責任があります。
プライバシーという尊厳を守りながら、安全を最大限に確保する。この「見守りの民主化」こそが、私たちが日本、そして世界に届けたい価値なのです。