パレスチナ人ラッパーが語る 現実を変えない音楽 狂わないためのセラピーで悪いか
「ラップや音楽が現実を変えるなんて思っていない。ただ、聴いた人が少しでもましな気分になる。一日、頭がおかしくならずに済むなら、それで十分だ」
イスラエル中部ロッド在住のラッパー、タメール・ナファル(46)は、電話取材に静かな声でそう話した。アラブ・ヒップホップの草分け的なグループ「DAM(ダム)」のメンバーで、パレスチナ人屈指の人気ラッパーだ。
パレスチナ人とは、イスラエル建国時よりも前からその地域に住んでいたアラブ人とその子孫のことだ。イスラエル建国に伴い、もともと住んでいた地域から追い出され、イスラエルや現在のパレスチナ自治区などに広がって住んでいる。
一般的にイスラエル領内に残り、イスラエル市民権を得て生活しているアラブ人をアラブ系イスラエル人と呼ぶ。ナファルもそうだが、彼は「イスラエル人」と呼ばれるのを嫌い、自身はあくまで「パレスチナ人」だと説明する。イスラエル社会の中で形式上は市民権を与えられていても、不利な扱いを受けてきたことへの反発が背景にある。
占領地のガザやヨルダン川西岸とは違う、イスラエル社会の中にいるナファルら少数派が、2023年10月以降の戦闘のさなか、ラップの力をどう考えているのかを知りたかった。
アラビア語のラップは、1990年代に欧米のヒップホップとともに中東各地に広がり、2010年からの「アラブの春」以降、街頭に出た若者たちの表現として一気に存在感を増した。その流れの中で、DAMは最も知られたパレスチナ人ヒップホップグループになった。
第2次インティファーダ(対イスラエル民衆蜂起)が始まった2000年代初めの代表曲『誰がテロリストか?』は、職務質問や家宅捜索の日常を歌い、「本当に暴力を振るっているのは誰か」と問い返す曲として広くアラブ圏で知られている。
DAMの特徴は、占領や差別だけを告発してきたわけではないことだ。パレスチナ自治政府の腐敗や治安部隊の暴力、自分たちのコミュニティー内部の女性殺害や家父長制にも繰り返し言及してきた。『If I Could Go Back in Time(もし時間を戻せるなら)』では、パレスチナ社会に残る女性への暴力を、殺害された女性の視点から詞に盛り込んだ。自分たちの社会の暴力構造を真正面から批判している。
かつてナファルは、「アラビア語ヒップホップはパレスチナのCNNだ」と米紙ニューヨーク・タイムズなどの取材に語った。米国のラッパー、チャック・Dの「ラップは黒人社会のCNNだ」という言葉を踏まえたものだ。ニュースにならない現実をラップで伝える─ヒップホップは彼にとって「もう一つのニュースメディア」でもあった。
だが今、その力について問うと、冷ややかとも受け取れる答えが返ってきた。
「前は、歌うことが記録の役割も果たしていた。でも今は違う。わざわざ伝えなくてもみんな知っているだろ。犯罪も空爆も、映像はあふれている。現場の動画、衛星画像、あらゆるレベルでジェノサイド(集団殺害)が『ライブ配信』されているんだ。それでも何も変わらない」と淡々と説明した。
「じゃあ一曲の歌がこんな犯罪を止められるのか。何十億という金が動いて変わる現実を、ラップがひっくり返せると思う方が、バカだろう?」
イスラエル国内に住みながら第一線で活動を続けるナファルの目と鼻の先にある、ガザでは多くのパレスチナ人が命を落とし、ヨルダン川西岸でも「テロ対策」と称するイスラエル軍の作戦で、死者が増えている。そうした現実を目の当たりにしているからこその言葉だ。
それでも、彼は曲作りをやめない。「自分にとってラップは、理性を保つためのセラピーなんだ」。ガザで親族や友人を失った悲しみ、イスラエル社会の中でパレスチナ人として生きる怒り、そして日常の冗談……。それらをどこかに流さなければ「自分が壊れてしまう」。
最近は、イスラエルの有力紙ハアレツなどにガザ戦闘をめぐる論考を寄せる一方、国外ツアーやフェスのステージにも立ち続けている。「音楽は政治を変えない。それははっきりしている。でも意味がないんじゃない。政治が変わるまで、自分たちが狂わずに生きるための『インフラ』にはなれると思っている」と話す。非常時のパレスチナで、ヒップホップは「世界を変える魔法」ではなく、「人が壊れないように支えるインフラ」として機能している。