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歯科医師の松本敏秀さん ミャンマーへ届けた歯ブラシ22万本、手弁当で続ける思い

Breakthrough 突破する力 更新日: 公開日:
ミャンマーの子どもに歯磨きや手洗いの指導をする松本敏秀さん(左)
ミャンマーの子どもに歯磨きや手洗いの指導をする松本敏秀さん(左)=2020年2月、ミャンマー・カチン州モガウン、本人提供

ミャンマーの貧しい地方の子どもたちに歯ブラシを届けて、歯磨きの仕方を教える。そんな活動を10年以上も続けている歯科医師がいます。福岡県在住の松本敏秀さん(66)。近年は、ミャンマーからタイへ逃れてきた避難民の子どもたちを支えています。ミャンマーの人たちに対する松本さんの強い思いが、息の長い活動の原動力になっています。(鳥尾祐太)

使い込まれたスーツケースを開けると、ポリ袋に入った「歯ブラシ」がビッシリと詰まっていた。

7月中旬、福岡空港国際線ターミナル。一風変わった荷物の持ち主は、歯科医師の松本敏秀さんだ。「1700本あります。あとは、歯磨き指導用の人形とお土産。服は、2日分だけですね」

目的地はタイ北西部メソト。首都バンコクから約500キロ、バスで約9時間北西に進んだ場所にある。隣国ミャンマーとの国境に位置し、多くのミャンマー人移民が暮らしてきた街だ。

2021年2月にミャンマーで国軍がクーデターを起こした後、国境地域では国軍と民主派武装勢力の戦闘が激化。戦闘や弾圧を逃れようと避難民が急増した。メソトに滞在するミャンマー人は現在10万人とも、数十万人とも言われる。

ミャンマーとの国境に近いタイ北西部へ向けて出発前の松本敏秀さん
ミャンマーとの国境に近いタイ北西部へ向けて出発前の松本敏秀さん=2024年7月、福岡空港国際線ターミナル、鳥尾祐太撮影

松本さんは今回、15日間滞在した。2日間で約900人の避難民の子どもを無料で診て、日本から持ってきた歯ブラシを渡し、磨き方を教えた。日本の基準では6割以上は治療が必要な状況だったが、実際にクリニックにつなげられるのは1割ほど。人も、お金も足りていないからだ。だからこそ、「予防」の大切さを訴えている。

「歯ブラシ1本からの健康作り」。松本さんが掲げるスローガンだ。

「まともな設備や薬、マンパワーは手に入らない。口の中をきれいにする、手を洗う。これだけで病人をかなり減らせる」。虫歯や歯周病のほか、風邪やインフルエンザなど感染症全般の予防につながるという。

ミャンマーの貧しい地域では、歯ブラシを使う習慣がない人も少なくない。現地で調達すると、毛の質が悪く、子ども用のサイズが見つけにくい。

だから、日本からミャンマーに歯ブラシを届ける。そんな活動を10年以上続けている。クーデター後は、ミャンマー人が多く暮らすメソトに拠点を移した。これまでに届けた歯ブラシは22万本。無償の巡回診療で訪れた場所は200カ所にのぼる。報酬も、寄付も受けていない。ずっと手弁当で活動を続けてきた。

留学生の思いを継ぐ

ビルマ(ミャンマーの旧国名表記)の響きには、幼少期から耳なじみがあった。「多くの日本人が亡くなったと聞いていた」。松本さんは北九州市で生まれ育った。第2次世界大戦中、ビルマ戦線では約19万人の日本兵が犠牲になったとされるが、その多くが門司港(北九州市)から出征していた。ただ、それ以上の縁はなかった。

転機は1991年。九州大学病院の小児歯科で働いていたとき、知人だった太宰府天満宮の宮司の紹介で、ミャンマー人留学生の男性を受け入れた。先代宮司のアメリカ留学時代の友人の息子だった。

九大で博士号を取得した男性は、松本さんの後輩の日本人歯科医師と結婚。夫妻は2003年、ヤンゴンで歯科クリニックを開業した。松本さんも現地を訪れ、サポートした。だが、軍政下で貧しい状況に驚いた。「(停電で)真っ暗で何もない」。それでも、出会った人たちの優しさにひかれた。

当時のミャンマーで歯医者に通える人は限られていた。だから、経営を軌道に乗せた後で、若い歯科医師の育成と巡回診療に力を入れる。夫妻はそんな計画を立てた。しかし、妻が3年後にがんで他界。2人の子を育てるため、男性はクリニックをたたみ、給料の安定した日系企業に就職した。支援を続けるつもりでいた松本さんはこのとき、思った。「日本に歯科医師は十分いる」。いつか日本を出て彼らの思いを継ぐ。そう決めた。

