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イスラエルのパレスチナ「併合」発言、アラブ世界はなぜ怒らない

ニューヨークタイムズ 世界の話題
FILE -- A Palestinian farmer walks along a dry irrigation canal in the Jordan Valley near Bardala, West Bank, on Dec. 22, 2013. At one time, if the prime minister of Israel had vowed to extend Israeli sovereignty over the Jordan Valley in the occupied West Bank, the unilateral promise would have set off outrage across the Arab world. (Rina Castelnuovo/The New York Times)
ヨルダン川西岸バルダラ付近のヨルダン渓谷。灌漑(かんがい)用水路は干上がり、その脇をパレスチナ人農民が歩いていた=2013年12月22日、Rina Castelnuovo/©2019 The New York Times

イスラエルが第3次中東戦争(訳注=1967年6月)で占領したヨルダン川西岸地区。そこにあるヨルダン渓谷までイスラエルの主権を広げる、と同国首相が公約しようものなら、かつてならアラブ世界に怒りの炎が燃え上がっただろう。

だが、今日ではそんな事態は起きそうにない。

アラブ世界は、イスラエルの首相ベンヤミン・ネタニヤフが2019年9月10日、総選挙向けに打ち出した西岸の一部「併合」の公約に、押し黙っている。理由はいくつもあった。すなわち①ネタニヤフが右派の有権者にアピールしようと選挙の後半戦向けに打ち出したものと見られること②イスラエルはすでに実質的に問題の地を管理下に置いていること③パレスチナの大義(訳注=土地を奪われたパレスチナ人の権利回復)は、もはやかつてのようにアラブ世界の同情を呼ばなくなってきていること、だ。

「いや、彼ら(アラブ人)は、気にはしている」とアラブ世界を弁護したのはパレスチナ人ジャーナリストのDaoud Kuttabだった。「しかし、彼ら(パレスチナ以外のアラブ諸国)は自国の軍隊まで動かすだろうか?

ノーだ。では彼らがアメリカの銀行から預金を引き出すだろうか?ノーだ」と言うのだった。

中東地域では、多くのアラブ諸国の指導者とアラブ人がパレスチナの大義に対する優先順位を引き下げるという「戦略の変更」がなされた。ネタニヤフの公約は、その戦略変更後に打ち出された。しかも、イスラエルは他の係争地に関してもさまざまな形で一方的に「併合」を進めているが、米大統領ドナルド・トランプは、それを承認してくれた。今回の公約も、米大統領に後押しされる形で出てきた。

FILE -- President Donald Trump meets with Israeli Prime Minister Benjamin Netanyahu at United Nations headquarters in New York on Wed., Sept. 26, 2018. Prime Minister Benjamin Netanyahu of Israel said Tuesday, Sept. 10, 2019, that he would move to annex much of the occupied West Bank if voters return him to power in the election next week, a change that could dramatically reshape the protracted Israeli-Palestinian conflict. (Tom Brenner/The New York Times)
ニューヨークの国連本部で会談した米大統領ドナルド・トランプとイスラエル首相のベンヤミン・ネタニヤフ=2018年9月26日、Tom Brenner/©2019 The New York Times

中東地域ではエジプト、シリア、イエメン、それにイラクが「アラブの春」の民衆蜂起の後遺症や過激派組織「イスラム国」(IS)との闘いで足元がふらついており、内政問題に集中せざるを得ない。かつては「パレスチナ人の守護者」を任じていたサウジアラビアのようなペルシャ湾岸地域の君主たちも、今やイスラエルと同じように、イランの地域的影響力の方が懸念材料になっている。

こうした中東情勢の変化で、パレスチナの大義のために喜んで立ち上がってくれるアラブの同盟国は少なくなっている。

米シンクタンクのブルッキングス研究所特別研究員で、中東の地域紛争と米国に関する著作があるKhaled Elgindyは「中東地域のほとんどでは、パレスチナ問題は議題にならなくなってきた」と語った。

アラブ世界の指導者たちは、ネタニヤフが公約したヨルダン川西岸の一部「併合」への非難も回避するかもしれない。彼らにはネタニヤフと対決する力や意欲がないからだ。

「併合」公約が出たことで、「期待は高まっている」とElgindy。「彼ら(アラブの指導者たち)が『我々は反対する。(公約は)きわめて不快だ』と言えば、アラブの人々も指導者たちが何かしてくれるだろうと期待も出てくる」と予測した。

それは、アラブの民衆が気にかけていないということではない、とElgindyは念を押した。たとえ民衆が抗議活動に出なくても、「パレスチナ国家の樹立」という理念は、今もアラブ世界共通の希少な合意事項として支持されているのだ。

親米国でイスラエルとも平和条約を結んでいるヨルダンは特にそうだ。同国はネタニヤフが「併合」を公約したヨルダン渓谷に、ヨルダン川を挟んで隣接しているだけに、敏感になっている。

