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下水道に14カ月 ホロコーストを生き延びた10人

World Now 更新日: 公開日:
ユダヤ人一家が隠れた下水道につながるマンホールの場所に立つ研究者
ユダヤ人一家が隠れた下水道につながるマンホールの場所に立つ、リビウ大学助教のハンナ・ティチカさん=喜田尚撮影

ウクライナ最西部の街リビウは、第2次世界大戦後に広まった「人道主義」の発祥の地。「ジェノサイド」と「人道に対する罪」という概念は両方とも、この街で学んだ法律家が生み出した。しかし、国の枠組みを超越した人権保護を、という理念とは裏腹に、力の論理の現実世界から紛争は絶えない。人道主義はもはや無力なのか。欧州・旧ソ連地域を長年取材してきた喜田尚記者が、街を歩いて考えた。
リビウの位置=Googleマップより

ラファエル・レムキンはドイツがポーランドに侵攻した際、故郷の両親に国外避難を説得できなかったことを生涯悔いた。1941年に独ソ戦が起きると、両親はポーランド東部の強制収容所に移送され、殺害された。リビウ在住だったハーシュ・ラウターパクトの両親も犠牲になった。

1940年のリビウの人口は31万。地元のホロコースト研究者、オレーナ・コルブさん(46)は、リビウのホロコースト犠牲者は、当時3分の1を占めたユダヤ人人口などをもとに9万~9万5000人だったと推定する。

そんな中、市の真ん中で14カ月も地下深くの下水道に潜み、虐殺を生き延びたユダヤ人一家がいた。

占領から2年近く経った1943年5月、ナチス当局がユダヤ人居住地区ゲットーを破壊して「最終処分」を始めると知ったこの一家の父親は、ゲットー内から地下の下水道へトンネルを掘る。その後、下水道網の中を移動。友人家族を含む21人のうち10人が、リビウが解放される1944年7月まで生き延びた。

それから70年以上経った2018年、一家の地下生活の跡を突き止めたのがリビウ大学のハンナ・ティチカ助教(33)だ。歴史研究者だが、ホロコーストは専門外。当初は「未知のものへの好奇心しかなかった」と言う。それまで現場の調査に手をつけた者はいなかった。

下水道見の取り図
地下の下水道に隠れてホロコーストを生き延びたユダヤ人一家が解放までの1年を過ごした場所は、車が行き交う大通りの真下にあった。リビウ大学助教のハンナ・ティチカさんが描いた見取り図左上の◎印が、彼女が立つマンホールの位置。青色の場所に10人が身を寄せ合っていたとみられる

終戦当時に7歳だった女性が後に米国に渡り、2008年に本を出版。ティチカ助教が関心を持ったのは、ポーランドで11年に公開された映画「暗闇の中で」(アグニエシュカ・ホラント監督、邦題は「ソハの地下水道」)を見てからだ。

女性の本は、1970年代に亡くなった父親が家族に残した手記がもとになっていた。入り口のトンネル【衛星写真A】は意外と早く見つかった。オペラ劇場の北へ約300メートル。付近にはかつてサウナがあり、上下水道の配管がしっかりしていた。

リビウ中心部の衛星写真
リビウ中心部の衛星写真=©Google

ただ、そこからが難題だった。探り当てたトンネルから下水道に下りてみれば、先は迷宮のような水路のネットワーク。雨が降ると、汚水の流れは洪水のような奔流に変わった。防護服など装備をそろえて調査に臨んだが、一家が移動した通路は高さがわずか70センチしかなかった。通路の高低差も激しく、途中で断念せざるを得なかった。

翌2019年7月、入り口のトンネルから、1キロほど南に離れた場所で「発掘」を始めた。そこが一家が解放までの1年を過ごした場所【衛星写真B】だった。カフェが並ぶ手前の通りのマンホールから入り、命綱を結んでモグラのように進んだが、途中、戦後に水流を調整するために造られた壁を壊さなければならなかった。

ユダヤ人一家が隠れた下水道の内部を調査する研究者たち
ユダヤ人一家が隠れた下水道の内部を調査する研究者たち=Andrii Ryshtun

一家が残したランプや皿、湯を沸かすポット、スコップやナイフが見つかった。食料をネズミから守るために壁に掘られた穴は、ビール瓶を並べてふさがれていた。そばに土盛りで通路をふさいだ場所があり、父親の手記と一致した。

夫の電気技師オレクサンドル・イワノウさん(37)を含め調査チームは5人。ティチカ助教は「一画の広さは5人で立つのが精いっぱい。10人がここに1年もいたとは信じられなかった」と話す。

見つかった土盛りは、1944年にソ連軍がリビウに迫り、ドイツが地下シェルターを掘り始めたとき、近くに潜む自分たちが発見されないよう一家が造ったものだ。地下生活の間、当初の21人のうち2人が劣悪な生活環境のため亡くなり、耐えられずに地上に出た9人はホロコーストの犠牲になった。残りの10人が生き残れたのは、彼らから対価を受け取り、食料や水を運んだポーランド人、ウクライナ人の水道局作業員3人の協力があったからだ。

ユダヤ人一家が隠れた下水道の内部を調査する研究者たち
ユダヤ人一家が隠れた下水道の内部を調査する研究者たち=Andrii Ryshtun

一家のほかにもホロコーストを生き延びた人はいた。コルブさんはその数を600人から2500人の間とみる。ポーランド人だとする身分証を入手したケースなどが知られている。ウクライナ独立に期待をかけて当初はドイツの侵攻を歓迎した東方典礼カトリック教会も、ユダヤ人弾圧には抗議し、ユダヤ人の子どもたちを教会や修道院にかくまった。

リビウでのホロコーストは今も政治利用の対象だ。独ソ戦の開始当初、独立実現に期待したウクライナの民族主義組織がドイツの侵攻に協力した経緯は、ソ連時代からウクライナの独立運動をナチズムに結びつけるプロパガンダに利用されてきた。ロシアのプーチン大統領がウクライナ侵攻の目的に「非ナチ化」を掲げて世界中の人の首をひねらせた背景にも、政権が今も教育、国営メディアを通じてロシア国民にこうした刷り込みを続けている事情がある。民族主義組織は結局、リビウを占領したドイツに弾圧されたが、当時の資料の多くはロシア側にされたまま。コルブさんら研究者は政治に惑わされない地道な検証が必要だと訴える。

地下の下水道の調査は、ロシアの侵攻で中断を強いられている。「歴史は記憶され、語り継がれなければならない」とティチカ助教は言う。今では一家がたどった全地下水路の探索が戦争後の「自分の責務」だと考えている。