リンゴが何にも言わなくても 人間としての成長とは 西垣通・東大名誉教授に聞く
AIを教育の場で使うことが広がっています。人が使う際の基本は「自分でジャッジできるものについて使う」ことだと考えます。主導権は人間にあるべきです。
漢字や英語のつづりを忘れてしまった、英文を書くときにチェックしてもらう――。そんな時にAIを使うのはうまい活用法。なぜなら自分である程度、妥当かどうかを判断できるからです。ただ、あまりにAIに寄りかかった教育は必要ないはずです。
コンピューターの始まりと発展は、西洋からです。そこには、ユダヤ教やキリスト教といった一神教の世界観があります。人間や宇宙は唯一神が作ったものであり、人間よりも高い知性が存在するという考えです。
コンピューターはそうした「人間を超えた存在」への挑戦です。古代ギリシャ哲学の系譜を受けて世界は論理でできているとし、人間の思考もコンピューターの中で表現できるとの考えが基本にあります。つまり、人間の思考は情報処理と同じだということです。
本当でしょうか。戦後のヒット曲「リンゴの唄」にこんな歌詞があります。「リンゴは何にも いわないけれど リンゴの気持ちは よくわかる」
科学的論理では、リンゴに気持ちはありません。でも私たちは初めてこの歌を聞いた時でさえ、その意味するところがよく分かります。「比喩」を理解する力と心、つまり想像力が人間にはある。そうした心を持つ存在として他者と共感し合い、人は成長していくのではないのでしょうか。
機械は情報を、ビット(0か1か、といった情報の最小単位)で表し、計算しているだけです。この理解こそAI時代には必要で、そこをないがしろにした教育などありえません。
AIの中でもとりわけ生成AIについては、教育の場で使うことには慎重であるべきだと思っています。
幼児と言葉について考えてみましょう。子どもが「おなかがすいた」と言うとき、それは体の求めから出ています。いわば身体というリアルが根源にある。それが言語活動のベースです。
一方で、生成AIが作り出す文章は、そうではありません。膨大な文章を統計処理して、Aという言葉が出たら、次にB、Cを持ってくる……と「もっともらしい」文章を計算で出しているだけです。
生成AIの技術力には頭が下がる思いですが、全く無批判に受け止めて、言葉を体得していく子どもにAIの使い方を身につけさせるのは愚の骨頂です。的確なプロンプト(コンピューターに指示を与える命令文)を早く書けるようになったからといって、それが何でしょうか。相手はしょせん、統計処理しているだけです。
人間の思考はアブダクション、すなわち観察された結果から最も妥当な仮説を導き出す「仮説推論」の積み重ねです。だからこそ人は、全く新しい状況にも対応して生きていけるのです。ここが過去のデータのみに基づくAIと決定的に違うところです。例えば、地面が朝ぬれていたら夜間に雨が降った、と推論するわけですが、誰かが乾燥予防に水をまいたとか、土管から水漏れした可能性もある。
アブダクションを支えるのは経験であり、経験も人によって様々。よってアブダクションも多様です。
未来がどうなるかは誰にも分かりません。だからこそ、人間は時間をかけて経験し、思考し、異なる意見との共通点を探りながらコミュニケーションを取り、多様なアブダクションの中から、その時の最適解を見つけて生きていく必要があります。
それが民主主義であり、教育とは、そうした人を育てていく営みではないのでしょうか。