ネタニヤフの公約が出た9月10日、ヨルダン外相のアイマン・サファディは「和平努力をすべて台無しにするほど事態を深刻化させている」とツイッターで発信し、公約を批判。「それは、さらなる暴力と紛争につながるだろう」とも記した。

トランプがパレスチナ問題でイスラエルを明確に支持していることも事態悪化の一翼を担っている。

トランプ以前の米大統領たちは、パレスチナ問題では公平な立場を何とか維持しようとしてきた。彼らはイスラエルとパレスチナの「2国家共存」を支持しようと、パレスチナの代表たちともしばしば会談してきた。しかし、トランプはイスラエルに賭け、パレスチナ代表とは会っていない。そればかりか、パレスチナ解放機構(PLO)のワシントン事務所の閉鎖まで命じた。

トランプは、パレスチナの係争地におけるイスラエルの一方的な行動を承認して従来の政策まで変えた。エルサレムをイスラエルの首都として認め、米国大使館を移設した。エルサレムという「聖なる都」の地位は、交渉を通じて決定されるべきだ、としてきた米国の立場からも離反した。

FILE -- Jericho in the Jordan Valley in the West Bank, as seen from the Israeli settlement of Vered Yerigo on Dec. 24, 2013. Prime Minister Benjamin Netanyahu of Israel said Tuesday, Sept. 10, 2019, that he would move to annex much of the occupied West Bank if voters return him to power in the election next week, a change that could dramatically reshape the protracted Israeli-Palestinian conflict. (Rina Castelnuovo/The New York Times)
ヨルダン川西岸のイスラエル入植地「Vered Yerigo」から見えるエリコの街並み=2013年12月24日、Rina Castelnuovo/©2019 The New York Times

パレスチナ側は、東エルサレムをヨルダン川西岸とガザで構成する将来の「パレスチナ国家の首都」と主張している。

トランプは、イスラエルが1967年の第3次中東戦争でシリアから奪い、占領したゴラン高原をめぐっても、イスラエルの主権を承認した。

こうした動きにアラブ諸国が反応できなくなった以上、ネタニヤフのヨルダン渓谷の「併合」公約も、アラブ世界に波乱を巻き起こすようなことはないだろう。英王立国際問題研究所の中東・北アフリカプログラム長のリナ・ハティブは、そう語った。

「アラブ世界はネタニヤフの公約を事前の選挙キャンペーンだと見ようとするだろう。つまり、ネタニヤフは強固な政府をつくり上げるためにも総選挙で圧倒的な勝利を必要としているのだと」。彼女はそう見ている。

ヨルダン渓谷はイスラエルが67年に占領したヨルダン川西岸地区の中、ヨルダン川の西側に細長く広がっている。

イスラエルの人権団体 B’Tselemによると、ヨルダン渓谷には今、約1万1千人のイスラエル人が入植地に住み、聖書に登場するエリコの町や農牧地には約6万5千人のパレスチナ人が暮らしている。しかし、この地域の90%はすでにイスラエルの行政府と軍の管理下に置かれており、パレスチナ人は管理下に置かれた土地の約85%へは立ち入りも使用も禁止されているという。

イスラエルはこれまでもヨルダン渓谷の管理は自国の安全保障に不可欠だ、と主張してきた。ネタニヤフは公約を発表した際、同渓谷を「イスラエルの東側国境」と呼んだ。

これに対し、パレスチナ人や人権団体や多くの国々は、イスラエルはヨルダン渓谷を合法的に併合することはできない、と主張している。パレスチナ人にとって、同渓谷はパレスチナ国家建設構想に欠かせない地だ。

パレスチナ自治政府の議長マフムード・アッバスは声明の中で、もしイスラエルがこの地を併合したら「(これまで)イスラエルと調印したすべての合意と、それに基づいた義務は終了することになる」と明言した。

一方、イスラエルによるヨルダン渓谷の事実上の「併合」は、西岸地区の大半のパレスチナ人居住区が包囲されることにつながる。そうなるとおそらく「2国家共存」という解決策はとどめを刺されることになるだろう、と指摘する声も出てきた。

パレスチナ人ジャーナリストのKuttabは、「パレスチナ国家」を今も支持していると言った。しかし、彼の子どもたちはとっくに希望は捨ててしまった。彼らは、イスラエルはパレスチナ国家に必要な地を多すぎるほど占領していると感じている、とも語った。

「子どもたちは言う。西岸は(イスラエルの)入植地がいっぱいあって、(パレスチナの)国をつくるなんてできっこない、ってね。だから、より良い長期的な解決方法は、公平さを求めて闘うことだ」。Kuttabはそう語るのだった。(抄訳)

(Ben Hubbard)©2019 The New York Times

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