2011年、計画を実行に移す。当時54歳。「動けるうちに動こう」。福岡県糸島市で15年前に開業していた自分のクリニックを閉じ、ミャンマーでの活動を模索し始めた。

チャリティーの歯科診療をする松本敏秀さん
チャリティーの歯科診療をする松本敏秀さん=2013年11月、ミャンマーのシャン州アウンパン、本人提供

だが、最初はうまくいかなかった。現地の歯科医師と会う約束をしても、キャンセルになったり、そうかと思えば、今から巡回診療に行かないかと突然誘われたりした。日本にいる間に埋めたスケジュール表にはバツ印が並んだ。ヤンゴンで開業しようとしていたが、軍政からの民政移管が進むなか、急速な経済発展で家賃は高騰。断念せざるを得なかった。

松本さんの妻で、活動をともにする日本語教師のさえさん(65)は「(夫は)何でも先に先にやりたい人だったけど、全然予定通りにいかない。打ちのめされていた」と振り返る。ただ、諦めなかった。「予定を立てても仕方ない。行ってから決めよう。自分が現地の時間軸に合わせないと」。発想を変えた。

急なスケジュール変更や誘いにも対応できるようになり、行動範囲が広がった。診療に必要なミャンマー語も学び、仲間を増やしていった。元留学生の男性は、通訳として支えた。「先生は自分が決めたことは何があってもやめない、心が強い」

2012年からは、1年の半分をミャンマーで過ごし、開業時に蓄えた貯金を切り崩しながら学校や孤児院で歯磨き教室を開き続けた。少数民族の多いシャン州、カチン州、カレン州など、歯医者のいない村に足を運び、全土を駆け巡った。

「1回目に歯磨きや手洗いのやり方を教え、2回目に行くと、(子どもたちが)口をぱーっと開けて『やっているよ』とアピールをするわけ。それがかわいいんだよね。また来ようと思う」。この生活をずっと続けていく、そのつもりだった。

突然のクーデターで決断

だが、2021年2月1日を境に、松本さんの生活は一変した。

午前8時半(現地時間)ごろ、ミャンマー国軍が「国家の権力を掌握した」と宣言した。前年の総選挙では、民主化指導者として知られるアウンサンスーチー氏が率いる与党NLD(国民民主連盟)が改選議席の8割以上を得たが、国軍は「不正があった」と主張。スーチー氏らを拘束し、実権を握った。

松本さんはこのとき、日本にいた。「許されるはずがない。だから、(国軍の支配は)長く続くと思っていなかった」。だが、現実は違った。若者たちは街中で非暴力の抗議をデモを展開したが、軍が発砲。平和的な運動では状況を変えられないと考えた若者らが武器を取り、少数民族の武装組織と協力。国軍と戦闘を続けている。

現地の人権団体AAPP(政治犯支援協会)によると、これまでに5900人以上の民主活動家や市民が国軍に殺害された。松本さんが訪れた地域の多くが、戦場と化した。現地での活動は絶望的になった。「僕が日本にいるうちに(状況が)どんどんひどくなって」

コロナによる渡航制限が落ち着いた2023年10月。一つの決心をする。それが、タイにあるミャンマー国境の街、メソトに拠点を移すことだった。現地のNPOと協力して活動を始めた。

移民学校での歯科検診の後で、子どもたちと写真に収まる松本敏秀さん(中央)
移民学校での歯科検診の後で、子どもたちと写真に収まる松本敏秀さん(中央)=2024年6月、タイ・ターク県ポップラー、本人提供

訪れるたびに痛感するのが、長引く戦闘の影響だ。増え続ける子ども、荷物をいっぱい背負った避難民の家族、病院で見かける手足のない大勢の若者たち……。国連は、クーデター以降に避難民になった人たちは、ミャンマー国内だけで約270万人にのぼると推定。その数は2023年10月に戦闘が激化して以降、急増している。

何のために、自国民を空爆までして追い詰めるのか。避難民の姿を見ていると、こんな思いが募る。それでも、希望を捨てることは決してない。

「世界のどこかで生き延びた、とくに若い人たちに祖国を愛する気持ちがあれば、素晴らしい国として再出発できる。そのために、ミャンマーの現状を一人でも多くの日本人に知ってもらえるよう活動したい」

平和になったミャンマーに戻れることを信じ、子どもたちの健康を守るため、タイ国境に通う。